2-1-6.
■
いつもの様に運び込まれてくる書類の山を前にして、ため息が止められなかった。
朝イチで運ばれて来た分すらまったく集中できなくて、同じ行を何度も目で探すことになった。お陰で普段の半分、いやそれ以下すら進まない。
どうしても、父王から言われた言葉とドラン師の教えの齟齬が気になってしまう。
文字が何度も素通りしていってしまい、頭に残らなかった。
「ひとりで考えても答えがすぐに見つかるようにも思えないし、気分転換が必要だな」
それでも外に出て身体を動かすほどの気力もない。
とりあえず執務机から立ち上がった。
窓を開けて、空を見上げる。
ディードの気持ちとは裏腹に遠くまで青く澄んでいる。
時折小鳥たちが交わす声が聴こえてくる。
長閑で平和な国。それが父王の治世。
「はぁ。仕事も勉強も、父王から与えられた課題も、何も手に付かない。やっぱり僕には、荷が重いいんじゃないだろうか」
なにがとは言わないまでも口に出してみれば、それが事実のような気がして滅入る。
こんな風に落ち込んだ時、王太子教育が始まる前までは、甘い物を頼んだ。
紅茶にもたっぷりの蜂蜜とミルクを入れて貰った。
甘いケーキと甘いお茶。
ひと口味わう度に甘やかされている気がして、頑張れた。
けれど今、あのお茶と同じものを望んでも届く味はまったくの別物だ。
すでにその味を舌が覚えてしまって、記憶ですら「美味しくて嬉しかった」「幸せな味だった」と感じたという曖昧模糊なイメージしか思い出せない。
「肉は、マメのペースト。クッキーは小麦麸。紅茶は……色も香りもそっくりなのに、素っ気ないというか。あれってどうなっているのかな。不思議すぎる。毎回ちゃんと専属の侍女が淹れてくれてるけど、紅茶の茶葉にそっくりなのかな? 全然似てなかったり香りが変だったら誰かが疑問を持つだろうし。でも、淹れた香りは紅茶そのものなんだから、紅茶の茶葉とは別物だと分からなくても仕方がないのかな」
言葉にしてみれば、なんと不毛というか酷い食生活を送っているのかと悲しくなった。
紅茶を淹れてくれる侍女と毒見係はドラン師から指示を受けているのだと思う。そうでなかったら、誰かが声を上げているだろう。
「あんなに不味いんだもの。匂いだけ良くても、味が最悪じゃ美味しく感じないんだよねぇ」
風邪をひくと匂いが分からなくなる。
すると味が分からなくなる。
だから、匂いさえすれば味は頭が補完してくれるのだと教えられた。
けれど実際のところ、ディードが感じる味覚はあまり匂いに引っ張られているようには思えなかった。
むしろ頭が期待する味と全く違うものが口に入ってくるものだから、余計に不味いと感じるのかもしれない。
それとも、匂いで感じる味覚まで計算に入れた上で、不味さを追及してあるのだろうか。
「ドラン師が用意している食事って、もしかしてとんでもなく才能を無駄遣いした結果なのかな」
考えただけで気が滅入った。時間と努力と才能、そして試作を重ねているとしたら食材の無駄遣いだ。
ため息が、深くなる。
それでも、窓の外に広がる空の下で暮らす、この国のすべての民の生活を守れる人間になる為に必要なことなのだ。
依怙贔屓することなく。
すべてに対して、平等にできる人間である為に。
父王が用意してくれた最高の講師陣からの教えを受けている。
その内容に疑問を持つことは不敬である。
「まずは覚えて。それから嚙み砕いて理解できるよう努めればいい」
今までずっとそうやって覚えてきた。
こうやって使うのだと教えられる文法や数学の公式は、当たり前に存在しているけれど、どうしてそれが成立しているのかが気になってしまい、自分の中の当たり前にすることは難しかった。
けれど、そういうものだと使っている内に、導かれた答えに納得していき受け入れられた。
そうなってからようやく、自分で使えるようになった気がした。
「だからいつか、この今は理不尽にしか思えない『好きを作ってはならない』という事も受け入れられそうな気がしてたけど」
受け入れる前に、好きなモノを次々と奪われ、それがどんなものがを自分でも忘れてしまっている。
こんな有様で、父王から出された新たな課題、婚約者探しをすることは、出来そうにない。
それともやはりドラン師が言うように、未来の王妃として相応しくお互いに利を得られる相手を探すのが正解なのだろうか。
「わからない」
気が滅入り、行儀が悪いと思いつつ窓枠にへたり込んだ。
風に髪が遊ぶ。
王族の証である白金の髪だ。癖のない真っ直ぐなこの髪は、実は強情そのもので、熟練の侍女が毎朝丁寧に結い上げてくれるのだか、午後のこの時間には幾筋かがこうして解れてくる。
どんなに努力しても思い通りにならない、魔力操作みたいに。
「摘み取られた薔薇のロザちゃんに、俺は本当の愛を教えて貰ったんだ。最高に好きなんだ。彼女こそが愛の化身だ!」
だから、窓の外から突然聞こえてきたその言葉は、まるで天啓のように身体を突き抜いた。




