空欄のまま
1章 失くした記憶
こんにちは
久しぶり
この前、会社の健康診断で
血糖値が高いと言われたんだ
どういう生活をしたら
数値が改善するのか教えてよ
昼休み。
高校の同級生、村岡朔也からきたラインを、松下奈江は、ぼんやり読んでいた。
何よこれ、健康相談?
奈江は飲みかけていたコーヒー牛乳を一気に吸い上げると、空になった紙パックを、叩きつけるようにゴミ箱に捨てた。
久しぶりに連絡してきて、もしかして、村岡くん、私が離婚した事、知ってるのかな。
村岡は奈江が住んでいる市役所の戸籍係にいた。
3ヶ月前、転居届けを出しに行った時、村岡からしつこく声を掛けられ、仕方なく連絡先を教えた。仕事を真当していた村岡は何も聞かなかったけれど、私が離婚した事は、そのうち嫌でもわかるだろう。まっ、そんな事、気にしたって、今さらしょうがないけれど。
奈江は携帯をカバンにしまうと、休憩室を出て仕事へ向かった。少し早めに、夕方の注射の準備をしていると、
「検査って何時から?」
ひとつ下の後輩看護師、三浦唯が、奈江に聞いてきた。
「13時だったかな。」
奈江がそう答えると、2人は一緒に壁に掛かる時計を見た。
「昼は?」
「さっき食べたよ。」
「どうせまた、コーヒー牛乳で終わりなんでしょう?」
唯は笑って奈江のお腹を触った。
「アハハ、なかなか痩せないね。」
奈江はポコっと出た下腹を強調するように見せると、唯の顔を見て笑った。
「典型的な胃下垂だね。コーヒー牛乳でだけでそこまで出るなら、ちゃんとご飯食べたら、漫画みたいになるんじゃない?」
唯はそう言ってまた奈江のお腹を触った。
「そうかもね。それに私さ、内膜症があるみたいで、すごくお腹が張るんだよね。今週は絶不調。」
「えっ、子宮の事?」
「そう。」
「生理痛もひどいし、もういらないかなって、最近考えてるの。」
「奈江、ここは女の宝だよ。」
唯がそう言うと心配そうに奈江の顔を見た。
「どこがよ。」
奈江は唯の心配を吹き飛ばすように、口に大きく開けて笑った。
13時。
患者を乗せた車椅子を押してレントゲン室の前に行くと、
「ちょっとさぁ、タイミングが悪いって!」
苛ついた放射線部の技師長が、奈江と患者に向かって、きつく言い放った。奈江が確認するように腕時計を見ると、ちょうど13時を過ぎたばかりだった。これのどこが、タイミングが悪いのよ! 奈江はそう思い、患者の乗った車椅子のグリップを持って、待ち合いの席まで後ずさりした。そこに並ぶ椅子に腰を掛けようとすると、よいしょ、と小さな声が出た。
「寒くないですか?」
奈江は患者に声を掛ける。
「寒くないよ。あんたこそ、半袖で寒くないのかい?」
少しして、レントゲン室の扉が開くと、中から高校生の女の子が、車椅子に乗って廊下に出てきた。母親らしき女性が、心配そうに技師長に顔を向ける。
「気を付けてね。」
さっきまで苛ついていた技師長は、制服の女の子とその母親に優しく声を掛けている。
「10番!」
技師長にそこに入るよう顎で指示された奈江は、閉められた重い扉を、足で押さえながらゆっくり車椅子を中に入れた。敷居の段差を車椅子のタイヤがガタンと乗り越える。
「早く、そこに寝かせて。」
技師長は急かすように奈江に指示すると、ブツブツ何か言いながらその場を離れた。
検査を終え、エレベーターの到着を待っている時、
「なあ、わしら、嫌われ者同士だな。」
車椅子に乗っている老人が、奈江にそう言った。
「えっ?」
奈江は老人の顔を覗くと、
「あんたさ、顔が腐ってる。」
そう言って小さく笑った。
5年間の結婚生活は、3ヶ月前に終わりを迎えた。
子供がいない夫婦の夫は、わりと簡単に別れを切り出した。
むこうが浮気をしていた事は知っていたけれど、体の関係はないと言い張れば、それは不倫にはならないと、元旦那は開き直った。
これから夫婦としてやってく自信がない。そう言う理由に置き換えられたら、無理に引き留めるわけにはいかないよ。気持ちがなくなっているのは、こっちをだって同じなのに、こういうのって、先に言ったもん勝ちなのかな。言われた方は、まるで蟻地獄に足を踏み入れた様に、底なしの地面から這い上がる事ができないでいる。
どこで知り合ったのか知らないけれど、野生動物の様に、本能のまま体を求め合って浮気された方が、理性が働いた恋愛をされるよりも、まだ諦めがつく。
結局自分は、誰も満足させる事のできない、欠落した人間なんだろう。元々結婚生活なんて、こんな人間にむいていなかったの。1人で生きていく事が当たり前だと思っていれば、そこに生えている雑草の様に、男だの女だのこだわらず、黙って踏みつけられて、枯れていくのを待って暮らしていけたのに。
もっともらしい理由なんか並べなくても、別の女の方が相性がいいと言えば、仕方のない事だとすんなり諦めがついたよ。とってつけたような言い訳を言ったばっかりに、出会った頃からの記憶の全てが、黒く塗り替えられた。
私が失った時間は、どこから取り戻せば、キレイに元に戻るのだろう。
この町に戻ってきてすぐに、中学の頃の同級生と再会した。懐かしさと運命を感じ、すぐにその人と同棲の様な生活を始めた。なんの疑いも持たなかった付き合って4年目の冬。彼から突然別れを告げられた。
誰も信じられず、仕事に没頭していた1年後、別れた夫と知り合い、すがるような気持ちで彼を好きになった。
言い訳なんかするつもりはない。全部自分が決めた事だから。
22時。
残業を終え、家に帰る途中のコンビニで、奈江はカップラーメンとビールを買った。
顔が腐ってるのは、この生活のせいか。
昼間に老人に言われた事を思い出し、奈江は小さくため息をついた。
離婚してから、好きな物を好きな時間に食べる生活をしていると、料理もせず、適当な時間に味の濃いものばかりを選んで過ごす様になった。どうせ守るものなんてないんだし、健康なんか考えなくてもいい。これからは標準的な生き方をしなくてもいいんだと開き直ると、不規則な看護師という仕事を選んだ事の方が、案外好都合だった。
どんどん生活が荒んでいく様でも、休みの日には何かに取り憑かれた様に掃除をしているせいか、部屋の中は誰もいないかのように、さっぱりとしていた。
いくらゴミを出したって、またすぐに捨てるものが溢れてくる。わかっているのに、またゴミを増やすような生活ばかりを繰り返す。
奈江はレジの前にあった、桜餅をひとつ手にとってカゴに入れると、村岡からラインがきていた事を思い出した。
「お客さん、お金入れて。」
「あっ、すみません。」
奈江は店員の声にハッとし、口の空いた現金投入口に1万円を入れた。
「ボタン押さないと終わらないよ。」
「ごめんなさい、そうだった。」
奈江はレシートとジャラジャラとお釣りを手で掴むと、レジを後にしようとした。
「ちょっと、お札は?」
店員が奈江を呼び止める。
「ヤダ、すみません。」
奈江は慌ててお札を握り、店員に向かって頭を下げた。
「大丈夫?」
店員は奈江の顔を覗いた。
「ごめんなさい、千円札だと思ってて。」
「お酒買ってるけど、まさか未成年じゃないでしょう?」
その店の店長だと思われる中年の男性は、奈江をからかうようにそう言った。
「ヤダ、どう見ても、おばさんじゃないですか。そういえば、最近そんな動画がありましたよね?」
店員は笑って、
「お客さん、高校生かと思ったよ。こんな時間に考え事をしてるなんて、テストの点数でも悪かったのかなって。」
店員はまた奈江をからかった。
「ありがとう、店員さん。私もう32です。お酒は正々堂々と飲めますから。」
奈江は笑って頭を下げた。
「こんな時間から、あんまり飲み過ぎるんじゃないよ。」
店を出てから携帯を取り出し、歩きながら村岡のラインを読み返していた。
「好きな物、好きなだけ食べたら?」
奈江がそう送信すると、すぐに既読がついて、
「それでも看護師かよ。」
村岡から返信がきた。
そうだよ、どうせ私は腐っているんだから。わざわざそんな事、言わせないで。
「市役所の保健師さんにでも聞いたら? 坂本先輩って、そこにいるんでしょう?」
奈江はそう返した。
「松下なら、おもしろい答えが聞けると期待したのに。」
バカなの、本当に。そう思いながら村岡から返信を読んでいると、奈江の電話がなった。
「松下、まだ起きてるのか?」
相手は村岡だった。
「起きてるけど。」
奈江は腕時計を見る。時計の針は22時半を回っていた。
「もう寝るのか?」
「これから帰ってご飯。」
「ひどい生活してるんだな。」
「どういたしまして。」
「松下は1人になったんだろう?」
「だから何?」
「そんな性格だから、男が逃げるんだよ。」
「それはどうも。」
「冗談だよ、ごめん。」
「もう切るね。」
「あっ、待って。明日、空いてるか?」
「空いてない。」
「仕事か?」
「まあ、いろいろ。」
「遅くてもいいからさ、松下と少し話ししたくて。」
「健康相談なら、私は受けないよ。」
「そうじゃなくて、あのさ、」
「ごめん、今は誰とも話したくないの。おやすみ。」
奈江はそう言って電話を切った。
引っ越したばかりの小さなアパートの鍵を開けると、電気も付けず台所へ向かった。流しの上にある蛍光灯の紐を引っ張ると、ぼんやりした灯りの中で、買ってきたビールを立ったまま飲んだ。
技師長のやつ、何様だよ! 自分だけが特別な存在だとでも思っているのか! そうやって人を下に見てるあんたは、情けない背中をしてるって事に、さっさと気がつけよ!
奈江はため息をついた。
男なんてみんな同じか。都合のいい時だけ優しくして、面倒くさくなると、急に偉くなる。
カバンから携帯を取り出して充電すると、その場で服を脱ぎ、お風呂場へ向かった。
準夜勤が終り、朝方に眠りかけた金曜日。
奈江の携帯がなった。
「もしもし、松下さん。」
「おはようございます。」
「ごめんなさい、今日は休みだったわよね。」
「あっ、いえ。」
師長の声のトーンで、奈江はまたかと思った。
「松下さん。悪いけど、今日の休みを来週にしてくれないかな? どうしても、日勤のメンバーが足りなくて。それに今日に限って、助手さん達がみんな休みを取ったのよ。」
今さら休みがほしいと抵抗しても、家庭のない私が
断る理由がない事を、師長は知っている。ついこの間までは、妊娠するタイミングをお節介なほどに言ってきたのに、私が独身に戻った事を知ると、自由に動かせる兵隊増えて、一番喜んでいるは、この人なのかもしれないと思う。
女はマウントを取るよりも、不幸マウントをつけて笑っているほうが、本当は好きで好きでたまらないんだ。
「そうですか。わかりました。急いでそちらへ向かいます。」
奈江は勢いよくベッドから起き上がると、少しふらつきながら、洗面所へ向かった。
鏡の中に映る自分の顔は、本当に腐って見える。
まるで、暗い穴の中で、最後の時を待っている、失敗したミイラの様だ。奈江は頬を少し抓ると、痛みを感じるはずの頬は、自分のものではないような感覚を覚えた。あともう少しで、本当に朽ち果てるのか。
なんとか始業に間に合い、記録を読んでいると、
「松下さん、入院がくるから頼んだわよ。じゃあ、私は会議に行ってくるから。」
師長は奈江の肩をポンと叩き、そそくさと病棟を出て行った。
「ねえ、昨日は準夜じゃなかった?」
唯がそう言った。
「そうだよ。」
奈江は壁に掛かっている時計を見た。
「今日の夜は深夜でしょう?」
「そうだよ。」
「ねぇ、このまま働いたら、明日あたり死ぬよ。」
唯はそう言いながら、電話を取った。
「これから入院が上がってくるって。」
23時。
家に帰って2時間ばかり休息を取り、奈江は深夜勤に向かった。21時なんて時間に帰っても、シャワーを浴びる事さえも、億劫になる。日勤のまま残っていたほうが疲れなかったかも。奈江はなんとか気持ちを奮い立たせて、浴室へ向かった。
シャワーを浴びて出てくると、携帯がなっている。髪の毛を乾かしながら、誰? と着信を覗く。
なんだ、村岡くんか。
奈江は着信を無視すると、音は一度切れたものの、また着信音がなり続けた。仕方なく電話に出ると、
「寝てたのか?」
村岡はそう言った。
「これから仕事。」
「これから?」
「そうだよ。」
「松下は仕事と結婚したのか?」
「何よ、それ。」
「こんな時間なのに、横にならなくても生きていけるんだな。」
「私だって眠いよ。もう切るね。」
おやすみ、と奈江が言い掛けると、
「待てよ、あのさ、」
村岡は話し続けた。
「何?」
「大丈夫なのか、」
「だから、何?」
「明日、少し話せない?」
「無理だね。明日はゆっくり寝かせてよ。」
「そっか。それならさ、起きたらご飯でも食べに行こうよ。」
「行かない。」
「夕方くらいにはさすがに起きるだろう?」
「どうかな。」
「松下、どうしても話しがしたいんだよ。明日、また連絡するから。」
「勝手にすれば。私は絶対に電話に出ないからね。じゃあ、本当に切るから。おやすみ。」
2章 課題の答え
「ねえ、助手さん達、ストライキ起こしたらしいね。」
深夜勤の相手、広川真澄がそう言った。
「そうなの!」
奈江はびっくりして、広川の顔を見た。
「師長への当てつけらしいよ。助手は看護師の下請けではないって、この前松川さん達が怒ってた。」
「助手さん達、そんな話しになってたんだ。」
「そう。うちの師長はきついからね。私もそのうちこうなるかと、思ってた。」
「明日はくるのかなぁ、助手さん達。」
「さぁ、どうかな。朝の早出はいないって、思った方がいいかもね。」
「そうかぁ、困ったね。」
奈江はため息をついた。
「2人で朝の分担もしておこうか。」
「そうだね。」
記録を友だち読み終えた後、奈江は大きな欠伸をした。
「あっ、ごめん、だらしなかったね。」
奈江はそう言って目を擦った。
「だって松下さん、前の日は準夜勤で、今日はバリバリ日勤やってたんでしょう?」
「そう。」
「違反じゃない? それって。」
「違反にはならないのよ。勤務と勤務の間は、6時間以上、空いているからね。」
「だって松下さんが帰ったのは、何時?」
「21時。残業は私の都合だから仕方ないよ。」
「このままなら死んじゃうよ。」
「アハハ、そう簡単には死なないよ。」
「あの師長になってから、ここの退職者が続いているね。」
「なんでだろう。偶然なのかな。」
「違うよ。みんなやりきれないないんだって。」
「頑張るしかないか。私はわがまま言って、ここに拾ってもらったんだし。」
「松下さんは、なんで前の病院を辞めたの?」
「職場の仲間とうまくいかなくてね。」
「だから、ここへ?」
「そう。今、転職サイトなんかたくさんあるでしょう? 初めは派遣でいいかなって思ったんだけど、すごくいい条件だったから、それで。」
「環境が良くて働きやすい職場って言葉に、みんな騙されるのよね。本当にいい職場なら、人なんて自然集まってくるんだし、わざわざそんな事を書くって事は、実はヤバい職場なのよ。だいたいそういう職場だからこそ、人材会社の力を借りなきゃならないんし。ここの外来なんて、派遣だらけ。それだってみんなすぐに辞めるから、ある意味、本物のブラック企業。」
「裏と表があるのよね。」
奈江は時計を見ると、懐中電灯を持った。
「見回りに行ってくる。」
初めて就職した職場は、元旦那と出会った場所だった。足を骨折して入院してきた元旦那は、夜勤をしている時に、新人の奈江に手紙を渡した。
今思えば、そんな自分を見て結婚を申し込んだのは、看護師は誰の前でも白衣の天使でいると思ったのだろう。
就職して9年目。
昇格と別の部所への異動というタイミングで、元旦那は、2人でいる時間をあまり作らなくなった。
近くにいても、触れることさえない夜がくる度、寂しさという夢にうなされる。職場の人間関係の悪化と、張り詰めた責任感が重なり、とうとう眠れなくなった奈江は、精神科へ通院した。
離婚を切り出される1年前。
思い切って転職し、少しでも気持ちの余裕ができれば、やり直せるかもしれないと願った。こんな事をしなくても、元旦那の結論なんて、とっくに決まっていたっていうのに。
転職も離婚も、誰も私を責めたりはしなかった。悪いのは、気持ちが途切れた自分の方だって、元旦那も言っているくらいだから。だけど、相手が引けば引くほどに、自分が惨めになっていく。
奈江は真っ暗な廊下を静かに歩いていく。そっと病室の扉を開け、寝ている患者の足元を照らす。
布団が少し動くのを確認すると、ああ、まだ生きてる、そう思い、今度は点滴に懐中電灯の灯りを向ける。
機械がジーッとなる音と、頼りなくポタポタと落ちる雫を見ると、奈江は部屋を後にしようとドアに向かった。
「ちょっと、あんた。」
眠っていると思っていた患者から呼び止められた。
「まだ起きてたんですか?」
「あんたが来たから起きたんだ。」
「そうですか、すみませんでした。もう寝てくださいね。」
奈江は布団をかけ直し、おやすみなさい、と老人に言った。
「あんたの顔、腐ってるよ。」
「また、その話しですか。」
「俺はもうすぐ死ぬ。ここ数日、死んだ兄貴がよく夢に出てくるんでね。」
老人は暗闇の中で奈江に話し始めた。
「思い込みですよ。」
奈江は白く光る老人の目を見た。
「いいや、兄貴は死んだ時のままで現れるから。」
老人が奈江の方をギロッと見ると、一瞬で緊迫した空気に変わった。
「お兄さんどうして亡くなったんですか?」
「南方で死んだ事になっている。それしか知らないし、写真でしか会った事もない。」
「それなら、夢に出てくるのは、想像の人なんじゃないですか?」
「いいや、間違なく兄貴だよ。母さんが死んだ後、遺品を整理していたら、兄貴の写真と手紙が出てきてな、どうか幸せになってほしいと書いてあったよ。そんな兄貴は、ずっと俺達家族を恨んでいたのかな、俺は家族を持つ事ができなかった。」
老人の目は天井をむいた。
「わかりましたよ、もう寝ましょう。」
奈江は老人の話しを終わらせるように、布団から出ている腕を掴んで、中に戻そうとした。
「幸せなんか、どこにもないんだよ。あんたにはそれがわかるだろう。」
「私は腐ってますからね。」
奈江は老人の腕を布団にしまった。
「みんな、生まれた時から腐り始めてる。」
「ずいぶん怖い事言いますね。何かあったら、これで呼んでください。」
奈江は老人の枕元にナースコールを置いた。
老人は奈江に気づかれないように、スクラブのポケットに何かを入れた。
「幸せなんかその気になって貰っちゃいけない。不幸を映して、笑って暮らしなさい。」
「はい、はい。もう寝てください。おやすみなさい。」
詰所に戻る途中、奈江は腕時計を見た。
午前2時か。
患者の状態は皆落ち着いているはずの見回りなのに、ずいぶんと時間が掛かってしまった。
そう言えばあの人、検査で造影剤を使ったんだっけ。奈江は排尿の回数を確認し忘れたと、もう一度、老人の部屋に向かった。
懐中電灯で足元を照らすと、さっき布団にしまったはずの左手が、だらりと布団からはみ出ていた。
奈江は老人に近づくと、突き刺さってくるように奈江を見ていた白い目は、力なく閉じていた。淡々と話していた唇が、不気味に少し開いている。
奈江は老人の顔をバチバチと叩いたが、反応がない。慌ててナースコールを押して広川を呼ぶと、当直の医者と広川が、血相を変えてやってきた。
朝方。
亡くなった男性の処置をしていると、男性の妹と名乗る女性が3人でやってきた。
3人の妹達は、今まで一度も見舞いに来た事はなかったくせに、どこで聞いたのか、男性が残した数千万円のお金があるはずだと床頭台にある荷物を広げ始めた。
「お金はお寺に寄付したそうですよ。時々、そのお寺の住職さんがお見舞いにきていましたから。」
見兼ねた広川が、女性達にそう言うと、
「荷物を整理していただけよ。」
妹の1人がバツの悪い顔をした。
「家にあるのかしらね。」
「家の金庫は空っぽよ。」
別の妹が耳打ちしている。
「看護師さん、兄は本当に偏屈な人だったでしょう? 誰か他に面会に来てた人とかっていなかった?」
一番年上だという妹が、広川にそう言った。
「どうでしょうかね。」
広川はそう言うと、
「裸にしますので、廊下でお待ちください。」
3人の女性を病室の外に出した。
「この人には悪いけど、早くやってしまおうか。今朝は助手さんが来ないんだから。」
広川はそう言って、温かいタオルを奈江に渡した。
朝早く、技師長と師長がミーティングルームに入っていった。
「昨日、検査について行ったのは、松下さん?」
老人を担当していた医師が、奈江にそう聞いてきた。
「そうですけど。」
「昨日、何番に入ったの?」
「10番です。」
「技師長は8番って言ってるけど、本当に10番?」
「8番は、前の人が出てきたばっかりでしたから。」
奈江は高校生と話していた技師長を思い出した。
「そうか、ありがとう。夜勤、お疲れ様だったね。」
医師はそう言ってミーティングルームに入って行った。
申し送りを終え、広川と更衣室へ向かう。
「疲れたね~。」
奈江がそう言うと、
「橋本さんに使う造影剤、間違って用意されてたみたいよ。」
広川が神妙な顔で言った。
「さっき、上川先生に聞かれた。」
「橋本さんの家族が騒がなくて良かったよね。とりあえず、現金の五百万円はすぐに手に入ったんだし、あとはどうでもいいってわけか。」
「五百万円?」
「そう。紙袋に入って、着替えの間に隠してあったんだって。それで入院費を払おうとしてたのかな。お寺に寄付した数千万円は貰えないだろうけど、あの妹さん達にしたらそれだけでも、ずいぶんな収穫だよね。」
「橋本さんって、何をしてた人?」
「昔は税理士をしてたって聞いたよ。」
「へぇ~。」
「松下さん、なんか落としたよ。」
奈江は足元に落ちている鏡を拾った。
「これ、私のじゃないよ。」
「だって、松下さんのポケットから落ちてきたし。」
奈江は銀色に縁取られ、裏が漆塗りになっている鏡を手に取った。
2匹の蝶々が描かれている裏をひっくり返すと、目の下にクマができた、ひどく疲れた自分が映った。
幸せなんかその気になって貰っちゃいけない。不幸を映して、笑って暮らしなさい。
奈江は老人の言葉を思い出した。
「ねえ、あの妹さん達って、これで良かったって思ってるのかな。」
奈江がそう言うと、
「残念だったんじゃない? もっと大きなお金が手に入るはずだったんだから。」
広川はそう言って少し笑った。
3章 裏と表
「おはよう。今日はこれから仕事かい?」
「今、帰りです。」
「そりゃあ、大変だね。」
いつものコンビニに寄ると、ちょうど商品を積んだトラックから、たくさんの品物が運ばれてきていた。
奈江は欠伸をしながら冷蔵庫の前にくると、缶酎ハイを3本、カゴの中に入れた。
「まだ早いんじゃないの?」
店員は笑ってそう言った。
「どっちの意味ですか?」
奈江は笑って答えると、袋菓子をひとつカゴに入れ、少し考えて、もうひとつ同じものをカゴに入れた。
そっか、もう気を使うことなんてないんだった。夜勤明けの買い物は、何も考えずに目に映る商品を、カゴに入れてしまう。
袋菓子をもう一度棚に戻そうとすると、近くにいたカップルが、ぺちゃくちゃと並んで歩いてきた。奈江は邪魔にならないように、そのままレジに向かった。
迷惑な恋愛を取り締まる法律って、なんかないのかな。だいたい略奪愛とか、不倫とか、人を不幸にした罪って、謝って済む話しじゃないだろうに。
奈江はレジの前に並んだ串団子をカゴに入れると、今日は忘れずにお釣りを取った。
「いつも、ありがとうね。」
しゃがんでいた店員が、わざわざ立ち上がって、そう言った。
幸せを見せつけられた嫉妬心は、どんどん考えが荒んでいく。私はすっかりここの常連か。きっと料理も何もしない、だらしない女だと思われてるんだろうな。
そういえば……、
奈江はカバンから携帯を取り出した。
昨日の事で、病院から連絡がきたらたまんないよ。私は言われた通りの部屋に患者を入れただけ。だいたい、若い女の子に鼻の下を伸ばしていた技師長が、部屋を間違えた事が悪いんだから。
電源のボタンに指を掛けると、携帯がなった。
また、村岡くんか。もう、しつこいにもほどがある。奈江はそう思いながらも、電話に出た。
「起きてたのか?」
「今から寝るところ。」
「家の前にいるから、開けてくれよ。」
「なんで、家、知ってるんの?」
「市役所、舐めんなって。」
「最低だね。一番やったらダメな事じゃん。バレたらクビだよ。」
「だって、松下が会ってくれないから。」
「本当にそんな事してもいいの?」
「なぁ、この前はあんな言い方して悪かった。どうしても、話しがしたくってさ。」
「電話じゃダメ?」
「あっ、松下!」
奈江のアパートの前で電話をしていた村岡は、奈江を見つけると走って追いかけてきた。奈江は咄嗟に走ってその場を離れた。
「なんで逃げるんだよ。」
村岡は奈江の腕を掴み、そう言った。
「なんで追いかけるのよ!」
奈江は息を整えようと、両手を胸に置いて、背中を上下させた。村岡もまた、両膝に手を置くと、背中を上下して、息を整えようとしている。
「松下、足遅くなったな。」
「よく言うよ、村岡くんもすっかりおじさんになったよね。」
村岡は奈江の顔を見ると、
「どうしても、会って話したい事があってさ。」
そう言って奈江に近づいた。
「私は話す事なんてないから、じゃあね。」
家に帰ろうとする奈江の腕を、村岡は掴んだ。
「松下じゃないと、ダメなんだよ。」
村岡は奈江の前で、両手を合わせた。ちょうど宅急便のトラックが通りかかり、運転席から村岡が奈江を拝んでいる様子を、面白そう配達員が見ていた。
「村岡くん、少しだけだからね。」
奈江は村岡を家に案内した。
「今日は仕事休みなの?」
横に並んで歩きながら、奈江はワイシャツを着ていない村岡に聞いた。
「だって今日は日曜日だよ。」
「そっか。」
「松下はどうやって生きてるの?」
「どうやってって?」
「普通なら、月曜日が始まったとか、金曜日まで頑張ろうとか、そんな風に思うだろう。休みがバラバラだと、どうやってテンションを保つのかなって。」
「明日までとか、今日が終わればとか、そんな感じかな。」
「昼と夜は、わからなくならない?」
「どうかな。わからない時も、あるかもしれないね。」
奈江は玄関のドアを開けると、
「上がって。」
そう言って村岡を中に入れた。
「本当にここで生活してるの?」
「なんで?」
「人が暮らしてる感じがしないよ。」
「終活してるの、こんな事になっちゃったし。」
村岡は奈江の持っているコンビニの袋を奪うと、
「これ、俺の分?」
そう言って、袋菓子を手に取った。
「ちょっと!」
奈江は村岡を止めようとしたが、
「だって、2つあるだろう。」
村岡はお菓子の袋を開けた。
「松下、これからたくさん時間があるんだし、夜中に何を見たって、誰にも迷惑かからないだろう。」
村岡は缶酎ハイを開けて、飲み始めた。
「これ、全部焼いてきたから、ちょっとずつ見てみろよ。」
「何、映画?」
奈江は村岡が持ってきたDVDを手に取った。
「ドラマだよ。ザ・パシフィックって知ってるか? 実話なんだよ。この前見たら、話しに引き込まれてさ。松下、昔からそういうの好きだっただろう。こんな話しできるのって、松下しかいなくってさ。この前、役所で会った時から、ずっと話しがしたいと思ってたんだ。」
キレイな文字で書かれた5枚のDVDのひとつを手に取った奈江は、
「これ、戦争のドラマでしょう。第二次世界大戦の時の海兵隊の話し。私ね、沖縄の場面、ちょっと苦手なんだよね。」
そう言って丁寧にDVDのケースを重ねた。
「もしかして、知ってたのか?」
「知ってるよ。全部見たし。」
「なんだ、知ってたのか。」
「感想なら、暇な時にラインで伝えるから。」
少しがっかりした表情の村岡に、
「それ飲んだら、帰ってね。」
奈江は言った。村岡はDVDを奈江の方に近づけた。
「結婚してるって聞いてたから、戦争ものなんて見てないと思ってた。」
そう言って部屋の中を見渡している。
「そんな事と趣味は関係ないでしょう?」
奈江は村岡の座っているテーブルの近くを、トントンと鳴らした。
「本当は好きな映画を見たいのに、相手に合わせて、くだらない映画でも見てるんじゃないかって、そう思っていたから。」
村岡は奈江を見て言った。
「くだらない映画って、たとえばどんな?」
「出会い方が違うだけで、最後はみんな同じ展開の映画だよ。すれ違いと、勘違いの繰り返しで、クリスマスには雪が降る。」
村岡の話しを聞いて奈江は吹き出した。
「村岡くんが、そういう恋愛ものを苦手なんでしょう?」
「そうだよ。なんの知識にもならない。」
「戦争で人が死んでいく映画は、知識になるっていうの?」
「だって2時間とか3時間とか、黙って座って見てるんだよ。大事な時間を奪われてるんだから、少しでも、いろんな事を考えなきゃ。」
「村岡くん、昔もそんな事を言ってたよね。」
「松下とは、いろんな話しをしたよな。」
「村岡くんの話しはマニアックだから、結構みんな引いていたよ。」
「世の中は無関心と、クールの意味を間違えてるからね。平和なんて言葉はダサくて、古臭いものだと思ってるし。何にも知らないくせに、知りたくないと言ってる方が、かっこいい生き方をしてだと、思い込んでる。」
「そんな蘊蓄を並べるなら、市役所なんて入らないで、もっと別の仕事に就いたら良かったのに。村岡くんなら、毎日退屈なんじゃない?」
「そんな事ないよ。こんなにもいろんな生き様を見れる仕事なんて、そうそうないからね。」
「悪趣味過ぎるわ、それ。」
「人ってさ、笑っていても、泣いているし、悲しんでいても、喜んでる。」
「表情と感情は一緒じゃないからね。」
「松下は俺がそんな話しをしても、ちゃんと答えを出してくれるんだ。」
「話しをすり替えないでよ。映画の話しをしてたでしょう。」
「戦争映画ってさ、見終わった後にも、あの時どんな気持ちだったのか、なんでそんな事が起こったのか、宿題を出すだろう。」
「そうだね。」
「円満に終わって、良かった、良かったって同じ言葉を言い合うだけなら、時間を掛けて見る意味ってあるのかなってさ。」
「まあ、そうだけど。映画とかドラマって、それだけじゃないでしょう? 背景とか、俳優さん達の表情とか、今は撮影の技術が高くなって、すごくキレイじゃない、いろんなものが。」
「松下だって、昔の映画の方が好きだったじゃないか。モノクロの方が案外リアルだし。」
「村岡くん、また今度にしない。」
村岡といくら話しても、会話が続くので、奈江は途中で話しを切った。
「あっ、ごめん。これから寝るんだったよな。」
「これ、もう一度、見てみるよ。」
村岡が帰っていった。
奈江が目覚まし時計を見ると、14時を回っていた。
そんなに話していたのか。
布団に潜ると、あっという間に眠りに落ちた。
4章 勘違い
「松下さん、技師長は8番だって指示したと言っているわよ。」
師長が奈江にそう言った。
「8番には高校生の女の子が入っていたと思います。」
奈江は技師長の方を見た。
「橋本さんは、13時から8番で検査の準備をしていたんだ。それを遅れてきたこの人が、8番を10番と勘違いしてさっさと入れてしまったから。」
技師長は奈江を睨んだ。
「いろんなミスが重なってしまったのよね。13時からある同じ検査。たまたま橋本さんには使ってはいけないものが用意してあるレントゲン室に、松下さんは誤って患者を入れてしまったのね。検査についていた看護師はなんて言ってるの?」
師長は技師長にそう聞くと、
「きてすぐの派遣ですから、わからなくても仕方ないでしょう。」
技師長は腕を組んで面倒くさそうに言った。
「松下さん、外来にはちゃんと申し送りをしないとダメたったわね。」
「はい、すみませんでした。」
奈江が謝ると、勝誇ったような技師長の顔と、問題を解決したのは自分の手腕だと、手柄を取ったような師長の顔が、はっきりと目に焼きついた。今は何を言ったって、言い訳になる。亡くなったあの老人が、本当の事を知っているんだから、別にいいか。
「ちょっと、松下さん。」
師長と話しを終えた奈江の事を、看護助手の松川から呼ばれた。手招きされて向かった先には、数人の看護助手達が集まっている。
「松下さん、師長になんか言われたの? もしかして橋本さんの事?」
「えぇ、まぁ。」
「あの技師長もズルいわよね、本当、男のくせに小さい奴。だいたい、技師長っていう器じゃないんだし。」
松川はそう言うと、奈江は愛想笑いをした。
「上川先生が開業するみたいだから、私と堀さんはそっちについて行こうと思っているの。永井さんは結婚してやめるし、桃田さんは来月から外来に行く予定。ここにはもう、誰もいなくなるわよ。松下さんも上川先生の病院に、私達と一緒について行かない?」
「せっかくの話しだけど、私は行かないです。」
「じゃあ、ずっとここにいるって言うの? 今回の事だって、みんな松下さんのせいにして、頭にこない?」
松川は奈江の腕を掴んだ。
「頭にきてますよ。この場で、喚き散らしてやりたいくらいです。」
奈江はそう言って松川の顔を見た。
「それなら、どうしてここにいようとしているの?」
みんなが奈江の顔を見る。
それはね、環境が変わる事への恐怖があるから。今は同じ時間に流されている方が、なんとなく楽なのよ。
「私はここに転職したばかりですから。」
奈江は少し笑うと、その場を後にした。
お昼休み。
「奈江、上川先生が探してたよ。」
休憩室で牛乳を飲んでいると、唯が声を掛けてきた。
「今日は牛乳?」
「うん。ちょっとイライラしてるからね。」
「カルシウム不足ってことね。」
奈江は飲み干した牛乳をゴミ箱に捨てると、パソコンの前にいる上川の前に向かった。
言われる事は、だいたいわかっている。また、あの日の検査の事だろう。
「上川先生。」
奈江は上川直登の横に立つと、
「橋本さんのことですか?」
そう言った。
「ああ、それは違うよ。ちょっといいかな。」
上川は奈江を物品庫に連れて行った。
「松川さんから聞いたけど、ここに残るって本当?」
「あっ、えっ?」
「あんな事があったのに、よく平気で仕事ができるね。」
上川は呆れるような顔をしていた。
「説明しても、どうせわかってもらえないですから。黙って収めるほうが利口だと思いますけど。」
「そうかな。それって、すごく頭にこない?」
「もう面倒くさいんです。」
「それで、人が死んだんだよ。このまま終わらせたら、またこういう事が起きるかもしれないし。」
「そうですけど……。」
「ここをやめて、俺の病院へ来ればいい。」
「いいえ。いいんです、ここで。」
「なあ、松下さん。看護師やめて、専業主婦になったらどう?」
「誰がですか?」
「松下さんだよ。離婚してるって聞いたよ。俺の奥さんになってくれないか。このまま看護師なんてやっていたら、体だって心だってボロボロになっちゃうよ。」
「せっかくのお話しですけど、私はここでこの仕事を続けます。」
奈江は深く頭を下げると、仕事に戻った。
橋本さんへの医療事故を掘り下げるなら、主治医の自分が追及すればいいのに。それに、どうして女は、男のものにならなければいけないのだろうか。名前や実家だけでなく、他にも多くのものを捨てなければいけないのに、男は世間から、守ってやったつもりでいる。
勝手に戦争を始めておいて、女と子供を置き去りにしたのは男なのに。何もなくなった国の中で、家族のために必死で食べ物を探したのは、女なんだよ。
もう、どっちがなんてバカバカしい。
せっかく手に入れた自分という権利は、一体いつ、役に立つのだろう。
「奈江!」
唯が探しにきた。
「検査に降ろそうか。奈江、レントゲン室に行きづらいだろうから。」
「もう、そんな時間?」
奈江は腕時計を見た。
「ねぇ、上川先生と何を話してたの?」
「別に何も。」
「嘘。先生、なんか落ち込んでたよ。大きなため息なんかついちゃってさ。」
「ふ~ん。検査、行ってくるね。」
レントゲン室の前で順番を待っていると、
「5番。」
技師長が顎で合図した。
奈江はそのまま動かず、前をむいた。
「5番って言っているだろう!」
技師長が大きな声をあげると、
車椅子に乗っている高齢女性が震えた。
「大丈夫ですか?」
奈江はそう言って女性の背中をさすると、近くにいた人が、一斉に技師長の顔を見た。
「坂口さん、どうぞ。」
中堅の技師が5番の扉を開けて、患者の名前を確認した。奈江は技師長の方を見ると、技師長は奈江に隠れるように扉が閉めた。
「奈江、もう帰ろうよ。」
夕方、唯が奈江の袖を引っ張った。
「先に帰ってて、明日の準備がまだ残っているから。」
奈江は記録を書くためにパソコンに向き合っていた。
「松川さん達、明日また有休取ったんだってね。」
キーボードを叩きながら、唯の話しを聞く。
「そうなの?」
「上川先生の開業する病院について行くって話し、本当かな?」
さっきの話しは、もう広がっているのか。
「本当なんじゃない。」
奈江は適当に返事をすると、
「上川先生の実家って、消化器専門の病院だって聞いたよ。上川先生が院長になって、お父さんが理事長。弟さんも医者だって。大きな病院らしいけど、上川先生って、どこか頼りないんだよね。いつも一人で決められないし。」
奈江は記録を書き終えると、
「唯、明日の検査の指示見てくれる? 採血の準備って、まだしてないよね?」
そう言って唯を見た。
「そうだった。松川さんが仕事放棄したんだ。」
奈江が壁時計を見ると、20時を回っていた。
「なんか食べて帰ろうか。」
唯にそう言うと、
「そうだね、急いで片付けるわ!」
唯の目がパッと明るくなり、2人は明日の準備を始めた。
すっかり寒くなった外を、両手をすり合わせて歩いていく。
「明日は?」
唯が聞く。
「やっと休み。」
奈江はそう言った。
「唯は?」
「準夜。」
「ねぇ、それなら飲んで帰ろうか?」
奈江は両手に息をかけた。
「いいよ。奈江、いい店知ってる?」
「あんまり外に行かないからわからない。安いそうな店に適当に入ろうよ。」
「それなら遅くまでやってるファミレスでもいいんじゃない?」
ファミレスならカップルと家族連ればっかりじゃん。奈江はそう思い、
「せっかくなら、居酒屋に行こうよ。」
唯に言った。
2人は小さな居酒屋に入った。
運ばれてきたビールを思いっきり飲むと、その冷たさに体が少し震えた。
「そうだ。携帯の電源、切っておくわ。」
奈江はそう言って携帯をカバンから取り出した。
「師長から電話が来るんでしょう?」
唯がそう言った。
「唯は来ない?」
「来るけど出ないもん。それに、明日は準夜だから絶対に勤務なんか代われないし。」
村岡からの着信に気がついて、奈江は電源をそのままにした。
「橋場さんのお子さんって、よく熱出すよね。1歳って言ったっけ?」
唯が言った。
「1歳半とたしか……、3歳の子もいるよね。」
「旦那さんって、普通の会社に勤めてるんでしょう。病院関係の人じゃなくて。」
「そうだね、そう言ってた。」
「最近、別れたみたいよ。橋場さんが子供が熱を出す度にお休みするのは、仕方ないよね。」
「そうだったの。」
「奈江もバツイチだしさ、主任もそうだし、看護師って多いよね。離婚しても一人で生きていけるんだろうし、この仕事と家庭の両立なんて、無理なんだよ。」
「そうかもね。唯はどうなの、結婚とか考えないの?」
「私? 私は時々遊ぶ人はいるよ。だけど、それだけ。お互いの時間を提供し合うのって、なんだかすごく面倒くさい。」
「そうだよね。本当にそう思う。」
どこからが着信音がなっている。
「奈江、携帯なってるよ。電源切らなかったの?」
「そうだった。」
唯がそう言うと、奈江はカバンを覗いた。
「師長から?」
「ううん。ちょっとごめん。」
電話の相手は村岡だった。
「松下、」
「何?」
「今近くにいるだろう?」
「近くって?」
「職場の集まりで、隣りの店にいるから、今からそっちに行く。」
村岡がそう言うと、店の玄関が開いた。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
奈江は電話を切った。
「村岡くん、なんで来るの?」
「なんでって、店に入っていくのが見えたから。」
「そっちの集まりは?」
「別にいいんだ、どうせつまらないし。後でもう一人くるけど、一緒に飲んでもいいだろう。」
奈江は唯の顔を見た。
「私は別にいいけど。」
唯はそう言って、メニュー表を村岡に渡した。
「唯、ごめん。」
奈江はそう言うと、村岡から少し離れた。
「村岡くん、あんまり調子に乗らないでね。」
「そんな事いうなよ。ここは俺が奢るから。」
村岡が奈江に近づいた。
「いいよ、そんな事しなくても。私達がどれだけ稼いでいると思ってるの?」
奈江がそう言うと、
「そうだけど、俺は男だから。」
村岡はハイボールを注文した。
「奈江の彼氏?」
唯が村岡に聞いた。村岡は奈江の顔を見ると、少し奈江が怒っているように感じたので、冗談で言おう思っていた言葉を飲み込んだ。
「高校の同級生。」
そう言うと、店のドアが開いて、男性が入ってきた。
「あっ、」
奈江が目をそらした田嶋龍二とは、中学の同級生だった。
「久しぶり。」
田嶋は奈江にそう言うと、唯の隣りに座った。
「俺と村岡は、同じ市役所にいるんだよ。俺は水道課にいて、松下が引っ越して名前が変わったって知って、ちょっとびっくりした。」
田嶋はそう言って、通りかかった店員にビールを注文した。
「そういうの、ダメじゃないの? ここの市役所さんは本当にモラルも何もないんだね。人の秘密は自分の話しのネタだとでも思っているの!」
奈江は少し苛ついた。
「知りたくなくても、わかってしまうんだって。こうして会うまでは、他のやつには絶対言ってないよ。」
村岡はそう言って食べ物を選び始めた。
飲み物がきて、4人は乾杯をする。
「奈江、さっきからめっちゃ不機嫌。」
唯がそう言うと、
「松下は昔から顔に出るから。」
田嶋はそう言った。
「すごく我慢してる方だと思うけど。」
奈江が言った。
「仕事の時は別人だよ。急に何かを頼まれても、淡々とやってるし。」
唯が田嶋にそう言うと、
「責任感はあるけど、肝心なところはうまく避けて通ってるよな。逃げ出したくなると、そろそろヤバいんじゃないかって、そんなオーラ出すだろう。誰も話しかけんなって。」
田嶋は村岡を見た。
「まさに今それか。」
村岡はそう言った。
「2人は高校も一緒?」
唯が奈江に気を使って村岡と田嶋に聞いている。
雰囲気を悪くした自分を、奈江は少し責めた。
いつもこうだ。
少しの事でも、元旦那とよくモメた。どうしていつも自分の都合ばかりを優先させるのかと言われても、ギリギリまで我慢していたつもりだった。
いつの間にか、こちらの都合なんてどうでも良くて、新しい女の人とは、都合を作ってまでも会いに行っていたくせに。
「松下、聞いてるのか?」
「あっ、ごめん。」
「ほら、こういうやつなんだよ。たまに自分の殻から出てこない。」
田嶋は唯にそう言うと、
「俺と田嶋は高校は違うけど、小学校の時から同じ野球少年団に入っていて、今でも市役所のチームで一緒に野球をやってるんだよ。今日はその慰労会があったんだけど、乾杯が終わったら、抜けようかって話していたところに、松下がここに入って行くのが見えたから。」
村岡はそう言った。
「飲めるんでしょう? ここは俺達が奢るから、たくさん飲みなよ。」
田嶋は唯にそう言ってメニューを広げた。
「松下、この前の見たか?」
村岡が奈江に聞いた。
「まだ。なかなか見る時間がなくて。」
「一気に見ようとしてるのか?」
「そうだね。見るなら一気に見たいと思うけど、あの話しって、けっこう体力使うからね。」
「最初に見たのはいつだった?」
「2年前かな。」
「1人で見たのか?」
「そうだよ。」
「誰かと一緒に見るとかなかったのか?」
「ないよ。」
「そうだよな、あんまり誰かと見るもんじゃないか。」
「感想を話したくても、誰にも話せない。」
「それが、平和なんだよ。」
「そっか。」
「みんな決められた三角の中で、適当に生きているんだから。」
「三角って、階級の事?」
「そう。松下ならわかるだろう。」
「そうだね。上は少なくて、下はたくさん。」
奈江は老人からもらった鏡を村岡の前に出した。
「村岡くん、これさ。」
「ずいぶん古い鏡だな。」
「この前亡くなった患者さんが、私のポケットに入れたみたいなんだけど、やっぱり供養した方がいいかな?」
「松下に持っててほしかったんじゃないの?」
奈江は鏡を覗いた。
「腐ってるって。」
「何が?」
「顔。」
「そんな事言われたのか?」
「別にいいけど。本当の事だし。」
「気にしてるのか?」
「これをくれた人が、何を言いたかったのか、すごく気になってね。」
5書 折れた鉛筆
朝起きると、久しぶりに飲み過ぎたせいか、頭が痛かった。
ボサボサになった頭をかきながら、洗面所にいくと、髪の毛が洗面台にパラパラと落ちた。いろんな事を気にしないようにしていても、やっぱり体は正直なんだ。
落ちた髪の毛は、恋愛に対する未練なのか、仕事に対する後悔なのか、奈江は薄いピンク色の洗面台に貼り付いた髪の毛を見つめた。どうせ抜けるならと、手で髪を梳き、指の間についてくる髪の毛を集めて、ゴミ箱に捨てた。
夫と会話がなくなった頃、頭の片側が痛くて触ったら、そこに瘡蓋ができていた。背中の片方にも湿疹があるのを見つけ、きっと帯状疱疹に罹ったのだと思った。触ると痛む症状は、そのうち服が擦れるだけでも痛みが走るようになった。それでも、そのうち治るだろうと思って放っておいた。寂しいなんて感情で、こんな事になった自分が、とてま情けなかった。悔しい相手に弱さを見せるくらいなら、ここのまま朽ちてなくなってしまっても、それはそれでかまわない。
死んだ後、その人の前に出ていけるだけの怨があれば、話しのひとつにもなれるだろうけど、なんだかんだいっても、自分は自由に暮らしている。誰かを恨む気持ちもなければ、幸せにしがみつくつもりもない。
奈江は歯磨きをしながら、村岡の置いていったDVDを眺めた。綺麗事じゃないんだよ。最近の戦争映画って、英雄を作り上げたり、非恋に結びつけたりするけど、戦争の真っ只中って、正常な感情なんか本当はどこにもないのに。
この話しは、リアル過ぎる。
奈江はまた布団に潜り込んだ。目を瞑っても頭の痛みが治まらないので、薬を飲もうと起き上がって冷蔵庫に水を取り出しにむかった。
玄関のチャイムがなる。
覗き窓から外を見ると、村岡が立っていた。奈江はチェーンを掛けたまま、ドアを開けた。
「何?」
「おはよう。今日は休みって言ってたから。」
「休みだけど、来てもいいとは言ってないよ。」
「知ってるよ。俺が勝手に来たんだから。ねぇ、ここ開けてよ。」
「頭痛いから、今日はダメ。」
「それは酒のせいだろう。病気じゃないなら、話しをしようって。」
「ごめん、それなら後で電話するから。」
奈江はドアを閉めた。
奈江がドアから離れると、村岡は何度もチャイムを押してきた。
「ちょっと、今どきの小学生でもそんなイタズラしないよ。」
奈江は再びドアを開けた。村岡は笑って、
「入れてくれるまで、何回もならすから。」
そう言った。奈江は仕方なくチェーンを外し、村岡を中に入れた。
「ケーキ買ってきた。」
「いらないよ。」
「お酒もあるよ。」
「村岡くん、歩いて来たの?」
「家、近所だから。」
「そうなの?」
「ここから走って30分。」
奈江はため息をついた。
「この前も歩いて来たの?」
「この前は車。飲んだからそこの公園に停めて帰った。」
「それは悪かったね。言ってくれたら、お酒なんか出さなかったのに。」
「勝手に飲んだのは俺だから。」
「村岡くん、今日は雨予報だよ。飲んだら、急いでタクシーで帰った方がいいよ。それか、飲まないで車で帰るか。」
「タクシーで帰るよ。松下、これ冷やしておいて。」
村岡は奈江に買ってきた缶ビールや缶酎ハイを渡した。
「こんなに飲むの?」
「松下も飲むだろう。お菓子もたくさん買ってきたから。」
奈江は頭を押さえた。
「二日酔いなのか。」
「そうだね。薬飲もうとしてて。」
「じゃあ、早く薬飲めよ。」
「うん。村岡くんはなんか飲む?」
「俺、熱いコーヒーとか飲みたいわ。」
「家にコーヒーなんてないの。冷たいお茶でいい?」
「じゃあ、いいよ、それでも。」
奈江は村岡に缶ビールを出した。
「お茶って言っただろう?」
村岡が奈江に言った。
「せっかく買ってきたんなら、飲んだら?」
「だって松下は飲まないんだろう? それなら俺も少しは我慢するよ。」
「合わせる事なんてないんだから、どうぞ。」
村岡は缶ビールの蓋を開けた。
「松下も飲もうよ。」
「今日はいい。」
「なんだよ、そんなに具合悪いのか?」
「大丈夫、話しくらいはできるから。」
「ケーキ食べるか?」
「うん。」
村岡はケーキの箱を開いた。皿とフォークを持って奈江がやってきた。
「村岡くんが選んだの?」
「そうだよ。」
奈江はモンブランを選んだ。
「こっちのフルーツの方にしないのか?」
「そっちは食べづらそうだし、私、果物って苦手なの。」
「こういうの嫌いな女子っているんだな。」
「うん。口の中が痒るなるの。だからケーキを食べる時は、生クリームに混ぜて飲み込んでた。中学生になった頃かな、私、果物が嫌いなんだって気がついたの。」
「やっぱり、変なヤツなんだな。」
「村岡くんは、何でも食べれる?」
「俺は何でも食べるよ。」
「もしかして、味覚音痴?」
「それはお互い様だろう。松下だって、旬なものとか見た目とか、そんな事にこだわらないんだろうし。」
「そうだね。結局、味が濃ければ美味しいんだから。」
「本物に看護師なのか? 保健師やってる先輩が言ってたぞ。松下は保健師課程でも優秀だったのに、なんで3交代の看護師をやってるんだろうって。わざわざキツイ仕事を選ばなくっても、役所でのんびりやればいいだろう。」
「価値観が違うの。」
奈江は村岡が置いていったDVDを触った。
「一緒に見るか、これ。」
「ううん。これはもう少ししてから、1人でゆっくり見たい。」
「そっか。最近は映画見たか?」
「見たよ。異端の鳥。」
「すごいの見てるんだな。」
「眠れない時にね、少しだけ見ようと思ったら、全部見ちゃった。」
「あの映画って、感想なんか出てこないだろう。ただ重たい感情が溜まるだけ。どこを切っても辛いシーンばっかりだし。」
「それがいいの。時々、思い出して考えるけど、人間って、みんな自分の都合で生きてるの。おかしな理由をつけて。主人公の子供は、それに巻き込まれたんだろうね。」
「松下、病んでるのか?」
「そうだよ、病んでる。」
「結婚したって聞いてたのに、なんで別れたんだよ。」
「御縁がなかっただけだよ。美味しかった。ごちそうさま。村岡くん、ありがとうね。」
奈江は食べ終えたケーキの皿を片付けた。
「ごめん。」
「何が?」
キッチンへ向かう奈江の背中に村岡が声を掛ける。
「余計なこと言ってさ。俺の中で、なんで松下がこんな風に生きてるのかって、思ってたからさ。」
「言ってる意味がわかんない。」
「俺もうまく言えないよ。なあ、一緒に飲もうよ。まだ、頭痛いのか?」
「これはね、ずっと治らないよ。」
村岡は奈江の前にくると額を触った。
「風邪でも引いたのか?」
奈江の携帯がなった。師長からだ。
「あ~、電源切っておくの忘れた。」
奈江はそう言って電話に出ようとした。
「嫌なら出なきゃいいだろう。」
奈江は村岡を言葉を無視して電話に出た。
「もしもし、若山さん? あっ、ごめんなさい松下さん。」
師長が名前を間違えた事が、急に頭にきた奈江は、村岡の頭を叩いた。
「痛てっ!」
師長は村岡の声に気がつくと、
「あら、誰かと一緒?」
そう言った。
「はい。友人と一緒にいました。」
「あら~、もしかして遠くにいたりする?」
「少し。」
「そうなのね。じゃあ、大丈夫よ。」
師長は早々に電話を切った。
「村岡くん、ありがとう。」
奈江はそう言って冷蔵庫から缶ビールを持ってきた。
「なんかいい事あったのか?」
「別に。」
「頭は?」
「もう治った。」
「松下のこういう性格に付き合えるヤツなんて、俺くらいだな。」
「何言ってんの? 誰も無理だよ。村岡くん、乾杯!」
「ああ、お疲れ様。」
2人は缶ビールを飲んだ。
「コップも出さないでごめん。」
奈江が言った。
「いいよ。俺、泡嫌いだし。」
「映画でも、見ようよ。」
奈江はパソコンを開いた。
「いいぞ、何にする?」
「海と毒薬。」
「そういうの選ぶのか。」
「見たことある?」
「本で読んだ。」
「村岡くんが知らない話しってないんだね。」
「そんな事ないよ。たまたま俺と松下の見てるものが似てるんだろう。自分達だけが全部知ってるみたいに思えるけど、苦手なジャンルだってあるんだし。」
「そうだね。そうだった。」
2人はモノクロの映画を、ただ黙って見ていた。
淡々と進んでいくやり場のない話しに、見終わった後、村岡はう~んと腕を組んだ。
「肝臓、食べたのかな?」
奈江がそう言うと、
「はっきり言うなよ。それって想像したくない事だろう。」
村岡は奈江の肩に手を置いた。
「病院の中だってね、ここまでひどくなくても、いろいろあるよ。」
奈江は技師長の顔を思い出していた。
「松下、腹減ったなぁ。なんか作ってくれよ。」
「なんでよ。もう帰って。」
「まだ、話しが終わらないだろう。」
「ダメ、もう帰って。」
「そこにスーパーがあったから、材料買ってきて、鍋でもしようか。」
「村岡くんは人の話し、本当に聞かないね。」
「聞いてるだろう! それに松下の話しは、俺しか聞けないんだし。」
「そっか。」
奈江は急に下をむいた。
別れた旦那は、仕事の愚痴が増える度に、そっけない返事ばっかりになって、たまにおもしろい話題を投げても、昔みたいに笑ってくれる事はなくなった。付き合いが長く続くと、みんなこうなるのだろうか。
「どうした?」
村岡が奈江の顔を覗いた。
「なんでもない。」
「松下、前みたいに笑わなくなったな。」
「そうだね。あんまりおもしろい事って、そんなにないから。」
奈江はそう言って、少し笑った。
「行くぞ。」
村岡は奈江の腕を掴んだ。
「寒いから、上になんか着てった方がいいな。」
スーパーに行くと、明るい照明に奈江は目を細めた。野菜が並んでいる棚なんて見るのは、いつ以来だろう。1人の食事なら、コンビニで全てが揃う。フライパンさえ、しばらく出した事はなかった。鍋、あったかなぁ。大丈夫か、電気の鍋があった。
「白菜にする? キャベツにする?」
村岡が聞いてきた。
「俺、辛いやつが食べたいんだよね。それならキャベツの方がいいのかなって。」
「そうだね、それならキャベツと豚肉がいいんじゃない? ニラも入れて、しめじも入れて。」
「海鮮も入れようか。」
「どうぞ。」
棚の間から、買い物カートを暴走させた子供が出てきた。
「危ないからね。」
村岡がそう言うと、母親は村岡をギロッと睨んだ。
「後でSNSで叩かれるかもよ。」
奈江はそう言って笑った。さっきの子供を目で追うと、高齢の女性にぶつかり、女性は腰をさすっていた。
「弱者って、どっちなんだろうな?」
村岡は言った。
「子供がいる事は女の免罪符なのか?」
少し苛ついている村岡に、
「村岡くん、そんな事言わないの。」
奈江はそう言った。買い物カゴが重くなったので、奈江がよいしょと抱え直すと、村岡はそれを代わりに持った。
「最初から、俺が持てば良かったな。」
そう言って缶ビールを数本カゴに入れた。
台所に立つ奈江の横で、村岡は缶ビールを開けた。
「勝手だね。」
奈江が言った。
「松下も飲めよ。」
「私はいい。」
「なんで、女が料理を作るんだろうな。」
「男が戦争に行くからでしょう。最近、男が家にいるから、世の中がおかしくなった。」
「すごい解釈だな、それ。」
「女も戦ってこい、男も料理をするからってなればいい事なのに。」
「なるほどな。」
「私が作った料理なんて、美味しくないよ。外で戦ってる方が、好きだからね。」
「松下は田嶋と結婚するのかと思ってた。」
「それは昔の話し。」
「田嶋が別の奴と結婚したから、松下とは終わったんだろう。」
「そういう話しはもういいよ。」
「あいつも離婚したんだよ。子供は元嫁が引き取ったらしい。」
聞こえているはずなのに、奈江は話しに入ってこない。
「村岡くん、これ向こうに持っていって。」
村岡は奈江に言われた様にテーブルに鍋を運んだ。
「あとは電気を入れたら、温かくなるから。」
奈江はそう言って、缶ビールを持ってテーブルの前に座った。
「その間に風呂入ってきていいか?」
村岡が言った。
「はぁ?」
「ちゃんと着替え、持ってきたから。」
「ちょっと、何考えてるの?」
「だって、いくら話したって足りないだろう。夜中までかかるかと思ってさ。」
奈江はため息をついた。
「お風呂、こっちだから。」
村岡を浴室へ案内すると、携帯を見た。
田嶋から着信があった。
選ぶ道が違っていたら、どんな人生だったんだろう。たった5年の結婚生活なのに、何もかもが色付いて、何もかもが一瞬で色を失った。あの時見た色を忘れない様に何度も瞬きをして、忘れてしまった色を思い出そうと目を擦る。
奈江は膝に抱えると、顔を伏せた。
「おい、松下、吹いてるぞ!」
村岡が慌てて電源を切った。
「ごめん。」
奈江は謝った。
「危ない所だったな。」
「ちゃんと見てなかったから。すっかりクタクタになっちゃったね。」
「松下は外で戦ってる方が合ってるかもな。」
奈江は村岡を見て笑った。
「食べようよ。」
奈江がそう言って鍋の蓋を開けると、テーブルの上に湯気が立ち込めた。
「少し、辛くし過ぎたかもな。」
村岡がそう言った。
「たくさんビール買ってきて良かったね。」
奈江はそう言って笑った。
洗い物を終えると、奈江は布団を出した。
「村岡くん、自分で敷いてね。」
奈江はそう言うと浴室へむかった。
「なんで敷いてないの?」
携帯を見ている村岡に、浴室から出てきた奈江が言った。
「敷く事ないよ。一緒に寝ればいい事だし。」
村岡は隣りの部屋を指差した。
「村岡くん、ちょっとふざけ過ぎだよ。」
「ふざけてなんかいないよ。」
「早く、布団敷いて。」
奈江はそう言って隣りの部屋に入った。
「松下、開けろよ。」
村岡がドアを叩いている。
「絶対開けない!」
「わかったよ。」
村岡はそう言うと、ドアを叩くのをやめた。
奈江はドアの近くに腰を下ろすと、カーテンの隙間から入ってくる夜空を眺めた。ずいぶん明るいと思ったら、雪が降っているのか。雨は音がするのに、雪の音は聞こえない。小さな雪の粒は、降っては消えていくのに、いつの間にかアスファルトを隠してしまう。
「松下、携帯。」
村岡がドアの向こうでそう言っている。
「そこに置いておいて。」
奈江はそう言った。
「なんかなってるぞ。」
「うん。」
「出なくていいのか?」
「うん。」
「田嶋からだぞ。」
「そ。」
「松下、」
「何?」
「やっぱり、帰るわ。ここにいると迷惑なんだろう。」
「村岡くん、」
奈江はそっとドアを開けた。
「雪、すごく降ってるよ。このまま歩いて帰ったら凍っちゃうよ。」
「凍らないよ。体なんか36度はあるんだし。」
「ごめん、もう少し話しをしようよ。」
奈江は村岡の布団を敷いた。
「寒くないかな。」
村岡に聞いた。
「大丈夫だよ。」
その言葉を聞くと、奈江はホッとして布団の上に座った。
「自分が話したいタイミングと、相手が話したいタイミングって、一緒じゃないんだよね。村岡くん、嫌な事言ってごめんね。」
「松下は話しを聞きたいタイミングも、人とズレてる。」
村岡は注意をするように、奈江に話した。
「そうだね。本当に。」
力なく答えた奈江の肩を触ると、
「さっきの映画の話ししようか。肝臓の事も教えてやるよ。」
村岡はそう言った。奈江は少し痛そうな顔をしたが、村岡に笑顔を見せた。
「疲れたら言えよ。適当に話しを切り上げるから。」
村岡はそう言って奈江の隣りに座った。奈江は座っている位置をずらし、村岡の少し斜めに座った。
6章 窓の外
「雪、すごい降ってきたね。」
奈江が言った。
「雪の音って聞いた事ある?」
「ううん。」
「松下ならなんて伝える?」
「しんしんとか、もさもさ、そんな感じかなぁ。村岡くんは?」
「さわさわ……、ヒューヒュー、松下が先にしんしんっていうから、いい表現が取られたよ。」
村岡はそう言って笑った。
「吹雪の雪って、悪魔かな?」
「そうだなぁ。八甲田山、知ってるか?」
「映画の?」
「見たことあるのか?」
「うん、あるよ。」
「松下は何でも見てるんだな。」
「高倉健が好きだからね。」
「あの人、軍服が似合うよな。」
「ねえ、雪の悪魔の話しは?」
「そうだったな。八甲田山には昔から亡霊がいるって言われてて、もしかしたら、それは山の神様が怒って悪さをしているのかもしれないけど、雪に姿をかえて出てくる神様って、人の命をさらっていく事が多いよな。だから、神様と悪魔って、本当は同じじゃないかって思うんだ。」
「雪の神様って女じゃない? だから魔女。」
「そうか、雪女も雪の女王もそうだったな。」
「吹雪の悪魔はどんな顔だと思う?」
「キレイで悲しげな顔かな。雪の日は孤独だから寂しくなって、だから誰かを連れて行くのかな。」
「村岡くんは、雪国って読んだ?」
「踊り子の話か? 川端康成の。」
「そう。」
「白って、純粋なものを表現しやすいんだろう。雪はその代表だよ。」
「純白とか、女の人をそういう風に表現するのって、男の人の都合でしょう?」
「そうなのかもな。松下は灰色でもいいじゃないか。灰色ってすごく幅が広いし。」
奈江は膝を抱えた。
「あの医者達は、アメリカ兵の肝臓を食べたんでしょう? 信じられない。」
奈江は顔を伏せた。
「疲れたのか、もうやめようか。」
「食べたんでしょう? それが、戦利品だもんね。」
「松下、もうやめようよ。」
「話してくれるって言ったのに、結局そうやって逃げるんだ。」
「それは、そんな話しをすると、松下が気持ち悪くなると思って。」
奈江は顔をあげると、
「いつも見てるの。汚いって思われるものでも、それを平気な顔して触るのが仕事だから。」
「そうだったな。松下、たくさん話したな。なんでこんなに、いろんな話しができるんだろう。」
村岡はそう言った。
「そのうち嫌になるよ。私、気分の浮き沈みが激しいんだって。興味が変わりやすいから、集中できなくて、周りと合わせられない。」
村岡は奈江の頭を触った。
「松下。」
「何?」
「田嶋がいろいろ調べてたんだよ。俺、急に落ち着かなくなってさ。後付けたり、無理やり家に押しかけたり、ヤバいのは俺の方だよ。」
「本当だね。」
奈江は村岡の手を払った。
「もう、寝るね。」
奈江はそう言って立ち上がうとした。
「明日は休みか?」
「ううん。夕方から仕事。村岡くんは休みなんでしょう? 日曜日だもんね。」
「松下も、普通の時間で働けよ。」
「夜勤の方がね、いい時もあるんだよ。」
奈江は立ち上がった。
「おやすみ、村岡くん。」
奈江はベッドに入ると重くなった瞼を閉じた。今は村岡と話した事の半分も覚えていないけど、少し楽しかったかも。
布団に包まっていた村岡は、何度も奈江の寝ている部屋のドアを開けようと悩んだ。結局、一睡もできず、空が明るくなり始めた。
好きだった奈江は、悲しみの底で膝を抱えている。いつからこんな風に、辛い顔をする様になってしまったんだよ。
村岡は布団を畳むと、奈江が気にしないようにメモを書いた。
松下のためなら、嘘だってつくさ。
朝起きると、村岡はいなかった。キレイに畳まれた布団の上には、 食べてないって、そう書かれていたメモ用紙があった。
嘘つき。
奈江は村岡の置いていったDVDを、パジャマのまま見始めた。
「松下さんが、ギリギリにくるなんて何かあったの?」
広川が言った。
「出勤する時間なのに、気が付かなかったの。」
奈江はそう言った。本当は食事もせずに、ぶっ通しでDVDを見ていた。このままでは仕事に間に合わないと思うと、倍速にして全部見終えた。
残酷なシーンは、スピードを速めるとその悲惨さが鈍くなり、奈江は少しホッとしていた。
「また、2人がコンビなの?」
上川がやってきた。
「先生、今日は当直?」
広川が聞いた。
「そうだよ。君達は12時で終わりだけど、俺は朝まで仕事だよ。何もなきゃいいね。松下さんの夜勤は、荒れるって噂だから。そうだ、医局にケーキがあるよ。後で持ってくるから。」
上川は仕事へ戻っていった。
「広川さん、松川さん達はどうなったの?」
「それね、看護部長が出てきておしまいよ。松川さん達、大人しくなったよ。」
「そうかな。ずいぶん、怒ってたけど。」
「うちの病院、外国人の介護さんが入るらしいよ。だからね、ごちゃごちゃうるさい助手さん達は、切られるんだって。」
「松川さん、上川先生の病院に行く話しは?」
「もしかして松下さんも誘われたの?」
「うん、まぁ。」
上川は皆を誘っていたんだ。自分もその中の1人だったと思うと、勘違いした事が、少し恥ずかしくなった。
「松川さん、手当たり次第声掛けてたみたいね。上川先生が、看護師を10人集めてくれたなら、松川さんも職員として雇ってあげるって約束してたみたいだから。」
「そうなんだ。」
「松川さん、いい人なのよ。障害のある息子さん1人で育てて、去年介護士の資格も取ったのに、ここにこだわるのは、息子さんの療育施設と近いからなんだって。上川先生なんて、腹黒いって噂だし、本当に松川さんを連れて行こうとしたのかはわからないよ。」
広川はそう言った。
「看護師は10人集まったの?」
奈江は広川に聞いた。
「さぁ、どうかな。」
奈江は交換の点滴を持って廊下を歩いていた。
「松下さん。」
上川が声を掛けた。
「ちょっと、」
上川は倉庫に向かって歩き始めた。
「これ、取り替えてきます。」
奈江は逆の方へ歩き出した。静かに病室のドアを開け、残りわずかになっている点滴を取り換える。ぐっすり眠っている患者を起こさないように、奈江は病室をあとにした。
「松下さん、こっち。」
ドアのむこうには上川が待っていた。静まり返った廊下を歩いていると、広川が奈江を呼びにやってきた。
「入院が来るって。あれ、先生?」
広川は奈江と一緒にいる上川を不思議そうに見ていた。
「その患者は、澤田先生の担当だろう。昨日、退院してから熱が出てきたみたいで、たぶん、感染症を起こしてる。」
「そうなんだ。先生は外来にいなくてもいいの?」
「612の患者の事が気になってね。松下さんと一緒に見に行ったところ。」
「ふ~ん。先生、これじゃあ、ケーキどころじゃなくなったよ。」
広川と病院の玄関を出たのは、午前3時を回っていた。
「明日は?」
広川が奈江に聞いた。
「遅出。」
「じゃあ、10時には出勤かぁ。ひどい勤務だよね。定時で帰れる事なんてないのに、師長は勤務表の作り方下手くそ。」
「広川さんは?」
「私は深夜。今週はアナグマ生活よ。まっ、日勤が続くよりいいけどね。」
奈江はコンビニへ寄り、サンドイッチを買った。
「今、帰り?」
いつもの店員から声を掛けられた。
「そうです。」
「早く寝ないと、朝になるよ。」
「本当ですね。」
家に着くと、眠くてシャワーを浴びる元気もなかった。携帯の目覚ましを掛けると、上着を脱ぎ捨て、ベッドに潜り込んだ。
隠れていた塹壕で、敵に銃口を向けられた。奈江は目を瞑り、手を上げようとした時、遠くから放たれた球が、敵の兵士の頭を貫通した。
助かった、そう思って上を見上げると、
「お前、降参しようとしてたのか?」
今度は味方の兵士が奈江に銃口をむけた。
汗だくになって目覚めると、携帯のアラームがなっていた。
動悸が治まらなくなり、奈江はもらっていた薬を飲んだ。
お昼休み。
松川が物品庫でシーツを補充していた。
「昨日、入院が入ったんだね。」
松川はそう言った。
「そう。616にね。」
「ベッド、用意できてなくてごめんなさいね。」
「いいのよ、急な事だったから。」
「松下さん、この前ごめんね。」
「何が?」
「ここを辞めるように声掛けちゃって。」
「私もいろいろあったから、少し心が揺らいだよ。」
「私も上手くいかない事が続いて、ごめんね。人を巻き込むなって、看護部長に怒られた。」
「そっか。」
「部長が助手の私達と話すなんてめったにない事だけど、ちゃんと話しを聞いてくれてね。私は来月から、病院の系列の介護施設で、働く事になったの。」
「職員で?」
「そう。」
「資格とって、良かったね。だけど、松川さんがいなくなったら、困るなぁ。」
「ありがとう、松下さん。」
「そう言えば、上川先生の病院は?」
「だって、ここの方が条件がいいから。松下さんは利口よ。上川先生に付いていったら、すごくこき使われるらしいから。そこをやめた友達が言ってた。」
2人で話しをしていると、上川の姿が見えたので、松川はサッといなくなった。
「松下さん、昨日はお疲れ様。」
上川が奈江の前を塞いだ。
「今日、食事にでも行こうか。」
「ちょっと、用事があって。」
「彼氏とか?」
「違いますけど、」
「それならいいだろう。玄関で待ってるから。」
20時。
仕事は順調に終わってしまった。奈江は入院の連絡が来ないか、電話を見つめていたが、準夜をしている広川から、
「早く帰りなよ。」
そう言われてしまった。
携帯を見ると、田嶋からの着信があった。村岡からは、連絡が来ないのか、奈江は携帯をカバンにしまい、更衣室にむかった。
左の肩がピリピリすると思ったら、またか、と朱色に盛り上がった湿疹を触った。
たいして突発的な出来事もないのに、少し考えるだけで、現実から逃げ出そうとする自分の体が、もどかしかった。いつになったら、本当に1人で大丈夫だと胸が張れるのか。
玄関を出ると、上川の車が停まっていた。
「乗って。」
上川はそう言うと、奈江を助手席に案内した。
沈むような座席に座り、早く断らないと、そればっかりが頭の中を回っている。
「今日は遅かったんだね。」
上川が言った。
「遅番だったから。」
「そうなんだ。」
「先生、やっぱり帰ります。」
奈江はそう言った。
「食事くらい、いいだろう。」
「苦手です。そう言うの。」
「松下さん、結婚してたんだろう。男の人と一緒にいた事あるんだろうし。」
「そうですけど。」
「何が食べたい? こんな時間だから、あんまり選べないけど。」
「なんでも。」
「じゃあ、焼肉にでも行こうか。知り合いの店があるから。」
店に入ると、薄暗い個室の様な空間に通された。
「飲めるよね?」
上川は瓶ビールを頼んだ。
小さくて形がキレイなコップに、奈江はビールを注いでいく。
「ありがとう、松下さんも。」
「私、やっぱり飲まないでおきます。ずっと頭が痛くって。」
「そっか、じゃあ、ウーロン茶でも頼もうか。」
「すみません、もっと早くに言えば良かったんですけど。」
「何が好き?」
上川は奈江を見ている。
「なんだろう。」
奈江は下をむいた。
生肉が運ばれ、上川が焼いていた。奈江も焼こうとトングを取ったが、この前見た映画を思い出し、上川の顔を見つめた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも。」
目の前にある生肉が、手術で切り取られた人の一部の様に感じ、奈江は気持ちが悪くなった。
「松下さん、大丈夫?」
「ごめんなさい、先生。ちょっと調子が悪くて。」
「そっか。それならフルーツでも頼もうか。」
「いいえ、食べます。美味しそうですね。」
奈江はそう言って肉に手を伸ばした。
店を出ると、上川は新築した自分の病院へ、奈江を案内した。
真新しい塗料の匂いの立ち込める病院のロビーは、吹き抜けになっているせいか、照明が消えていても、昼間の様な錯覚を覚える。
「ここで、一緒に働かないか?」
上川はそう言って、待合の席に腰を下ろした。
「仕事が嫌なら、専業主婦になってもいいんだし。」
「先生、前にも言ったけど、私は今の病院から離れるつもりはありません。それに、もう二度と結婚するつもりなんてありません。」
「みんな君を傷つけてるじゃないか。あの技師長も、師長も、君の元旦那だって。みんな捨てて、ここにおいでよ。ここなら松下さんの事を知る人は誰もいないよ。」
「これから新しい人間関係を作るなんて、疲れます。」
「ここに座って。」
奈江は上川の隣りに座ると、上川は奈江の肩に手を回した。
「痛っ、」
「どうした、静電気とか?」
奈江は帯状疱疹が出ているとは言えず、黙って下をむいた。
「松下さん。1回失敗すると、どうしたら上手くいくのかわかるだろう。結婚に憧れだけを抱いている女の子達よりも、一度辛い思いをした人の方が、ずっと一緒にいられると思うんだ。」
上川はそう言った。
「先生は、わざわざ離婚した女の人を探していたの?」
奈江は上川の方をむいた。
「たまたま松下さんがそうだっただけだよ。俺といると、過去の事も話さなくていいから、そっちも都合がいいだろう。」
上川は奈江の顔を見た。
「先生は結婚した事、あるの?」
「ないよ。結婚までの課程を、恋愛から始めるのって、なんか面倒に思うんだよ。相手の立場を理解して、結婚の契約をして、それから自由に暮らしていくのが理想だね。恋愛から始めると、昔の方が優しかったとか、約束が違うとか、そういう事で諍いになるだろう。人なんて年を取っていくんだし、出会った頃のままでいるなんて、到底無理な話しだよ。もちろん、子供がほしかったら作るし、夫の義務も、父親の義務も果たすから、それ以外は好きにさせてほしい。」
上川が言っている事は、少し前まで、自分もそう思っていた。改めて相手に言葉にされると、ひどく冷たい事を言っている様に感じる。こういう話しは、映画を見ているように、一時停止したり、早送りできないかな。
「先生、そういう考えに賛同してくれる人を探したらどうですか? 今、いろいろあるじゃないですか、パーティーとか、アプリとか。」
奈江はそう言って立ち上がった。
「松下さんは、まだ恋愛しようとか思ってた? それなら、結婚を前提に付き合おうか。」
上川が慌てて言った。
「私は気が済むまで仕事を続けます。1人で死んだって、それはそれです。」
上川は奈江に近づいて、両手腕を掴んだ。
「寂しいとか、思わないの?」
「それは結婚しても、誰かと一緒にいても同じです。寂しいって気持ちなんて、一番必要ない感情ですから、あんまり考えない様にしてます。」
「松下さん、本当に辛い思いをしたんだね。」
上川は奈江を抱きしめた。
「先生、痛いです。ごめんなさい。」
奈江は上川から離れた。
「送っていくよ。」
上川はそう言った。
「大丈夫です。」
奈江は病院を出た。
7章 選ばれた記号
冷たい冬の夜の風は、コートを着ているはずなのに、左肩にチクチクと針を刺してくるようだった。
奈江は携帯を取り出すと、家までの道のりを調べるために、地図を開いた。
徒歩で45分。
ついてないよ。少しゴネて、タクシーくらい呼んでもらえば良かったのかも。
市役所の灯りが見えた。もうとっくに帰っているか。都合のいい時だけ、村岡を利用しようなんて、私もセコい女だね。
奈江は地図が示す通りに歩いて行くと、
「松下?」
奈江の横に車が停まった。
「村岡くん。」
「寒いから乗れよ。」
「いいよ、少し歩きたいし。」
奈江は心とは違う言葉を言った。
「早く乗れって。松下が歩きたいなんて思うわけないだろう。」
村岡は車から降りて、奈江を助手席に乗せた。
「ごめん。」
奈江は謝った。
「なんで謝るの?」
「迷惑掛けてるから。」
「ちょうど、俺も帰るところだし、ぜんぜん迷惑じゃないよ。」
「残業だったの?」
「そう。月末は締めがあるから。松下は?」
「うん、ちょっといろいろ。」
「なんか、ニンニクの臭いがするぞ。」
「焼肉食べに行ったからだと思う。」
「誰と?」
「病院の人と。」
「楽しくやってるんだな、良かったよ。」
村岡はそう言って、奈江の手を握って笑った。
暗い顔をしている奈江は、
「聞いてくれる?」
そう言って下をむいた。
「どうした?」
村岡は奈江の手をぎゅっと握った。
「今日ね、塹壕にいたら敵に見つかって、もうダメだ、投降しようって手を上げようとしたら、味方が敵を撃ってくれてね。今度は自分が味方に撃たれるところで、目が覚めた。投降しようとした私は、裏切り者なんだよね。」
「もしかして、あれ全部見たのか?」
「そう。一気に。」
村岡には奈江の夢の原因がわかった。
「焼肉なんか行ってる場合かよ。」
「ナイフで金歯を取るシーンがあるじゃない、肝臓の事も、思い出してね……。」
奈江は村岡の手を離すと、ずっと気持ち悪かった胸を擦った。
「明日は?」
「仕事だよ。」
「遅いのか?」
「ううん、普通。」
「今日は家に泊まれよ。朝、家まで送ってやるからさ。」
奈江は左肩を撫でると、コートに涙の雫が落ちた。触ると痛くてどうしようもないのに、撫でずにはいられない。
「松下、おまえ、どうしようもないな。」
村岡のアパートの前についた。
「実家じゃなかったの?」
「ああ、就職してからずっとここに住んでる。実家には新しい親父がいて、帰りづらいんだ。」
村岡は玄関の鍵を開けた。
「ごめん、やっぱり帰るよ。夢見たくらいで、1人でいられないって、バカみたいだし。」
「夢くらいっていうなよ。松下の見た夢は、普通の神経してるヤツが見る夢じゃないだろう。」
奈江は俯いた。
「風呂はこっち。早くニンニクの匂い消してくれよ。」
村岡は奈江のコートを脱がせようとした。
「ここにちょっと、」
奈江は左肩を指差した。
「大丈夫だ、俺は盛大に水疱瘡に罹ったから。」
村岡は奈江に着替えとバスタオルを渡した。何も言わなくても自分の事をわかっている村岡の優しさに、また涙が出そうになる。
「借りてもいいの?」
奈江はタオルで顔を隠した。
「早く入ってこいよ。」
村岡は奈江の頭を撫でた。
奈江はカバンから歯ブラシセットを出した。
「ずっと、気持ち悪い味がしてて。」
「なんで断らなかったんだよ。」
「話してもわかってもらえないでしょう。」
「そうだな。」
村岡は奈江の背中を押した。
「ごめん、じゃあ先に。」
奈江が浴室から出てくると、
「寝てろ。」
村岡はそう言って、敷いてある布団に奈江を座らせた。村岡が浴室へ行くと、奈江は棚にあった本を読み始めた。
図書館見たことのある戦争の本が、いくつか棚に並んでいる。映画では表現できない真実も、文章なら展開ができる。奈江は何度も同じ文を読み返し、想像を膨らませていた。
「やっぱり読んでたのか。今日はやめておけ。」
浴室から出てきた村岡は、奈江から本を取って背中に隠した。
「どうせ、眠れないんだし、貸して。」
奈江は村岡に手を出した。
村岡は奈江の左肩を触った。
「痛っ、」
「眠れないのは、これか?」
村岡は奈江が着ている、少し襟元が伸びたTシャツを引っ張った。
「なにするの!」
奈江の左肩が、朱色になって少し盛り上がっている。ブラジャーの線が掛かっているあたりには、紫色になった皮膚が見える。
「出てるのはここだけか?」
奈江は左の腰を触った。
村岡はTシャツをめくると、さっきより薄い朱色ではあるが、引っ掻いて水疱が潰れた痕がある。
「病院にいけよ。」
村岡はそう言って奈江の顔を覗いた。
「そのうち治るよ。それに、いくら薬を塗っても、痛みは取れないし。」
村岡は奈江の頭を自分の胸にあてた。
「もう自分を解放してやれよ。誰も松下を責めてないって。」
奈江は首を振った。
「そうやって腐るなって。」
「簡単に切り替えられないよ。ずっとこれで生きてきたんだし。」
「実家には帰ってるのか?」
「ううん。孫を見せろって言われてたからかね。なんだか帰りづらくって。」
「孤独だな、俺達。」
村岡は背中に隠していた本を床に置いた。
「これ、外せよ。痛いだろう。」
村岡は服の上から奈江のブラジャーのホックを触った。
「寄り掛かったりして、ごめん。」
奈江は村岡から離れると、布団に足を入れた。
「さっき、なんで泣いたんだ?」
村岡は奈江の頭を触った。
「よくわかんない。」
奈江は村岡を見て小さく笑った。
「さっきの本貸して。もう少し読んだら、眠るから。」
「ああ、これか。」
村岡は床に置いた本を手に取ると、手を出した奈江に渡そうとしたが、途中で手を止めた村岡の顔を、奈江は覗き込んだ。
「村岡くん、早く貸して。」
村岡は奈江の頬に手をやると、本は布団の上に静かに落ちた。奈江の唇に自分の唇を重ね、奈江の左肩に触れないように背中を包んだ。そして、逃げようとする奈江に、もう一度唇を重ねた。
村岡は奈江の背中に置いた手で、ブラジャーのホックを外した。
「電気消すぞ。もう本は読めないからな。」
村岡はそう言って電気を消した。部屋の中が暗くなると、奈江はブラジャーのホックをかけ直した。
「村岡くん、」
腕枕をしようとしている村岡の腕を、奈江は戻した。
「どれくらいで治るんだ?」
村岡は奈江の髪を撫でた。
「1カ月くらいかな。」
奈江は村岡の枕を引っ張った。
「そうだな、ごめん。」
村岡は奈江に枕を渡すと、ソファからクッションを持ってきて、自分の頭にあてた。
「松下、付き合おうか。」
奈江は返事をしなかった。
村岡は奈江の唇に近づいた。抵抗しない奈江に唇を重ねると、思わず奈江の左肩に手をおいて、自分の方へ引き寄せようとした。
「痛っ!」
「ごめん。」
村岡は奈江の顔を見つめた。
「こんなに好きなのに、触る事もできないのか。」
村岡はそう言って、奈江の頬に額をつけた。
「好きだなんて、簡単に言ったらダメだよ。」
奈江は天井を見ていた。
「松下はそれでいいのか?」
「何が?」
「ずっと一緒にいたいとか、離れたくないって思わないのか?」
「ねえ、村岡くん。悲しいとか、悔しいとかそんな気持ちって力になるよね。落ち込んでいても、立ち直ろうとする気持ちが生まれるから。でもね、寂しいって気持ちだけは、力にならないの。人を弱くするだけ。だからね、私はそんな感情なんてもう捨てた。」
「松下が軍人だったら、その下につく兵隊は堪んないだろうな。」
「寂しいって気持ちが国を滅ぼすんだよ。神様はなんでそんな愚かな感情を与えたのかな。」
「寂しさで滅んだ国ってあるかよ。」
「さぁね。」
「適当な話しだったのか。」
「そんな事ないよ。だってさ、赤ちゃんに何も話さないで育てると、1歳まで生きられないって聞いたよ。」
「それが寂しいって感情のせいなのかは、わからないだろう。視覚とか聴覚とか、それの発達の課程が上手くいかなかったのが原因かもしれないし。松下だって、」
「私だって、何?」
「嘘つけないんだよ、ほら。」
村岡は奈江の肩を指差した。
「これは、ちょっと疲れただけ。仕事でもいろいろあったから。」
奈江は村岡を手をほどくと、体を正面をむけた。本当は村岡に背中を向けたかったけど、左肩を下にする事が、痛くてできなかった。
「村岡くん、ここはちょっと狭いな。狭くて暗い所にいると、また夢で見そう。」
奈江はそう言って布団を被ろうとした。
「松下、」
村岡は何度何度も奈江にキスをした。
「もういいよ、村岡くん。」
奈江は村岡を止めた。
手術台の上で裸になっている自分は、麻酔用のマスクをかけら寸前だった。抵抗しようとしても、体が痺れて動かない。せめて最後に、自分を葬ろうとしている医者の顔を見てやろう、奈江はそう思い、目を動かした。大きなマスクから覗く2つの目は、白目の部分が少し黄色く見える。さっきまで白黒だった世界が、緑色の術衣と緑色の床に変わっている。ここは、現実の世界なんだ。
奈江は驚いて目を覚ました。
「どうした?」
村岡が目を覚ます。少し荒くなった息を整えると、
「なんでもない。」
奈江はそう言ってまた布団に入った。
やっぱりダメなんだ。村岡の隣りに寝ても、おかしな夢を見てしまう。奈江は背中を丸めると、村岡が顔を覗き込んだ。
「今日はどこの戦場へ行ってきたんだ?」
村岡が聞く。
「えっ?」
「夢、見たんだろう?」
「うん、そうだけど。」
村岡は奈江の背中をさすった。
「逃げられなくなったのか?」
奈江は首を振った。
「もう寝ようよ。」
布団に潜ろうとした奈江の右肩を、村岡は優しく掴んだ。
「ちゃんと話せよ。話せば、正夢にならないって言うからさ。」
「村岡くん、私の夢の話しまで聞いていたら、仕事に響くよ。」
村岡は奈江の手を握った。
「いいよ、そのためにここにいるんだから。」
奈江は村岡の目を見ると、
「今日は病院。」
そう言った。
「解剖でもされてたのか?」
「そう。」
村岡は奈江の顔を自分の胸にうずめた。
「俺達、32になったんだよな。」
「そうだね。」
「松下は子供の頃の感性のままなんだよ。」
「なにそれ。」
「見たくないものも、見たいものも選べない。現実も作り話もみんな同じに思えてきて、夜に思い出す。結婚してた頃って、そういう感覚は鈍ってたんだろう?」
「そうかもね。」
「俺と一緒にいても、松下は松下のままなんだよ。少し安心した。」
村岡がそう言うと、奈江は村岡の顔を見上げた。
「都合のいい解釈だね。だけど、本当にそうかもしれないね。」
村岡は微笑んだ。
「寒くないか。」
「大丈夫。」
「あと少し眠ろうか。」
村岡は奈江に何度もキスをした。
「もういいよ、村岡くん。」
奈江はそう言って目を閉じた。
8章 落とした消しゴム
「今日も家に来いよ。」
朝、奈江の家までついてきた村岡はそう言った。
「今日は大丈夫。」
「じゃあ、俺がこっちにきてもいいか。」
「だから、大丈夫だって。」
「なぁ、松下。」
「何?」
「こんなの持ってきて悪かったな。」
村岡はDVDを手に取った。
「もう一度見たかったから、良かったんだよ。」
「本当か?」
「本当。村岡くん、昨日の本、貸してほしいな。」
「いいよ。後で連絡する。」
職場に着くと、唯が欠伸をしていた。
「寝不足?」
奈江が聞くと、
「新しいゲームが面白くてね。」
唯はそう言った。
「唯、ゲームなんてするの?」
「大好き。この前一緒に飲んだ田嶋さんが、教えてくれたヤツにめっちゃハマってさぁ。」
唯はもう一つ欠伸をした。
「2人はいつも仲がいいんだね。」
上川がやってきた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
「先生はいつまでここにいるの?」
唯が上川に聞いた。
「来月には退職するよ。」
「いいなぁ、新しい病院。」
「三浦さん、うちにくる?」
「行かないよ、先生の病院、給料安いし。」
「はっきり言うなぁ、ここが高すぎるんだって。」
「先生、辞める前にご飯奢ってよ。」
「いいよ。来週、2人が日勤の時に、食べに行こうか。」
浮かない顔をしている奈江に
「行こうよ、奈江。」
唯はそう言って、上川と約束をしていた。
「どうしたの?」
唯が奈江に浮かない顔の理由を聞いてくる。
「ちょっと疲れててね。帯状疱疹、できちゃった。」
「本当に? 薬もらいなよ。飲んだら早く治るから。」
「もう、遅いよ。盛大に広がったから。」
唯は上川を探しに行った。
奈江が検温に回っていると、
「松下さん、終わったら処置室で待ってるから。」
上川が声を掛けてきた。
「大丈夫です。もうピークは過ぎましたから。」
「ダメだよ。松下さんのせいで、免疫のない子供とか、妊婦さんに感染したらどうするの?」
上川の説得に奈江は頷いた。
「そうですね。取り返しのつかない事になりますよね。」
検温を終えると、処置室へむかった。
「そこに座って。」
奈江は丸椅子に腰を下ろした。
「いつから?」
「3日くらい前に気がついて。」
「ちょっと見せてくれる?」
「見せられないです。脱がないといけないから。」
「松下さんは、俺を男として見てるんだ。今は医者なんだけどなぁ。仕事中は裸を見たって、何とも思わないよ。」
奈江は上のスクラブを脱いだ。
「これはひどいなぁ、水疱も潰れてる。」
プラスチック手袋をつけた上川は、奈江の肩を触った。
「痛っ!」
「薬つけるよ。服につかないように、ガーゼで覆うから。」
処置を終えて奈江がスクラブを着終えると、
「飲み薬も出しておくから。すぐに飲んでよ。」
上川は処方箋を書きながら、奈江に言った。
「すみません、ありがとうございました。」
奈江は上川に頭を下げた。
「松下さん、どうしてここまで放っておいたの?」
「最初はただの湿疹かと思ってて。」
「違うよ。俺が聞いているのは、松下さんの心。少し寝ないくらいでも、朝まで遊べる年齢なのに、高齢者と同じくらいの免疫しかないなんて、どれだけストレスを抱えてるんだよ。」
上川は奈江の手を握った。
「この仕事、もう辞めなよ。」
奈江は上川の手を離すと、
「先生、辞めたくないです。」
そう言った。
「頑固だね。そんなに強がってると、いつまでも治らないぞ。」
上川は奈江の左肩を指差した。
「仲良くしていきます。これも、自分だから。」
奈江はそう言って笑った。
「松下さんのそういうところが好きなんだよ。」
上川も奈江を見て笑った。
「今度はピザでいいですか? 焼肉だと、手術を連想してしまうんです。」
「ああ、いいよ。三浦さんと店を決めておきなよ。」
「ありがとうございます。」
奈江は処置室を出た。
上川のおかげで、痛みは少しだけ引いた気がする。
「松下さん、お客さん来てるわよ。」
詰所に戻ると、師長が奈江に言った。
「どちらに?」
「デイルームに行ってもらった。高齢の女性よ。」
奈江はデイルームにその人を探しにむかった。
幾人かがテーブルに座っている中、窓際に座る高齢の女性を見つけた。
「あの、松下ですけど。」
「あっ、あなたが、」
女性はそういうと奈江に頭を下げた。
「どこかで会いましたか?」
奈江が女性の肩に手を掛けると、
「はじめまして。橋本悟の、その、」
女性は言葉につまった。
奈江はポケットに入っていた鏡を女性に渡すと、
「これ、」
女性はそう言って、その場に泣き崩れた。
奈江は女性を椅子に座らせると、自分は女性の前にしゃがんだ。
「これは大切なものだったんですね。」
「そうなの。大切なもの。」
女性はそう言って鏡を愛おしそうに眺めた。
「私と橋本くんは小学校からの同級生。橋本くんはお父さんが会計事務所をやっていて、裕福な家の子だったの。私の家は小作農から、戦後にやっと土地をもらった貧乏農家。20歳の時に、隣り町の農家の家に嫁ぐ事になって、橋本くんとはそれっきり。町を出る時に、この鏡を私にくれたんだけど、なんだか私の人生をバカにされているようでね、橋本くんにいらないって返したの。それから私は、いろんな事があったわよ。あなたには想像もできない事もたくさんね。幸せだったのか、どうなのか、よくわからない人生よ。偶然、ここの病院で橋本くんと再会して、いろんな話しをしたの。そして、渡したいものがあるから、この日にあなたに会いにくるようにって言われてて。」
女性は手にしている鏡を覗いた。
「もう、こんなになっちゃったのね。あなたが羨ましい。」
女性はそう言って奈江の頬を触った。
「ずっと悔しい思いで生きてきたの。だから、こんなに長く生きれたのかも。幸せなんて簡単に貰っちゃダメよ。」
仕事を終えて更衣室に向かう途中、村岡からラインがきた。
〈迎えに行く。〉
〈どこに? 〉
〈病院の前にいる。〉
「奈江、上川先生に薬塗ってもらったんだ。」
更衣室で着替えていると、唯が言った。
「そう。」
唯がガーゼをめくった。
「ひどいね、まだ痛むの?」
「うん、少しね。」
「先生の前で、よく裸になれたね。」
「裸じゃないよ。」
「そうかなぁ。ここ、見せたんでしょう?」
「診査だもの、仕方ないよ。」
奈江はそう言ってロッカーから私服を取った。
「今日はこのまま帰るの?」
「帰るよ。唯も帰るんでしょう?」
「今日はね、元カレが家にくるの。」
「そういうのって平気なの?」
「むこうはね、きっと新しい彼女と上手くいってないのよ。まぁ、私を越える女はいないってわけ。」
「何年付き合ったの?」
「大学の頃からだからね、10年か。奈江の結婚生活より長いでしょう。もうね、愛なんてないの。腐れ縁。」
奈江は車の少なくなった駐車場へ歩いて行った。昼間の混雑とは違い、まばらに停まっている車は、動物が食べ掛けたトウモロコシのようだ。
「松下、こっち。」
「今日は行かないって言ったよ。」
「いいから、乗れよ。」
奈江がシートベルトを締めると、
「腹減ったなぁ。なんか食べに行くか。」
村岡はそう言った。
「行かない。」
「じゃあ、どうする? なんか作って食べようか。」
「2人で同じものを食べないといけない、そんな決まりでもあるの?」
「冷たいなぁ。昨日はあんなに儚げだったのに、今日は別人だな。」
「ここね、薬をもらったの。少し痛みが引けたから、今日は眠れると思う。」
奈江は左肩を触った。
「そっか。昨日の本の続き読むだろう?」
「そうだね、借りようかな。」
「あの本はさ、貸し出しできないんだよ。」
「意地悪だね、そんな事言う人だとは思わなかった。」
「だから、うちにこいよ。」
奈江は下を向いて考えていた。
「そんなにたくさん悩む事か? 本も読めて、俺も付いてくるんだから、迷う事はないだろう。」
村岡だって、そうやって笑っていても、1年もすればケンカが絶えなくなる。言い返す言葉をたくさん持っている彼なら、どれほど激しいケンカになるのだろう。契約だけ結んで、お互いに伸び伸び暮らす生き方の方が、利口な選択肢なのかもしれない。そこまでして結婚や交際にこだわる事もないか。
「松下、どうした?」
「ううん。なんでもない。」
「そうやって殻に閉じこもっている時は、話しを避けてるんじゃなくて、何かを考えてるんだろう?」
「そうだね。」
「松下が閉じこもってる間、俺はずっと待っててやるからさ。」
村岡と夕食を食べ終えた奈江は、昨日読んでいた本を手に取った。
「先に入ってこいよ。俺の後は嫌だろう。」
「そんな事ないけど。」
奈江は本を読み始めた。
「松下はキレイなお湯じゃないとダメだ。」
村岡は奈江の左肩をそっと触った。
「大丈夫なのか?」
「昨日より、ぜんぜん痛くない。」
「薬もらったんだろう? 後で塗ってやるから。」
「大丈夫。自分でできる。」
「なぁ、松下。」
「何?」
村岡は何かを言いかけて、ほらっと着替えとバスタオルを奈江に渡した。奈江が手に持っていた本を、本棚に戻すと、
「行ってこいよ。」
そう言って背中を軽く押した。
村岡がお風呂へ行っている間、奈江はガーゼに軟膏をつけていた。それを左肩に乗せると、昼間に会った女性の事を思い出していた。
2人揃って、幸せは貰ったらダメだって、そんな事を改めて言われなくても、もうとっくにわかっているんだから。2人はどんな人生だったのかな。
「松下、」
村岡が浴室から戻ってきたので、奈江は慌てて服をきた。
「見たの?」
「見えたんだよ。途中で考え事をした松下が悪いんだろう。」
「うん。そうだね。ごめん。」
村岡は奈江の手を握った。
「本は持ってきていいからさ、今日はこっちで横になろうか。」
「布団、あるんでしょう?」
「あるよ。だけど昨日みたいに、2人共同じ場所で寝るんなら、布団なんていらないって。」
奈江が下をむいて少し考えていると、
「ここには、絶対触らない様にするから。」
村岡はそう言った。
ベッドに入り、村岡が隣りにいると思うと、さっきから同じ行を繰り返し読んで、内容が頭にひとつも入って来なかった。
「そろそろ電気消すぞ。」
村岡が言った。
「もう少し。」
奈江は本を閉じようとしなかった。
「さっきから、ぜんぜん進んでないだろう。今日はきっと、そういう日なんだって。」
村岡は奈江から本を取り上げた。電気を消すと、村岡は奈江に近づいた。
「村岡くんの目的はこういう事なんだ。」
奈江は村岡を拒んだ。
「自然な流れだろう。松下の事が好きなんだから。」
「気持ちだけで繋がる事はできない? それなら、体が朽ちても、ずっと好きでいられるから。」
「ずっと好きでいてほしいのか?」
「無理なら、好きだなんて言わないで。」
村岡は奈江の突き刺すような瞳を見つめると、奈江の前髪をかきあげ、額を出した。
「松下はずっと好きでいられるのか?」
「わからない。」
「だったら、俺にも要求するな。」
村岡は奈江にキスしようと顔を近づけた。
「ヤダ。」
「本当に厳しいなぁ。」
村岡は奈江の顔を自分の胸にうずめた。
「聞こえるか、心臓の音。」
「うん。」
「ずっと聞いてろよ。松下にだけ聞かせてあげるから。」
「村岡くん。」
奈江は顔を上げた。
「何?」
「けっこう詩人だね。」
「バカ言うなよ。恥ずかしくて顔見れなくなっただろう。」
村岡は奈江の左肩にそっと触れると、
「早く直せよ。」
そう言って唇を重ねた。
寝返りを打つたびに、奈江は辛そうな顔をしている。眠っているはずなのに、左肩を何度も撫でている。松下が選んできた事なのに、なんで俺が後悔してるんだろう。ずっと好きだった松下は、こんなにも辛そうな顔をしている。
村岡は自分の方をむいた奈江の髪を撫でた。
こんなに好きなのに、どうする事もできないのか。左肩をさすっている奈江の手を握ると、村岡は奈江の唇に近づいた。
9章 空欄のまま
「起こしてくれれば良かったのに。」
村岡は先に起きて本を読んでいた奈江の頬に、顔を寄せた。
「昨日は夢を見なかったのか?」
「うん。よく眠った。」
「そっか、それなら良かった。」
奈江の読んでいた本を枕元に置くと、村岡は奈江を自分に寄せた。
「良くないよ。」
奈江は村岡から離れると、
「村岡くん、勝手にここ、外したでしょう?」
そう言って背中を指差した。
「だって、その方が楽になるかと思って。」
「私、村岡くんの家族じゃないよ。彼女でもないし。そんな気を使わないで。」
こんなに近くで怒っている奈江を見て、村岡はなぜか嬉しかった。
「じゃあ松下は、家族でも彼氏でもない男の家で寝てるのかよ。」
「それは……、」
言い返す事のできない奈江は、急に小さくなった。
「松下、答えなんていらないよ。空欄のままでいいから。」
奈江は少し考えて、また本を読み始めた。
「今日は休みなんだろう。映画でも見に行くか?」
「行かない。」
奈江は起き上がった。
「薬飲まないと。」
カバンから薬を出していると、
「ほら、水。」
村岡はコップいれた水を奈江に渡した。
「ありがとう。」
奈江は村岡からコップを受け取ると、薬を口に入れ、ゴクンと飲んだ。薬がなかなか落ちていかない気がして、胸をトントンと叩いた。
「大丈夫か?」
「うん。」
「松下。」
村岡は奈江を後ろから抱きしめた。
「村岡くんって意外とベタベタするんだね。難しい事ばっかり言ってる変わった人だと思っていたのに。」
「松下の近くには、いつも誰かいただろう。話したくても、なかなか話せなかった。やっとこうして、2人で話せると思ったら、少しでも近くにいたいんだよ。」
村岡は息がかかるほど、奈江に近づいた。
「2人で話ししてると、よく笑われたよね。」
奈江はそう言った。
「だから余計に話せなかったんだ。松下に迷惑かかると思ったからさ。」
「村岡くん、帰ってもいい?」
「えっ、嘘だろ!」
村岡は驚いて、正面を向いて奈江の肩を掴んだ。奈江は少し痛そうな顔をした。
「ごめん、つい。」
「着替えて待ち合わせしよう。ちょっとだけ、ついてきてほしいところがあるの。」
2人はショッピングモールで待ち合わせた。
「何買うんだ?」
「鏡。」
「鏡なら、この前持ってただろう。」
「あれは持ち主の所へ戻ったの。」
「松下が貰ったんじゃなかったのか?」
「うん。」
奈江は手鏡を選んでいた。
「いろんなのがあるんだね。」
「そうだな。」
村岡は桜が掘られている朱色の鏡を手に取った。
「きれいだね、それ。」
村岡がひっくり返すと、奈江の顔が映った。
「プレゼントしようか?」
奈江はその鏡を手に取ると、
「自分の事だから。」
そう言ってレジへむかった。
「自分の事ってどういう事だよ。」
村岡は奈江の後ろについてきた。
「枕の下に鏡を置いて寝ると、魔除けになるんだって。もう、怖いものは寄ってこない。」
村岡は奈江の手から鏡を取ると、レジへむかった。
「返して、私のものだから。」
奈江が財布を出すと、店員は困った顔をした。
「ほら、後ろで待ってろ。」
村岡はきれいに包まれた箱を奈江を渡した。
「村岡くん、ありがとう。」
「腹減った。松下、なんか奢れよ。」
駐車場に向かう途中、ケタケタと笑いながら走っている子供が、アスファルトの上で転んだ。近くを通った中年の女性が子供を立ち上げさせると、大声で泣き叫ぶ子供に気づいた両親は、慌てて子供の前にやってきた。
ヒステリックに子供を叱る母親の腕には、赤ちゃんが抱かれている。母親の声に驚いた中年女性がその場を後にすると、父親は泣いている子供を抱っこした。
見覚えのあるその背中は、奈江の元夫だった。
子供、いたんだ。
奈江と目が合うと、元夫避けるようにその場を去っていった。自由になったはずなのに、いろんなものがあの人を縛り付けている。
奈江は左肩を触った。
「また痛むのか?」
村岡が聞いた。
「ぜんぜん。」
奈江はそう言って笑顔を見せた。
幸せはやっぱり貰っちゃいけないものなんだ。手を伸ばして手に受け取った幸せは、すぐに偽物にかわっていた。
誰かの抱えているものを少しだけ覗いたら、軽くなった心が、私の方が幸せだと勘違いした。
これで良かったんだ。
「村岡くん、帰ろう。」
奈江は村岡の顔を見た。
「ごめん松下、車は反対側に停めてあるんだった。」
村岡は奈江の手を掴んだ。
村岡の家について、さっき買ってもらった鏡を見ながら考え事をしていると、村岡は奈江の隣りに座った。何も言わない村岡に、
「これ、どうもありがとう。」
もう一度お礼を言った。
「さっきから、何考えてるんだ?」
「なんで?」
「嬉しそうだったり、寂しそうだったり、そんな風に見えるから。」
「ちょっとね、昔の事が映ったの。」
奈江は鏡を覗いた。村岡は鏡に映る奈江を見ると、
「松下はずっと変わらないな。」
そう言った。
「年を取ったよ。すごくずるくなった。」
「そうか? 昔のまんまだよ。だから、怖い夢を見てるんだと思うけどな。」
「夢はね、これがあるからもう大丈夫。」
奈江がそう言うと、
「ひどいなぁ。鏡の方が信頼されてるのか。」
村岡が笑った。
「村岡くん、映画見たいな。」
「今からか?」
「明日にした方がいい?」
「今日でもいいぞ、何が見たいんだよ、」
「ハクソー・リッジ。」
「そんなの見たら、また夢に出てくるぞ。」
「大丈夫。村岡くんが隣りにいるから。」
奈江は鏡を握った。
「いいよ。見ようか。」
ベッドに入り、本の続きを読んでいた奈江は、村岡が浴室から戻ってくるのを待っていた。今日1日でいろんな事を考えた。本を閉じて待っていると、だんだんと瞼が重くなってくる。
話したい事がたくさんあるんだから、もう少しだけ起きていなきゃ。
浴室から出てくると、奈江は眠っていた。疲れていたのだろうか、読みかけの本が枕の横にそのままになっている。今日1日で、2人の距離は近くなった気がする。好きだという気持ちが、自分の体から溢れてくる。
話したい事がたくさんあるんだから、もう少しだけ起きていてほしかった。
村岡は電気を消して、奈江の隣りに並んだ。
土の上から出る目玉を、カラスが狙っている。怖くて目を閉じると、目の前に軍靴の足音がする。
味方なの? 敵なの?
奈江は恐る恐る目を開ける。
「松下、大丈夫か?」
村岡が奈江の顔を覗いた。奈江は起き上がり、息を整えた。自分の目があるのを確認しようと、鏡を探した。
「これか?」
村岡が奈江に鏡を渡した。
「テーブルの上に置いたままだったぞ。」
「……。」
奈江は鏡を覗くと、胸に抱いた。
「今日はどこへ行ってきたんだ。」
村岡がそう聞くと、奈江は少し考えていた。
「だから見ないほうが良かったのに。」
村岡は奈江の背中を手でさすった。
「あれって実話なの?」
「そうだよ。モデルになった兵士がいるんだ。」
「すごい人だね。」
「本当だな。銃を持たないで戦場へ行くなんてさ、よっぽど神様が守ってくれていたんだろうな。」
「ごめんね、村岡くん。」
「なんで謝るんだよ。」
「こんな女、面倒くさいでしょう。」
奈江は鏡を彫られた桜の模様を触っている。
「いいんだ。」
村岡は奈江の顔を見つめた。
「そのうちケンカになるかもよ。」
「その時は松下が勝つまでやればいいだろう。」
「村岡くん、」
奈江はまた何かを言い掛けた。
「水飲むか。喉渇いたんじゃないか?」
「そうだね。」
2人は冷蔵庫の前に立った。
「明日は夕方から仕事だったよな?」
「そう。」
「朝、ちゃんと送ってやるから、帰ったら頭を空っぽにするんだぞ。」
村岡は水を奈江に渡した。
「ありがとう。」
奈江の手を握ってベッドに座らせると、Tシャツを少し引っ張って左肩の出した。
「まだ痛むのか?」
「時々ね。でも、すごく良くなった。」
村岡は黙って奈江のTシャツを脱がせると、治りかけた左肩を触った。少し戸惑った表情を見せた奈江の顔をあげると、奈江の持っている鏡を枕の下に入れた。
「松下、」
村岡は静かにその答えを待った。
「言葉が見つからない。」
奈江はそう言って、微笑んだ。
「無理しなくてもいいんだぞ。」
村岡は奈江を抱きしめた。
「松下は冷たいな。」
村岡は服を脱ぐと、奈江の体にくっついた。
「村岡くんは温かいね。」
奈江はそう言って目を閉じた。村岡の左肩に奈江の涙の雫が落ちた。
「俺達はただの兵隊だよ。なんにも考えないで、走っていればいいんだ。死にたくなかったら、隠れればいいし、誰かを撃ちたくなかったら、弾を込めなければいいんだ。世の中が変わらないんだから、そうやって生きるしかないだろう。」
奈江は村岡の手を握った。
「勝手な事、言うんだね。卑怯だよ、そんなの。」
奈江が言った。村岡は奈江を見つめると、奈江は涙を手で拭った。
「松下、眠いか?」
「少し寝たから、大丈夫。」
村岡は奈江の頼りない言葉を聞くと、奈江をベッドへ寝かせた。寒そうにしている奈江の体に、鼓動が早くなり、少し熱くなっている自分の体をゆっくり重ねた。
10章 最後の問い
昼休み。
「村岡、松下ってどうしてるか知ってるか?」
田嶋は村岡の部所にやって来た。
「ラインをしても、電話をしても、全く連絡が取れなくてさ。」
田嶋はそう言って携帯を握りしめた。
「松下とは、別れた後にも連絡を取ってたのかよ。」
「とってないよ。」
「じゃあ、出ないだろうな。松下は今は俺と一緒にいるから。」
田嶋は驚いて村岡の顔を見た。
「おまえ、女なんか興味ないかと思ってたよ。」
信じられない様な目で村岡を見ている田嶋の横に、新人の女の子がやってきた。
「田嶋さん、この前いなくなったでしょう?」
女の子はそう言って田嶋のワイシャツの袖を引っ張った。
「そうだったっけ?」
田嶋はとぼけた様子でその子に答えた。
「今度はちゃんと最後までいてよ。二次会も絶対にきてね。」
女の子は田嶋に送別会の案内を渡した。
「誰か辞めるのか?」
村岡は田嶋に聞いた。
「畑、今月末で退職するらしい。」
田嶋は村岡に言った。
「そうなんだ。ずいぶん急に辞めるんだな。」
「県庁の試験に受かったんだろう。ここは最初から長くいるつもりはなかったみたいだよ。」
「そうなのか。」
「奈江、来週の金曜日はどう?」
唯が言った。
「金曜日、何かあるの?」
奈江は薬を数えている手を止めた。
「上川先生がご飯奢ってくれるって話し。」
「そっか、そうだったね。」
「行ける?」
「うん。」
「明日の先生の送別会は行くの?」
「ううん。私、準夜だし。」
「残念だなぁ。奈江がいないなら、私も行かないかな。」
「行っておいでよ。松川さん達もいるんでしょう?」
「助手さん達はみんな欠席。師長がそうしたみたいだね。」
「え~、なにそれ。そういうところが、すごく感じ悪いんだよ。あの人、本当に損してるね。」
奈江は薬をまた数え始めた。
「誰の薬?」
「今日入院した人が持ってきた薬。」
「バラバラだね。好き勝手に飲んでたの?」
「そうだね。バラバラだけど、眠り薬だけキレイにないの。」
奈江はそう言って笑った。
「主任、面倒な人の担当はみんな奈江に押し付けるんだね。」
「いくら数を合わせても、また好きな様に飲むんだよ。昔はよく注意したけど、最近は本人にお任せする事にしてるの。一生ずっと病院にいるわけじゃないんだし、理由も理解しないで飲ませるつもりなら、全部粉にしてわからなくするしかないよ。」
「そんなこと言ったら、主任に怒られない?」
「こんなの屁理屈だって相手になんかされないよ。だから、薬は毎回手渡しするようにしてるんでしょう。その方が手っ取り早いけど、退院したら、またぐちゃぐちゃになる。」
「奈江はどうしたらいいと思うの?」
「ぐちゃぐちゃになる理由を考えなきゃ。眠剤と痛み止めだけなくなる人は、一晩中痛くてたまらないんだよ。朝方ウトウトしてすっきり起きられないんだから、そんな時に意味のわからない薬なんか飲みたくないんだし。」
金曜日。
奈江は唯と上川の3人で、居酒屋に来ていた。
「私は焼肉がいいって言ったのに。」
唯は上川にそう言うと、上川はただ笑っていた。
「2人は同期なの?」
上川が唯に聞いた。
「奈江がひとつ上。学校が同じなんです。優秀な先輩だったから、大学病院に残るか、行政に行くのかと思ってたのに、普通に民間で看護師やってて、びっくりしたんだよね。」
「松下さんはどうして、その道に進まなかったの?」
「私はそこの病院の奨学金を貰っていたから、それで。」
「昔はお金を出して引き止めるのは、お礼奉公だって言われてて、そういう事を廃止させる動きがあったのに、今はそうしないと、病院は人が集まらないんだよね。」
上川はそう言った。
「先生の病院は看護師はたくさんいるの?」
「さぁ、どうかなぁ。今までいた看護師達はなんとか残ってくれてたみたいだけど。勝手が変わるといろいろ反発も出るだろうし。」
奈江はビールを飲んでいた。
「松下さん、帯状疱疹はもういいの?」
上川は奈江に聞いた。
「すごく良くなりました。」
奈江がそう言うと、
「先生、奈江の裸見たの?」
唯が上川をからかった。
「そりゃ、診察の時は患部を見せてもらわないと。だけど、それは医者としてね。」
上川は冷静に唯に返した。
「私は嫌だな。だから、うちの病院にはかからない。」
「意外だなぁ。三浦さんはそういうの気にしない人だと思った。」
「ひどい先生。私はこう見えてすごく繊細なの。自分が勤務の時に人が亡くなったら、ずっと引きずるんだから。奈江はね、冷酷だよ。戦争映画大好きだし。」
「そうなの、松下さん?」
「大好きっていうか、なんていうか。」
「奈江、電話なってるよ。」
唯が言った。
「あっ、ちょっとごめん。」
奈江は村岡からかと思い、電話を持って外に出た。
村岡には今日はここにくる事を言っていたのに。
「もしもし、松下か?」
電話の相手は田嶋だった。
「ちょっと出てこいよ。今日は村岡とは一緒じゃないんだろう?」
「行かないよ。」
奈江はそう言って電話を切った。部屋で待っている村岡の顔が浮かんだ。なんでだろう。急に村岡の家に帰りたくなった。
「誰から?」
席に戻ると唯が聞いた。
「友達。」
奈江がそう言うと、
「田嶋さん? 村岡さん?」
唯が言った。
「違うよ。」
奈江はビールを飲み干した。
「先生、奈江はモテるんだよ。なのになぜか1人なの。」
唯は上川に言った。
「なんで1人なんだろうね?」
上川は笑っていた。
「松下さん、ピザ食べたの? この前リクエストしてたのに。」
上川が奈江にむかってそう言うと、
「2人で相談してきたの? だから焼肉じゃなくなったんだ。」
唯は少し膨れた。
「仕方ないなぁ。三浦さんがそんなに言うなら、今度連れて行ってあげるよ。」
「本当に?」
唯は喜んで奈江を見た。
「良かったね、唯。」
「奈江は?」
「私は苦手なの。お医者さんが生肉を掴むのって。」
上川はゲラゲラ笑った。
「松下さん、別に人の肉を食べるわけじゃないんだし。」
「そうですけど。」
「ピザ、頼みなよ。」
上川はそう言ってメニューを奈江に渡した。
唯と上川はもう一軒行くと言って、2人で歩いて消えていった。
奈江はタクシーを拾おうしたが、なかなか捕まらなくて、家までの道を歩いていた。
村岡はまだ起きてるだろうか。
腕時計を見ると22時半を回っている。
奈江は携帯をカバンから取り出すと、村岡に電話をした。
「松下、どこにいるんだ?」
村岡は1コールで電話に出た。
「駅前を出たところ。」
「家にこいよ。」
「まだ起きてるの?」
「待ってんだ。今、迎えに行くから。」
村岡はそう言って電話を切った。
寂しいという気持ちは、そのうち自由になりたいという気持ちに変わる。
奈江はまた同じ事を繰り返そうとしている自分が、情けなくなった。
「松下?」
田嶋が携帯を見ていた奈江を覗いた。
「誰?」
田嶋の横には若い女の子が腕を引っ張っている。
「ワカちゃん、先に行ってて。俺は後で行くから。」
田嶋はそう言って、奈江の隣りに立った。
「絶対きてよ。この前みたいに抜けたら承知しないからね!」
「そっちに行ったら?」
奈江はそう言って田嶋から離れた。
「村岡と付き合ってるって本当かよ。」
田嶋は奈江の肩を掴んだ。
「龍二には関係ないでしょう。」
「本当に村岡なんかでいいのかよ。おまえ、結婚してもうまくいかなかったんだろう。結局、俺と別れて寂しいから、フラフラしてたんじゃないのか?」
田嶋の言葉は間違っていなかった。
「また、同じ事を繰り返すなら、初めからやり直さないか。」
田嶋はそう言って奈江を見つめた。
「村岡くんが迎えにきたから行くね。」
奈江はそう言って村岡の車まで走って行った。
追いかけてきた田嶋は、
「答えになってないだろう?」
そう言って奈江を見た。
「どんな答えなら正解なの?」
奈江は田嶋に言った。田嶋は少し考えると、
「おまえといると、本当に疲れるわ。」
そう言って村岡が乗っている運転席の窓を叩いた。
「この女は大変だぞ。」
田嶋は村岡にそう言って笑うと、
「知ってるよ。」
村岡は笑った。
ベッドの上で、鏡に彫られた桜を見ていた奈江の隣りに、村岡が座った。
「松下。なんで松下が1人でいたのか、わかった気がする。」
村岡は奈江にそう言った。
「何が?」
奈江は村岡を見つめた。
「前に寂しいって気持ちなんかいらないって言っただろう?」
「そうだね。」
村岡は奈江の髪を撫でた。
「嬉しいとか、楽しいとかそんな幸せな感情なんか、すぐに消えていくんだよ。」
「知ってる。」
「悲しいとか辛いとかそんな不幸な感情は時間はかかるけど、いつか忘れていく。」
「それも知ってる。」
「寂しいって気持ちは、いつまでも消えないんだよな。」
「そう。」
村岡は奈江の肩を抱き寄せた。
「もう、痛くないのか。」
「うん。ぜんぜん平気。」
「寂しいって気持ちは2人でいたって、大勢でいたってなくなる事はないんだ。その気持ちを少しだけ忘れるとしたら、それはどうでもいいやつと、どうでもいい話しをした時だけ。」
村岡は奈江を見つめ、
「松下は俺といてもどうでもいいと思ってる。」
そう言って微笑んだ。
「そんな事ないよ。会いたいって思うし、村岡くんと話したいって、いつも思ってる。」
村岡は奈江の頬をつまむと、
「嘘つけ。」
そう言って奈江を胸に抱いた。
「松下の寂しい気持ちを忘れさせるのは、俺しかいないんだ。」
「言ってる意味がぜんぜんわかんない。」
奈江はそう言うと、村岡の胸で鼓動を確かめた。
「最後の音は、私が聞くからね。」
奈江は目を閉じた。
「松下の下の名前って、なんて言うんだっけ?」
村岡から離れた奈江は、
「もしかして、知らなかったの?」
驚いて村岡の顔を見た。
「知らないよ。松下は松下だから。」
「呆れた。」
背中をむけた奈江を見ていた村岡は、奈江の枕の下から鏡を取ろうとしていた。
「ダメだよ。」
奈江は村岡の手を捕まえた。
「松下の夢の中まで、助けに行ってやるから。」
村岡はそう言った。
「ありがとう、村岡くん。」
病院の白い壁は、目を焦がす様だ。
土埃と、鉄の匂いが立ち込める夢を見た後は、一瞬目眩を感じる。
奈江は左肩を触った。
湿疹も痛みもすっかり良くなったけれど、いろんな思い出が、肩の上に残っている。
時々感じるその肩の重さは、なぜかとても、心地がよかった。
終