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人魚がいた湖

作者: 雉白書屋

「……へ、に、人魚?」


 ツーリングの途中、休憩がてら夜の湖に来た青年はその女を見て思わずそう呟いた。

 大きな石の上に腰かけ、尾びれを伸ばしていた女は振り返ると同時にサッと体を丸めた。

 無音の時間。外灯がない、月明かりだけの空間。

 硬直したままの青年が目を細め、見つめる先のその女の顔は驚き、強張り、警戒心に満ちていたが、青年の間の抜けた声の呟きを思い返したのか、女もまた「人魚……」と呟き、フフッと笑った。


「あ、来ないで……」


 青年が一歩前に踏み出し、雑草を鳴らすと女はまた怯えたような顔つきに戻った。

 青年は慌てて三歩下がり、彼女に謝る。怖がらせたかと思い、青年の方もまた怯えたような顔になっていた。


「あ、その、ごめん……えっと、やっぱり泳ぎ、上手いの?」


 青年はそう口にした後で思う。

 我ながらなんて間抜けな質問だろうか。女性には不慣れで、どうも口下手になってしまう。思い返すたびに、後悔に苛まれるんだ。きっと今回もそうに違いない。


 彼女は「そ、そうね……」とだけ答えた。


「そ、その、すごく綺麗だね、君……」


「あ、ありがとう……」


 薄暗さに助けられ、見えないであろうが真っ赤な顔の青年。しどろもどろ。

 しかし、意外にも反応は悪くないようだった。彼女の横顔しか、それも長い黒髪に隠れてよく見えなかったが、どこか嬉しそうであった。

 長い黒髪。白い背中。と、青年はそこで彼女が裸であることに気づき、瞬時に顔を背けた。が、考えても見れば人魚だ。裸なのはそれもそうか。そう思い、自嘲的な気分になった青年は少し、緊張が和らいだ。


「あ、その、歌とか上手いの?」


「え?」


「いや、人魚だし、そういうイメージが……」


「ああ、うん。まあまあかな……」


「へー……」


「うん……」


「……歌ってくれたりとか」


「ええー」


「駄目かな」


「まあ、いいけど……」


 そう言うと彼女は湖の方を向いて歌い始めた。

 青年が知らない曲。本当にまあまあの上手さだったが、虫の声や風で草木が揺れる音、そして月明かりと相まって青年はおとぎ話の中にいるような気分になった。


「すごい、すごく良かったよ」


「ありがとう、でもホント?」


「うーん、本当はまあまあかな」


「ふふっ、だよね。……ねえ、そろそろ」


「あ、うん……その、明日も会えたりする? 帰りにまた寄るよ。夜に」


「……ううん」


「そっか……まあ、じゃあ、ね」


「うん、じゃあね、ありがと……」


 青年が背を向けると、水の音がした。

 彼女が湖の中に飛び込んだのだろう。

 振り返ると、遠ざかっていく彼女の白い体がぼんやりと、やがてそれも見えなくなっていった。



 翌日の夜も青年は湖を訪れた。

 だが、彼女には会えなかった。

 そもそも近づけもしなかった。

 彼女と出会った場所の近くには警察の規制線が張られていた。

 茂みの中から車椅子、脱ぎ捨てられた衣服とそれに遺書が見つかったらしい。

 若い女性だったからかニュースに取り上げられ、後日、情報が次々と出てきた。

 酷い火事に遭い火傷を負い、それを苦にした自殺ではないかと。


 青年はパソコンから目を離し、疲れた目を擦ると息を吐いた。

 

 あの夜、声をかける前。彼女は愛おしそうに尾びれを撫でていたと思ったけど、もしかしたら嘆いていたのかもしれない。

 皮膚がくっ付くほどの火傷。人生を終わらせようと思うほどの苦痛の種をさすりながら。

 そこに偶然居合わせた自分は結局のところ、何もできなかったわけだけど、でも、去り際の彼女の穏やかな顔を思い出すと声をかけて良かったな、なんて己惚れたくなる。

 彼女の遺体はまだ見つかっていない。

 それはやっぱり彼女は人魚だったから。

 ……なんてことはないだろう。

 でも、そうであって欲しい、いや、そうなっていて欲しいと思い、彼女が見つからないことを毎日祈る。


 せめてあの尾びれが骨になるまでは。

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― 新着の感想 ―
[一言] 切ない。 この出会いで彼女が生きる方へとは向かえなかったのは残念です。 でも穏やかに逝けた描写があるのが、読者の救いともなりました。 物語としては美しく悲しいお話ですね。
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