第三話
霧の深い朝、ルシエル平原はまるで白い海のように広がっていた。湿った草の香りと冷たく静かな空気が、世界を包み込む。目が見えないミリアにとって、視界のないこの場所は不思議と居心地が良かった。代わりに、彼女の他の五感は一層鋭く研ぎ澄まされ、草に触れる微かな震え、遠くで囁く風の音、そして心の奥に宿る誰かの想いを感じ取っていた。
そんな時、草原の中から迷い込んだ人の心の声が聞こえた。
『…誰か、いないのか?助けてくれ…!』
その声は焦りと恐怖で震えていた。ミリアはゆっくりと声の方向へと歩いていき、手を伸ばす。触れたのは、冷え切った青年の肩先。彼の心のざわめき、孤独が手のひらに伝わってきた。
「大丈夫、私がいます。怖がらないで」
ミリアの静かな声は、霧の中に優しく溶けていった。青年、アッシュはその声に支えられ、やがて不安の淵から少しずつ心を開いていく。目が見えることに甘えていた自分に気づき、今は目の見えないミリアに導かれる立場であることを受け入れた。
「君がいてくれて、本当に助かったよ」
霧に包まれた広大な草原の中、二人は静かに歩み寄った。
霧の中、二人の足音だけが静かに響く。アッシュはまだ少し戸惑いを隠せない様子だったが、ミリアの落ち着いた声に安心感を覚えていた。
「ねえ、ミリア。どうしてこんなに冷静でいられるんだ?俺だったら、きっとパニックになってたと思う」
ミリアは微笑みながら、ゆっくりと答えた。
「目が見えなくなってから、怖いこともたくさんあったけど、代わりに色んな”想い”が分かるようになったの。目には見えないけど、感じることができるもの。だから、恐怖よりも優しさやそういう想いの方がずっと大きく感じられるの」
アッシュはその言葉に心を動かされた。彼は自分がどれだけ目に頼ってきたかを思い知らされたのだ。
「教えてくれ、ミリア。君はどうやって僕を見つけてくれたんだ?」
ミリアは手を伸ばして、アッシュの手を包み込んだ。
「目じゃなくて、あなたの心の声で。あなたの不安や恐れが私に伝わってきたの。だから、私はあなたを導くことができた」
その言葉にアッシュは涙をこぼしそうになった。今までずっと誰の助けも借りず生きてきた彼は、自分がこれまで見落としていた、誰かを頼ることの大切さに気づき始めていた。
やがて霧が少しずつ晴れ、柔らかな陽光が草原を照らし始める。二人の影が長く伸びてゆっくりと地に溶け込む中で、アッシュは力強く言った。
「君のおかげで、僕は前を向けそうだ。ありがとう、ミリア」
ミリアは穏やかに頷き、二人は草原の出口へと歩み出した。
霧がすっかり晴れ、平原の向こうに遠く青い山々が見え始めると、アッシュの顔に初めて安堵の色が浮かんだ。彼は深く息を吸い込み、草の香りと土の湿り気を感じていた。
「ミリア……君がいなかったら、僕はまだあの霧の中を彷徨っていただろう。目が見えるはずの僕が、心の迷いで道を見失っていたんだ」
ミリアは静かに頷いた。
「誰にでも迷いはあるけれど、大切なのはそこからどう立ち上がるかだと思う。あなたはもう、その一歩を踏み出してる」
アッシュはミリアの手をそっと握り、彼女の温もりを確かめた。
「不思議だな。目が見えない君の方が、僕よりずっと遠くを見ている気がするよ」
ミリアは少し照れたように微笑み返した。
「ありがとう。でも私の力は、ほんの小さな助けに過ぎないよ」
二人は草原の端まで歩みを進めた。そこで、アッシュはふと足を止めて言った。
「ここで僕は道を変えるよ。旅の続きを見届けてほしいけど、僕は自分の居場所を探すんだ。君は君の道を、僕は僕の道を歩く」
ミリアの胸に少し寂しさがよぎったが、すぐにその心を優しい言葉で満たした。
「ええ、そうね。私たちは違う場所で、それぞれの課題と向き合いながら生きていかなきゃいけない」
アッシュは真剣な眼差しでミリアを見つめた。
「君はきっと、この先もたくさんの人の心を支えていくんだろう。だから僕は、君にできないことをやってみたいんだ。見えるものだけじゃない、自分の中の光を探すよ」
ミリアは力強く頷いた。
「きっとまた会えるよ。ありがとう、アッシュ。あなたと出会えてよかった」
別れの時が近づき、二人は静かに手を放した。風が吹き渡り、草がゆらゆらと揺れている。
アッシュは時々振り返りながらも、歩みを進める。そしてミリアもまた、自身の旅を続けていく。
霧が晴れた後の草原には、希望の風が優しく吹き渡っていた。