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情動  作者: 駄犬
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愛しき人

 舌先三寸で駆け引きするような、男女特有の小賢しい語らいは、彼女にとって陳腐そのものであった。誘蛾灯のような色香に基づく、本能を刺激する彼女が醸す劣情は、男を虜にするだけの説得力が背中越しにも感じ取れた。肩甲骨まで伸びる黒髪は、人工毛に引けを取らない真っ直ぐさと足並みの揃い方をし、時折吹き付ける風になびく度、コマーシャルに惹句がお似合いだ。身体の曲線を逃さない、肌と懇ろな服のおかげで、町を歩けば「耳目」の真髄を見た。澱に湧く虫が可愛く見えるほどの醜悪な眼差しが、彼女の全身をつぶさに捉え、外界であることを黙殺してそれぞれの趣味趣向をぶつける。他者を慮ることを棚に上げた衆目の醜さを承知しながら、私もまた彼女の動作に暑い視線を送っていた。拝んでも拝み切れない彼女の美しさを崇拝し、どれだけ稀有な存在であるかを語るに落ちた。


 人間という一個の種族に於いて、「情事」は子孫への目配せだけには終わらない、特別な意味がある。相手と親身に向き合えば、敬意を持つことでそれは明確になり、倦怠期を迎えた男女の「情事」が如何に粗野で動物的本能に即したものなのか。彼女とのまぐわいは、そのような縛られがちな怠慢な関係とは一線を画し、生涯に渡って光る宝石になるだろう。


 ただ、ひとつ懸念があるのだ。彼女はその享楽の引き換えに、切り離された生殖器を求める。これは、一部の男のみが与えられる勲章であり、何事もなく彼女の前から去ることになれば、情事が如何にチンケで取るに足らないかを証明することになってしまい。自分を呪うはめになる。それは、駅前でナンパを尽く失敗する軽々しさとは比べものにならず、彼女から貰う落第点は復習の機会すら与えられない。


 経験人数などという、下卑た数を献上するのは憚られる。だからといって、無言で手管を駆使するような冴えたやり方も思い当たらない。つまり私は、木偶の坊と揶揄されても文句を言えない立場にあった。彼女が望むことを愚直に実行し、満足してもらうことしか出来ない。私が普段相手にしている売女とは比較にならない多くの思案が求められ、悪い想像ばかりしてしまうものの妙に充実感があった。前向きとは言い難い、身持ちに引け目を持って後ろ向きに思考する傍らで、やけに身体が軽く感じていたのだ。


 彼女と接点を持つのに用いられるのが、ネットである。複数のコミュニケーションツールを利用している彼女には日夜、逢引を語る有象無象が入れ替わり立ち替わり現れ、枚挙に暇がない百人斬りが行われていた。彼女が発信する日々の他愛もない言葉をとりとめもなく眺め、静観といったきわめて腰の引けたことをしてきた。だが今は違う。百人斬りの一人を担う覚悟が、私には出来ている。突発的な躁病まがいの気分の昂りを利用した、玉砕覚悟の特攻を決めようではないか。

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