第二話
霧の町に着いたのは、夕暮れ時だった。
湖を中心に広がる小さな町は、まるで空と水とが手を取り合って眠っているように、静かだった。どこもかしこも、白い靄が立ち込め、遠くの人影すらぼんやりとしている。通りすがる者は無言で、どこか怯えたようにミリアを避けていった。
「……ここは、少し寂しいですね」
杖をつきながら、ミリアはそっとつぶやく。けれど、その声に応えるものはなかった。ただ湖から吹いてくる微かな風が、霧の中を揺らした。
道ばたに座る老人。湖に向かって立ち尽くす少女。壊れた窓を直す店主。誰もが口を開かず、目も合わさず、まるで時間が止まったかのように日々を繰り返していた。
宿に泊まった夜、ミリアは古びたランプに触れた。錆びついた真鍮の感触が、ふっと手のひらに馴染む。目を閉じ、指先に心を澄ませる。
──ランプの灯りがまだ温かかった頃、家族が囲んだ団らんの記憶。 ──誰かの笑い声、眠る子を見守るまなざし。 ──そして、何かを喪ってしまったあとの、沈黙。
ミリアはその想いを、胸の奥にそっとしまった。
翌朝、町の広場にぽつんと佇む石碑を見つけた。そこには名前も、言葉も刻まれていない。ただ無言の祈りだけが宿っているようだった。ミリアは静かに手を触れる。すると、霧の奥から声が聞こえた。
「……あなた、何をしてるの?」
小さな女の子の声だった。振り向かなくても、ミリアは優しくほほえんだ。
「こんにちは。石が、少し泣いていたんです。だから、話を聞いていただけです」
少女はしばらく黙っていたが、やがて近づいてきた。
「この町、ずっと昔に……声を失ったんだって。湖で事故があって、それ以来……。みんな、話さなくなった。忘れたふりをして、心も閉じちゃった」
「そうですか……とても、苦しかったんですね」
ミリアの声に、少女の肩が小さく揺れた。
町の広場で少女と話した後、彼女の紹介でとある老人の元を訪れた。ミリアは老人に促されるように、静かな家の一室へ案内された。部屋の隅には古ぼけた絵巻物が掛けられていた。壁際の棚には、ひび割れた陶器の壺が一つ置かれている。老人はその壺を手に取り、静かに話し始めた。
「この壺は、事故で亡くなった者たちの想いを封じたものでな。村人がそれぞれの思いを込めて作ったものなんじゃ」
壺に触れたミリアは、ひんやりとした冷たさの中に強い悲しみと、遠い日の優しさを感じ取った。壺の中には、言葉にならない後悔や、守りたかったものへの切なる願いが宿っている。
「事故の夜、湖はまるで怒り狂ったかのように荒れ狂い、村を飲み込んだ。多くの命が消え、家も畑も流されてしまった。何よりも、あの悲劇を忘れまいと、村人は声を潜めてしまったのじゃ。恐怖と悲しみで心が凍りつき、言葉を交わすこともままならなかった」
老人は、目を細めながら続けた。
「けれどな……今でも毎年、村の人はこの壺の前に集まり、亡き者たちに想いを捧げる。昔の笑い声や温もりを、決して忘れぬようにと」
ミリアはそっと壺に手を添え、つぶやいた。
「あなたたちの想い、きっと届きますよ。私はそう信じています」
老人は静かに微笑んだ。
「お前さんの優しい心が、この町に新たな風を吹き込んでくれるといいんじゃが」
村に滞在した数日間、ミリアは人々一人ひとりの手に触れ、彼らの抱える小さな痛みや願いを感じ取った。
ある老婆は、夫を事故で失い、寂しさのあまり毎晩泣いていた。ミリアはその老婆の大切にしていた古い指輪に触れ、夫の穏やかな想いを読み取り、優しく話しかけた。老婆の目に涙があふれ、初めて口元に微笑みが戻った。
また、湖の近くで生計を立てる漁師は、事故以来水に恐怖を抱き、網を投げる手が震えていた。ミリアは彼の古い網の繊維に触れ、恐れの影に隠れた希望を感じ取る。何度も話を重ねるうちに、漁師は少しずつ湖に向かい合う勇気を取り戻していった。
子供たちも、ミリアの穏やかな語りかけと、触れるだけで感じ取る彼女の優しさに惹かれ、近寄っては笑顔を見せた。彼らの笑い声は、かつて失われた村の明るさを取り戻すように響いた。
住民たちはやがてミリアを慕い、その小さな心遣いが村全体に温かな連鎖を生み出していった。彼女の存在が、あの日の悲しみの影を少しずつ溶かし、未来への希望を灯していったのだ。
ある夜、広場での小さな集いの中、村長は穏やかに言った。
「ミリアさん、あなたがいてくれて本当に良かった。あなたの優しい心が、私たちの村に新たな風を吹き込んでくれました」
ミリアは静かに微笑み、こう答えた。
「私は、何もしていませんよ。ここにいる皆さんが、それぞれの力で少しずつ前を向き始めているのです。私ができるのは、その想いにそっと寄り添うことだけです」
その言葉に、村人たちの顔には安堵の色が広がった。
ミリアはその夜、静かに窓の外を見つめ、風の音に耳を澄ました。村に新しい季節の風が吹き始めていた。