1.
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「え?」
よく知る顔を見つけて足が止まる。
何処で手に入れたのか闇夜に隠れる濃紺一色の地味な外套を身に着け、フードを頭からすっぽりかぶってはいたけれど、顔全体が隠せているわけではない。顎のラインや形のいい唇は丸見えだ。その程度の変装では到底隠し切れない高貴な御方が、そこにいた。
まず動きが違う。身体の重さを感じさせない重心の移動は高位貴族ならではのもので、とりわけその人の動きは綺麗で、雑踏の中で目を惹いたのだ。
商業柄というかどうにも気になってしまい、その人に気付かれないように正面へと移動して、驚愕した。
相手からも、多分知っている顔だと認識されているはずなのだけれど。
間違いなく目線が合ったというのに、表情ひとつ変えることなく、そのまますれ違っていこうとする彼の腕を慌てて掴んだ。
「こんなところで何をしているんですか、王太子殿下」
ここは、王都の中でも治安の悪い地区だ。
地方から出てきた若者が興味本位で足を踏み入れ、身ぐるみを剥がれたと詰め所に駆け込んでくることも多い。そんな場所だ。
そんな場所に混ざるにはあまりにも不釣り合いな綺麗なその人を、注目する者が誰もいないことに気が付かないまま、俺はまるで少女のように綺麗すぎる顔を睨みつけた。
少年期を抜けて青年期へと入る寸前のあやうさが生む美しさ。
この顔ですでに成人の儀を済ませているなど誰が信じるだろう。
男臭さをまったく感じさせないつるりとした頬も、紅を刷いたような唇も、ちいさな太陽の如き輝きを持つ金の瞳も、すべてが精巧な人形細工のようである。
この国で最も高貴で尊い血を引く身でありながら、こんな場所へ足を踏み入れるなど言語道断だ。
男だからとか女じゃないからなんて関係ないのだ。
この世には性別に限らず美しい者を侍らせる、もしくは虐げることに愉悦を覚えるド腐れ者は数多くいるのだから。
「こんなところで僕をそう呼ぶ危険について、考える頭もないのかブレト・バーン近衛隊長殿?」
嫌味というにはあまりにも平坦な声に怯みつつ、声をより一層潜める。
「これでも、声を潜めさせて頂きました」
「ふっ」
今度こそ、完全に馬鹿にした表情をする王子様を睨んだ。
普段、王宮で見かける彼とはまるで別人だ。
ディードリク・エルマー・グランディエ 王太子殿下。御年16歳。グレンディエの王族たちは成長曲線が緩やかだ。大抵、20代半ばから突然背が伸び出す方々が多い。多分王子も同じなのだろう。今はブレドよりも頭ひとつ分以上、顔の位置が低い。
知らない街にいる不安もあるのだろう。いつも冷静で大人びて見える彼が、今は妙に幼く見えた。
「護衛はどこです? ここは人も多く危険な地区ですから、あまり離れた場所からでは意味がないのに」
今夜、王太子の担当になっていた近衛は誰だっただろう。昨日から久しぶりの連休を取っているブレトは記憶を漁った。
いくらお忍びを希望されたからといって、受け入れる方がおかしい。なにより隊長である自分になんの連絡もしないまま実行させるなど職務怠慢で懲罰ものだ。
「護衛ならいない」
「は?」
「僕は強いからね。ここまで来る間に僕に気が付いたのは、バーン隊長、あなただけだ」
その言葉に、閃いた。
「認識阻害を使って、王宮を抜け出して来たんですね」
王家の方々が所有する魔力は膨大だ。
その中でも随一の魔力量を誇り、若くして魔力操作についても当代無比だと謳われる次代の王。それがディードリク・エルマー・グランディエ 王太子殿下だ。
確かに彼がその気になれば、この国の平和を享受して油断していた近衛の監視を搔い潜ることなど簡単だろう。
苦い顔をした俺の言葉を肯定するように、王太子がどこか冷たい笑みを浮かべた。
「王宮を脱してからだって気を抜いたつもりはなかったんだけど。すごいね、さすがは近衛隊、最年長の隊長だ」
腕が立つことにプラスして、見栄えすることが入隊資格である近衛隊には30歳までしか所属できない。
その後は第一騎士団へ異動となるのが慣習だ。現在29歳であるブレトは半年後に迎える誕生日をもって近衛隊を卒業することになる。つまり、すぐ目の前に迫った近衛隊卒業に向けた花道ともいうべき名誉職にある。それを当て擦っているのだ。
「なんとでも。でもそれで笑って誤魔化せると思ったら大間違いですからね。さぁ、私と一緒に今すぐ王宮へお戻りを」
「嫌だ。大体、お前に見つかるまでは僕の認識阻害を見破れる者などいなかった。僕は、強い」
「殿下」
つい、と華奢な手を持ち上げたその先で、男がふたり、弾き飛ばされた。
もんどりうったその先で、店の看板にぶち当たって男たちが地に落ちる。
「キャー!」
突然、男が吹き飛ばされて、それに気づいた女性が悲鳴を上げた。
その悲鳴が上がる少し前。殿下の魔法が不審な男たちに揮われたのをほぼ同時に、ブレトは自身の背中側から小刀を振り下ろそうとしていた男の手を掴んで捻り上げ、道へと抑えつけた。
人混みから一転、周囲から人が遠巻きになる。
「ホラ、お前が見破った挙句に大きな声を何度も上げたせいだぞ。変な輩の気を引いてしまったではないか」
呻き声をあげながら地べたへと這いつくばる三人の男は、見るからに金目当ての破落戸だった。
ブレトを昏倒させて金品を奪い、如何にも貴族の令息らしい少年、実際には貴族どころか王族それも王太子殿下な訳だが、彼を攫おうとしたのだろう。
この街では、金だろうが命であろうが、盗まれた方が悪いのだ。
さすがにこれが計画的な犯行である事はないだろうとは思うが、未遂で終わったとはいえ王太子殿下に対する犯罪行為を犯そうとした相手を無罪放免で放す訳にはいかない。
しっかりと裏に何もないことを確認しなくてはならない。
ブレトは両手を合わせて息を吹き込み、伝言を魔力に乗せた。
そのまま夜空に向かって手を離せば、そこからブレトの瞳の色と同じ紅い光を帯びた鳥が羽ばたいていった。
夜の闇を切り裂くように一番近くにある詰め所に向かって紅い鳥が飛んでいく。
横で黙って見ていた殿下が、嫌そうな顔をした。
「応援を呼んだのか」
「えぇ。拘束はしましたが、そのまま置きっぱなしにしておく訳にはいかないですから。いるどうかもかわかりませんが、仲間に回収されてはもしもの時に繋がる情報を掴むことが出来なくなりますからね」
魔力縄で拘束はしたものの、ここには繋いで置ける場所などない。
近衛であることを明かしてその辺にある店に任せたとしても、裏でこの男共と繋がっている可能性だってある。
更に、もしこれが裏に組織のある犯行だった場合、意識を失ったまま連れていかれたその先で殺されるのがオチだ。そこから先の手がかりを失うことになる。トカゲの尻尾は本体が生き残るために、切り離されるものだからだ。
「近衛隊長が連行していけばいいのでは?」
深くフードを被ったまま顔を傾げてみせてくるあざとい殿下の態度に、心底嫌な気分がした。
「俺はこれからあなたを王宮までお連れしなければなりません。あなたの顔を、外回りの衛兵たちに見せる訳にもいきませんし。あぁ、もう。昨日今日と明日は2カ月ぶりの纏まって取れた休暇だったんですよ。それなのに」
たかが三連休というなかれ。名誉役職でしかないとはいえ、近衛隊長となってからというもの丸一日の休日だって取れていなかったのだ。
この街に足を踏み入れるのだってひさしぶりだった。
もう、誰かが待っている訳でもないが、ブレトにとってはこの喧噪が与えてくれる無関心な優しい空気は何にも代えがたい。
思わず言葉の端々が愚痴っぽくなる俺を横目に、殿下は転がっている男たちへ向けて再び手を伸ばした。
ブン、と魔力のうねりを感じたところで、男たちの周囲に丸い障壁が作り出された。
魔法というものは、その人の体内に内包される魔力を素に、イメージを具象化することで発動する。
あやふやなイメージしか持てないものを具象化するにはより膨大な魔力が必要となるので、発動できるかどうかは知識とその人の持つ魔力量に依存するのだ。
俺は淡い金色をした障壁に近付いて、手で叩いた。コンコン、と硬そうな音がした。
「これって、中の空気はどれくらい持つんですか?」
「空気は通る。あちらからもこちらからも、音の波も伝わるよ。この男たちが目覚めさえすれば、会話もできるようになる」
「なるほどすごい」
この障壁越しに、尋問ができるということだ。
そして移動させるには、転がしていけばいいのか。中の男共は目が回って大変だろうが、そのまま牢屋に入れておくこともできるということだ。
よくよく目を凝らしてみれば、中にいる男共は俺が作った魔力縄に巻かれたままだった。
このまま転がして運ぶとすれば、中でバランスを取るどころか受け身を取ることすら難しいだろう。
牢屋に入れられる頃には中が大変な事になりそうだと、俺は遠い目になった。
……これを開ける際には浄化を使ってからだな。
多分きっと尋問はスムーズに行くに違いない。うん。
「一応、この国の官吏以外には触れられないようにしたから、男たちの仲間に連れていかれることもあるまい」
「そんな事までできるんですね、さすが」
ふん、とつまらなさそうにそっぽを向いたが、あまりに早い動作で揺れたローブの隙間から、薄っすらと頬が染まっているのが一瞬だけ見えた。
どうやら照れているようだ。褒められ慣れていると思ったのだが、そうでもないということだろうか。
それにしても、発動の早さといい、条件の複雑さといい、強度といい、さすが次代の王と定められた者は格が違うと慄く。
騎士団に、これだけ複雑な障壁を構築できる者はいるのだろうか。とりあえず俺には無理だ。
「男たちもこれでいいだろう。そうして、僕とすれ違った事など忘れてしまえばいい。応援に人攫いを回収して貰ったら、それで終わりだ。良い休暇を」
そこまで言って、足を進めようとした王太子の身体を、問答無用とばかりに抱き上げた。
「なにをする! おろせ」
「お坊ちゃま。これ以上の我儘をお聞きする訳には参りません。御父上のところへ一緒におかえり頂きます。これも給金の内なので失礼します」
声を潜めず、堂々と言い放つ。
「あ、おい。なんだそのお坊ちゃまって。やめろ、放せ。人攫い!」
「あなた様のお家に連れて帰るのに、何が人攫いですか。帰りますよ!」
先ほどまでブレトに対して腹立たしいほどすかした態度をとっていた王太子がギャーギャーと肩で騒ぐ様子がおかしくて、何故かブレトは笑い出した。
先ほど破落戸どもを弾き飛ばした魔法をブレト相手に使うほどには、この所業に対して怒っていないらしい。
「放せ。僕には知らねばならないことがあるんだ! 不敬だぞ。ブレト・バーン!!」
ポカポカと背中を殴られたが、ブレトからすれば痛くも痒くもなんともない。
まるで羽根で撫でられているようだ。
「無理な相談ですなぁ。不敬罪が適応されたとしてもですよ、きっと王様からは王宮を抜け出した王太子殿下を捕獲した褒美を貰えそうですし。それでチャラですな」
むしろ褒美の方が大きそうだ。そう言ってやろうと思った時に、すぐ近くにある王太子の秀麗な顔が苦しそうに歪んでいることに気が付いて慌てた。
「あっ。担ぎ方が悪かったですか? すみません、普段は隊の新人どもがやらかした時くらいしか担いだりしないので、痛がろうと関係ないもんで」
治安の悪い地区からは抜けていることもあったので、腰を掴んで持ち上げる。
成人しているはずなのに、なんという腰の細さなのか。まるっきり子供ではないか。
そう思ってしまったからだろうか。無意識に、そのまま兄達の子供へするように左腕へと座らせてしまった。
そんな扱いをされたことに屈辱を感じたのだろうか。
見上げた先にある王太子の顔は、先ほどよりずっと苦しそうだった。
「僕は、あの先にある、“摘み取られた薔薇”にいって、“ロザちゃん”様から、“好き”と“愛してる”を教えて貰わなくちゃいけないんだ。きっと今日しかないのに。時間がないんだ」
「ちょっと待て。いや、お待ちください、王太子殿下。『“摘み取られた薔薇”』がどんな場所だか、本当に理解してますか?」
思わず詰問口調で問い詰めたものの、こんな会話の続きを街中でする訳にもいかない。
王宮に戻ってからでは遅いだろう。多分、連れ帰ったら殿下は自室での謹慎になる。ブレトも保護に至った状況を説明せねばならないだろうし、場合によっては一度や二度繰り返すだけでは足りない可能性もある。
ブレトが借りている宿舎も駄目だ。何故なら王城内の一角にあるからだ。
今頃は、王宮内に王太子殿下の姿がないことに気が付いて大騒ぎになっているだろう。そんな中で宿舎に連れていくなんて不可能だ。王宮に足を踏み入れるのと大して変わらないだろう。
そうなれば、どちらにしろ王太子殿下は保護されてしまい、近衛隊隊長でしかないブレトが王太子殿下と向き合って内緒の話し合いをするチャンスなどいつ廻ってくるか分からない。
それでは駄目なのだ。
変な誤解をしたまま、また魔法を使って王宮を抜け出されては困る。
ブレトは少し悩んで、諦めと共に、一旦王都で自分が借りている部屋へと殿下を連れていくことにした。
「殿下。そのお話は、我が家で何か飲みながらゆっくりいたしましょう。男同士の会話です。内緒話といきましょうか」




