2-3-16.
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「ディード様」
「わぁっ」
突然の、ブレトの声に反応して大きな声を上げてしまった。慌てて口元を押さえる。
「すみません。驚かせてしまいましたね」
頭を掻きながら謝られたけど、悪いのは僕だ。
「いいよ。執務中にボーっとしてた僕が悪い」
軽くそう答えたけれど、心臓の鼓動が激しすぎてヤバい。
きっと阿呆面を晒しているところを見られてしまったに違いない。
腑抜けた顔とか、してなかったよね。あぁ、どんな顔してたんだろ。思い出せないってことは、ヤバいのか。
今の僕の顔の色は、羞恥で赤くなっているのか蒼褪めているのかも分からないけれど、どっちにしろあまり見られたくない状態であることは間違いない。
口元を押さえたままの手で隠せているといいんだけれど。
そうだった。ポールの雑談があんまりにもウザいからって今だけは追い出したらダメなんだった。
今すぐ戻ってきてくれないかな。もうどんな無駄話もウザいとか言わないし、止めさせたいなんて思わないようにするから!
ぐるぐると馬鹿なことを考えた。ブレトの存在に動揺しているなんて気付かれたくないな、とよんでもいn
「な、なに? 今この案件について少し考えを纏めたいんだけれど」
「それはすみません。……ですが、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
後にして、と言おうとしてブレトの手が震えていることに気が付いた。
視線を上げる。
朝からずっと騎士団の遠征演習の件が頭から離れなかったから、ブレトと目を合せるのは、今日は初めてだ。
一瞬、ブレトの顔が、泣きそうに、見えた。
「え、あ……ブレト?」
「はい」
信じられなくて目を瞬くと、そこにあるのはいつものブレトの表情だ。ちょっと困っているようにも見えるけど、うん、それは垂れ目だから仕方がないんだよね。それだけだ。見間違いだったのかな。
「……あ、いや。うん、また後で」
そこまで言って、ブレトの瞳が悲しげに揺れたことに気が付いて、慌てて言い直した。
「この書類を後でやることにしよう。うん。それで? 話ってなにかな」
苦しいかな、と思ったけれどなんとか誤魔化して手にしていた書類を纏めて横に置く。
途中で、手にしたままの方が話を切り上げやすかったかなと思ったけれど、置いてしまったからにはもう諦めるしかない。
覚悟を決めて体の向きを変え、ブレトに向き合う。
「どうしたの? 僕、忙しいからさ。手短にお願い」
今すぐにでも、ポールを連れて行ってブレトに留守番させるなんてことを撤回したくなるから、そんな顔をするのはやめて欲しい。
元々下がり気味のブレトの眉が、今は更に下がっていた。お陰で、いつもは笑っているように見える垂れ気味の目が悲しんでいる風にしか見えない。唇もこわばっている。顔色だって悪い。
本当に、ものすごいショックを受けたっていう悲愴な顔だ。
正直、ブレトが言い出しそうな言葉は本当は聞かなくたって分かっていた。その程度には、僕はブレトを知っているつもりだ。
ブレトには、いつだって誰より幸せそうに笑っていて欲しいと思っているけれど。
けれど今の僕はそれを全部まるっきり無視して、僕が決めたことを僕は進める。
これは僕とブレトには必要なことだと信じているから。
「ブレト?」
「ディード様は……」
「なに?」
「いいえ、ディード様のお言い付け通りに。留守番は俺にお任せください」
ゆっくりと、口角を震えさせながら上げて、笑みの形を作ったブレトが、頭を下げた。土気色の顔色のままではあるけれど。
「……『絶対に着いていきます』って言い出すんだと思った」
思わず本音が零れ落ちる。
ブレトの考えてることなんて分かってるっていう自分の思い上がりが、恥ずかしい。
僕の言葉にブレトは力なく笑って、けれどしっかりと顔を上げて視線を合わせた。
まっすぐに見つめられて、言葉が出ない。
「御武運を、お祈り致しております」
視線が優しくて、胸が搔きむしられるような気がした。
僕はなにかとんでもない失敗を仕出かしているんじゃないかと不安になる。
けれど、もう決めたことだ。
「ありがとう。それだけかな。じゃあ、もういい?」
会話を切り上げたくて、机に置いた書類に手を伸ばした。視線を逸らす。
「はい。お忙しいのに、お時間を取らせてしまって。失礼しました」
頭を下げて、自分の席へと戻っていくブレトを、感じる。
反対されなくて良かった。
それなのに、なんで僕の胸はこんなに痛いんだろう。




