読書の場
リベジアンは椅子に座って本を読み、イエーグナは窓際に立って、外を眺めていた。太陽にいぶられた様な、仄かにオレンジがかった青空の下に、果てしなく町が広がっていた。件並み綺麗な町並みで、白を基調とする建物の並びが日を受けて輝くかに見える。
二階三階建てになっているいくつかの建物のベランダには、人が外に出ており、体操と思しきことをしている者や、洗濯物を干している者がいる。誰一人、こちらに目を向けるものはいない。
その一方所々が建設中の建物の骨組みがあったり、広範囲の欠落の周辺に、焦げた建物や解体されている物もある。
後ろからドアのノックされる音がすると、そちらに振り返る。
「どうぞ」
本を閉じて振り返りながらリベジアンがかけた声を聞いて、メイドの一人がドアを開け、恭しく頭を下げる。
「失礼します」
メイドは廊下にある荷台から衣服を取り出して部屋に入り、戸棚の方へ近付いた。
「衣類ですが……どういたしましょう」
イエーグナにチラッと目を向けて即座にリベジアンの方へ視線を戻して尋ねる。
「そうだな……」
リベジアンはイエーグナの方に振り向く。イエーグナは憮然とした顔つきで二人を見ているばかりで、なんの返事もしなかった。
「とりあえず、右が私で」
「分かりました」
メイドはせっせと衣服を戸棚に入れていく。イエーグナはその背中に、半ばいぬく様な視線をじっと注いでいる。
「ベッドを持っていっても?」
衣類をおおよそ入れ終わったメイドはリベジアンに尋ねる。
「はい。お願いします」
返事を聞いたメイドは頭を下げ、二つのベッドへ向かう。その時もやはり、チラッとイエーグナを見た。表情は崩れず、平静な態度を保てこそしてはいる。
彼女は真面目なメイドだった。しかしその真面目さが、あまりにも露骨に表に出ていた。イエーグナを前にして、緊張しようとせず、恐れを抱かぬようにしようという意識が、はっきりと出過ぎていたのである。
そして何より、彼女が隠そうとしている緊張と恐怖は、多少とも人を見る目さえあれば、容易く見て取る事が出来るほどに、その態度の節々から漏れ出ていた。
それはまた、リベジアンの方も察していた。メイドをじっと見つめるイエーグナの様子を、少し心配しながら、時折視線を送る。
マットレスや敷き毛布、掛け布団を荷台に乗せたメイドは、頭を下げると、そのままドアを閉じて出ていった。微かながら、荷台の動き出す音だけは聞こえた。部屋の中には、ベッドを持ち運ぶ際の微少な埃が点々と、外からの光を受けて白く照って、辛うじて見えている。
そんな埃を過ぎて、ドアをじっと見ていたリベジアンの手から、本がそっと抜き取られた。振り向くと、イエーグナが彼女の本を読んでいた。
当初はリベジアンが見ていたページを、更に次のページに読み進める。すると、再度戻ってまた元のページに目を通した後、そのままパラパラと数ページを捲り、最後には本を閉じて机の上に置いた。リベジアンが読んでいたページに、栞を挟むことはなかった。
「あんた強いのに、なんでそんなメソメソした本読んでんの?」
「ん?」リベジアンは本を取る。「そうかな……? 私としては、なかなかしっかりした物語だと思うけど」
リベジアンは読んでいたページを探して、栞を挟んだ。
「好きな女が家庭の事情で他の金持ちの男に嫁いだ。無理やり蹴ったくってどっかに行っちゃう……馬鹿馬鹿しくって涙出そう」
「そんなことはないさ」リベジアンは笑いながら答える。「ん~なんというか……これはかなり昔の小説なんだが、その時代の風俗とか慣習とか考え方とか、読んでて興味深くてね。もちろん、物語として読んでも面白いと思うし……こういうのは、しっかり読んでみないと分からないよ」
「ふ~ん。まぁ正直よく分かんないけど」
イエーグナの返答を聞いて、リベジアンはこの時ようやく、少しばかり嬉しそうに話をしている自分に気が付いた。例えイエーグナの態度が変わらぬものでも、この瞬間に至って、初めてしっかりした会話のできた瞬間だったからである。
「他に本ってないの?」
「他にかい? 図書室になら、かなりの数あるぞ」
「そっ」
イエーグナはドアに向かい、ドアノブに手をかける。出ても良いかどうかの許可さえ確認せずに出ていこうとするのが、いかにも彼女らしく思えて、リベジアンは微笑んだ。本を机に置くと、既に部屋を出ていっている彼女の背中を、小走りで追った。
赤い絨毯が引かれた、広々とした廊下には、等間隔で設置されているアーチ型の窓からの日光が注いでいる。故に、電気を灯す必要もない程に明るい。
背筋を伸ばし、憮然としつつも自信に満ちた足取りで歩くイエーグナの、ほんの少し斜め後ろをリベジアンが歩いている。視線は前に向けつつ、時折心配そうにイエーグナに目を向ける。
休憩中なのか、雑談をしているメイド二人がこちらに近づいてきていた。顔が充分見える距離になった時、二人がこちらを向けた。そして、目に見えて二人の表情に緊張が走るのが分かった。少し恐ろしげで、会話にはぎこちないものになっていた。
イエーグナがどんな反応をするか、少しばかり心配になったリベジアンは、やはりちらりと彼女に目を向ける特に変わったところは無く、彼女ら二人を見ている素振りすらない。あと少しですれ違うという距離になると、ほとんどひそひそ話の様になっていた。その時、
「ワアァッ!!」
イエーグナが大きく口を開け、爪を立てた両手を狼のように掲げて、威嚇するように彼女らの方へ叫んだ。
「ヒィッ!!」
二人のメイドは驚いて、全力で逃げ出した。イエーグナが驚かす瞬間に彼女の肩へ手をかけたリベジアンが彼女共々、逃げ出したメイド二人の姿を目で追った。一人が盛大に転け、もう一人が急いで戻って助け起こし、支えるようにして逃げていく。それを見送ると、リベジアンは一つため息をつき、注意を促そうと口を開きかけた。
「ここのメイドの礼儀がなってない」振り返りながら、イエーグナが彼女より先に言った。「それとも礼儀を弁えられないの? 教育はしっかりしてんの?」
その堂々とした、実に厭味ったらしい口っぷりに、リベジアンは口をつぐんでしまった。そんなことなど構うこと無く、イエーグナは前を向いて進みだす。
ほとんどの者が仕事中という関係上、図書館には二人しかおらず閑散としていた。二階までぎっしり本の詰まった巨大な図書館である。平均的な慎重の大きさの大人が手を伸ばしても届かない場所にあり、そのための脚立が所々にあった。
イエーグナの後ろにつきつつ、リベジアンも、本をじっと眺めていた。文芸評論の類いのもので、そうしたものはあまり読まない彼女でも、そこそこ知っている作者の名前も見受けられた。視線こそ向けなかったが、イエーグナが彼女から少しばかり離れていることには気付いていた。
イエーグナは一冊の本を取り出す。一ページ目から捲り、そのまますぐに次へと進み、途中からはパラパラと最後の背表紙まで閉じると、そのまま元の場所へと戻す。しばらくじっと数冊の本を見つめた後、再び取り出した。
試しに一冊選んで読んでいたリベジアンは、やたらにページが気持ちよくパラパラ捲れていく音が気になって、イエーグナの方を向いた。丁度、一冊を閉じて元の棚に戻すところだった。
「面白そうなの、何かありそうかい?」
イエーグナは新たな一冊を一気に流し読みしていく。
「……ま、読んでみる限り、まぁまぁというところかな?」
意外に素直に返答がもらえたので、リベジアンはこのままと思い、
「この国の本を読んだことは?」
「略奪されてきたか何かで何冊かあった奴を……」イエーグナはリベジアンの方を向かず、本を持ち上げて彼女の方に示しつつ「この本で評論されてる作家の作品は、何冊か読んだよ」
「へぇ……興味があるんなら、何冊か借りていっても構わないよ」
「……」
イエーグナは答えず、やはり高速で本のページを最初から最後までパラパラとめくっていく。当初は気にしないつもりでいたが、傍目で見て、文章に目を通すという感じには見えなかった。
「……何か、気になる文章かイラストか、探してるのか?」
「は?」イエーグナは新たに本を一冊取りつつ、リベジアンを見る。
「いや、なんだかパラパラ、一気に捲っていくから……」
イエーグナは、少々小ばかにしたような目つきをリベジアンに向けていたが、すぐに持っていた本を、やはり即座に背表紙まで捲ると、それをリベジアンに向かって軽く投げる。見た目にも古い本で、リベジアンは少々焦りながらこれを受け取った。
「百四十五ページ……」
イエーグナは、命令でも下すような調子で言った。言われたリベジアンは取り敢えずそのページを開く。
「『かくして、氏は古典文学からの題材を取り扱いつつ、過去作においても描かれてきた母性愛的側面を、さらに強調することになった。ともすれば近親相姦とも見紛うばかりの一連の展開、その描写は、しかしその抑制の効いた美しい文体によって、格調高い愛の調べへと昇華し、一種神仙の域にまで到達している。これまで発表された作品を抜きん出んばかりの危険、背徳が秘められているにも関わらず、今もってこの作品が、氏の傑作であるばかりか、この国において最も優れた文学としての地位を確立しているというのは、不思議とも言え、また当然とも言えた』」
イエーグナが言葉を止めると、本に目を向けていたリベジアンは、呆然とした様子で彼女に目を向ける。
「……驚いた。君はここに書かれている本を全部覚えているのか?」
「あんたらとは出来が違うんだもん」
そう言って、イエーグナは顔を背けつつ、ふと微笑みを浮かべた。気怠そうにも、少し優越感もあるその微笑には、しかしまた、嬉しそうな気持ちが、見えないわけでもなかった。