第一話
風の抜ける小道に、ミリアの細い影がひとつ。 その足元には小石が転がり、道端には花が揺れていた。見えはしない。だが、花の香りはちゃんと鼻先に届く。
「……ここが、風の止まる村……で、いいのよね?」
誰にともなく問いかけたその声に、応える者はいなかった。 けれど、すぐに近くの家からドアが軋む音がして、何かを運ぶ人の気配がする。
旅の途中でとある人から聞いた、小さな村。 「その村には、昔から“風見の塔”という塔があってね──」
ふと、足元に何か落ちていることに気付く。どうやら小さな木彫りの人形のようだ。彼女が手を伸ばし、ミリアの指先が木彫りの人形を包み込んだ瞬間、それはほんのりと温もりを帯びたように思えた。
かすかに震える胸の奥──そこから流れ込んでくるものがある。 それは声ではなかった。言葉にもならない、もっとやわらかい感情の粒。 小さな祈りのような、誰かの「寂しい」という想い。
それは、動物のかたちをしていた。おそらく猫だろう。丸い耳と、小さく笑ったような口元。粗削りだが、どこか懸命に作られたような、子どもらしい歪みがあった。
「きっと、誰かが──大切な人のために作ったもの」
ミリアは立ち上がり、また歩き出した。足元に気をつけながら、ゆっくりと進む。
村は静かだった。まるで、風が止まってしまったように。
やがて、一つの家の前にたどり着く。木の戸が少しだけ開いていた。中からは、何かを拭う布の音、薪が割れる音、人の営みの気配がした。
「……すみません。誰か、いらっしゃいますか?」
ミリアが呼びかけると、戸の奥から年配の女性の声が返った。
「はいよ、誰か来たのかい? ──まあ……お嬢ちゃん、旅の人かい?」
「あの……この村の方ですか? お聞きしたいことがあって……」
ミリアは手に持った木彫りの人形を、そっと前に差し出した。もちろん見えてはいない。けれど、それを差し出すことが今の自分の役目だと、直感でわかっていた。
戸の向こうから、女性が人形を受け取る気配がする。そして、少し間をおいて──ため息まじりの声が漏れた。
「……ああ、この子は。リトの……」
「リトさん、という方が?」
「村の子さ。母親が亡くなってね、ずっと塞ぎ込んでるんだよ。この人形も、きっと……母親に渡したかったんだろうに」
女性の声には、どこか優しさと哀しさが混じっていた。
「そのお子さんに、お会いすることは……できますか?」
「……ああ。でもね、リトはもう何日も、塔のそばから戻ってこなくてね……。あの風見の塔のてっぺんで、誰かの帰りを待ってるのさ」
「──塔に、行ってみます」
ミリアはそう言い、礼を述べて再び歩き出した。人形は女性に託した。その“想い”は、きっと本来届けられるべき人のもとへ返る。 けれど、彼女の中にまだ残っているのは、もう一つの“呼び声”だった。
それは──塔から聞こえる、助けを求める小さな声。
ミリアの足は、風の止まる村の奥、そびえ立つ古い塔へと向かっていた。
風見の塔は、村の外れにあった。 錆びた羽根車がてっぺんに乗った、石造りの古い見張り塔。風が吹けば羽根が回る──かつてはそうだったのだろう。けれど今は、羽根も軋まず、空気は止まっていた。
塔の階段を上るたび、年季の入った木材がみしりと鳴く。 塔の上部には屋根があり、その下にぽつんと人影が見えた。
「……誰?」
かすれた声だった。少年のものだ。 声の主──リトは、まだ幼さの残る十歳前後の少年だった。 ぼさぼさの髪、埃まみれの服、でもその瞳だけは、じっとどこか遠くを見つめていた。
ミリアはゆっくりと近づき、名乗った。
「私はミリア。旅の途中、この村に立ち寄りました」
「……別に、助けなんていらない。ほっといてよ」
リトの声はとげとげしかった。 けれどその胸の奥には、震える小さな叫びがあった。
「あなたが作った猫の人形。あれ、道に落ちてたんだよ」
「……!」
少年が小さく息をのむのがわかった。
ミリアはそっと座り、手を広げた。空を指さすように。
「わたしには、物に宿った“想い”が見えるの。あの人形は、あなたのお母さんへの贈り物だったのね」
「うるさいな……そんなの……見えるわけないだろ」
「うん、たしかに“目”では見えない。でも、感じることはできる。だから、あなたの悲しみも──きっと、感じられる」
リトの肩が震えた。唇を噛み、何かをこらえるように顔を伏せた。
「……お母さんは……いなくなった。突然、病気で……何も言えなかった。渡したかったのに……ずっと作ってたのに……!」
少年の胸の奥にしまわれていた言葉が、あふれるように零れ落ちた。 それは、誰にも言えなかった本当の気持ち。怒りと、悔しさと、寂しさ。
ミリアは静かに手を伸ばし、リトの手を取った。
「この塔で、ずっと風を待っていたのね。でも……風が止まっているのは、きっと、あなたの心が止まっているから」
「……?」
「だから、今──あなたの想いに触れさせて」
そう言って、ミリアはリトの胸元にある、小さなペンダントにそっと触れた。 それは母親が最期に遺した、小さな水晶の飾りだった。
──その瞬間。
やさしい光が、ミリアの指先から広がった。 音もなく、香るようなぬくもりが空気に満ちていく。 水晶の奥から流れ込む、“母の想い”。
『ごめんね、リト。急にいなくなって、ごめんね。……でもね、あなたの笑顔が、私の全てだったんだよ』
それは言葉ではない。けれど確かに、ミリアにも、リトにも伝わってきた。 やさしく、あたたかく、懐かしい記憶の色。 たとえば朝の匂い。たとえばおかゆの湯気。たとえば寝ぼけた髪を撫でる手のひら。
リトの瞳から、涙がぼろぼろと溢れた。
「おかあさん……」
ミリアは黙って寄り添っていた。 彼の背をそっと撫でるだけで、十分だった。
すると、穏やかな風が吹き始めた。
錆びた風見羽根が、ゆっくりと回る。
「……ありがとう」
少年が、小さな声でそう呟いた。 それは、母親への言葉でもあり、ミリアへの言葉でもあった。
ミリアは微笑み、空を見上げた。見えないその空の、広がりを感じながら。
こうして──
止まっていた風が、またゆっくりと村に吹き始めた。
それは、誰かの心がそっと動き出したかのような、あたたかい風だった。
ミリアが置いていったものは、目に見えなくても、ちゃんと届いていたのだ。 リトは空を見上げ、少しだけ笑ってみせた。 その笑顔に、風がくすぐったく答えたような気がした。