朝の時間
柔らかな、陽光に暖められた雲の様に優しい枕に埋もれた中から、イエーグナは静かに瞳を開いた。写ったものは影のかかったかの様に暗かったが、既に日が上がっているのは分かった。昨日、うつ伏せに倒れて、そのまま眠ったようだった。
ベッドを恋しがるかの様に、緩慢に上半身を起こし、目を転じる。既に起きていたリベジアンが、机を前にした椅子に座って、じっと本を読んでいた。その向かい側、の部屋の端の壁に設置されている窓からは陽が降り注いでおり、青空も少しばかり覗いている。束ねられたカーテンが微かに揺れているので、そよ風がそよいでいるのが分かった。
気配を感じたリベジアンは、イエーグナの方を向くと、優しく微笑んだ。
「起きたかい?」
イエーグナは、眠気と敵意に目を細めながら、彼女を見返す。返事は返さない。代わりにリベジアンが寝ていたベッドに目を向ける。整えられてこそいるが、少しばかりしわの寄っているところに、眠った形跡が見られた。
昨日の水のこぼした後も、しっかり残っている。それだけを確認すると、イエーグナは再び、ベッドの上に倒れこんだ。
目は閉じず、すぐ横にある机の上の花瓶を見る。赤い花が挿されたまま、口の部分が仄かに湿っている。既に水は取り替えているのだろう。
「もうベッドに水は振り撒かないでくれよ」
ベッドに近付くリベジアンに、イエーグナは目を向ける。
「世話係の人が大変だからな。出来れば、いたずらは私だけに仕掛けてほしい」
イエーグナは返事をしない。しかし昨日と違い、今朝は眠そうにしつつ、顔を枕に埋めた。リベジアンは苦笑する。
その時、扉がノックされたので、そちらに振り向いた。外から、
「よろしいですか」
「はい。開いてます」
扉が開かれると、台の上から盆を取り上げたメイド長が部屋に入ってくる。
「朝食です」メイド長が部屋に入りながら言った。「机に置いておきますね」
「はい。お願いします」
メイド長は盆を机の上に置いた。再び起き上がっていたイエーグナは、足側の縁に座り、盆の上を見る。
スプーンの挿されたジャムが三つ、バターが一つこんがりと焼かれた食パンがそれぞれ六等分されたのが二枚、目玉焼きが二枚、ほんのり湯気を上げている。湿り気を帯びたサラダが、日の光に照り輝き、傍らにそれ専用の底の厚い皿もあった。フォーク、ナイフ、バターナイフも置かれている。
それをおおよそほんの数秒確認すると、今度はメイド長の方に目を向ける。頭には白い頭巾をし、薄い卵色のエプロンを、その恰幅の良い身体に着ている。顔には歳を表すようにほうれい線が目立ち、饅頭のようにほくほくと真ん丸だが、それでも若き日の美貌を思わせる整った顔立ちをしていた。ふと、メイド長も、彼女の方に目を向け、屈託のない笑顔を浮かべ、メイド長はリベジアンの方を見る。
「こちらの方が?」
「はい。イエーグナと言います」リベジアンが答える。
「そうですか」メイド長はイエーグナの方を向く。「初めまして。このお城でメイド長を勤めさせていただいている、サキミと言います。以後、お見知りおきを」
サキミは頭を下げる。次第に目を覚ましてきたイエーグナの表情は、また昨日と同じのような、むすっと不満そうなものに変わっていく。
「可愛らしいお方ですね」
サキミは、その様子を可笑しそうにして言った。彼女の態度に、嘘は感じられない朗らかさがあった。何事も気にせぬ豪放な態度が、慇懃さによって包まれているといった様子である。
「……若いからね」イエーグナはむすっとしたまま言った。「あんたと違って」
「まぁ」サキミは笑った。
「お、おい……」
やはりにこやかなサキミに対し、リベジアンの方が焦りを見せた。まるで自らが無礼を働いたかのようである。
「良いんですよ。リベジアン様」サキミが言った。「これくらいの方が、子どもは可愛らしいのですから」
この言葉に、イエーグナは更にむっとした。
「用が終わったら早く行けば?」イエーグナは言った。「それとも暇?」
「もし暇だとすれば」サキミは答える。「私の相手、していただける?」
「くっだらない」
遂にイエーグナはうんざりした様子で顔を背け、しっしっと手を彼女に向け振った。サキミは楽しそうだった。
「とりあえず、今日の朝食です」サキミはリベジアンの方を向く。「いつも通りの朝食で……注文なんかは聞いてませんが」
サキミは目だけをイエーグナに向ける。太ももに肘をつけた手で頬を支えつつ、彼女は目を反らしたままである。苛立たしさを表すように、人差し指で頬を打ち、組んだ足先をブラブラさせる。サキミ以上に、リベジアンが思わず緊張してしまっていた。
「だ、大丈夫です。後で、何か聞いておきます」
「そうですか。では」
サキミはそのまま出ていこうとするのをふと止まると、そのまま振り返り様にリベジアンの耳に口を寄せる。
「決して、悪い子ではありませんよ」
それだけ即座に言ったサキミは、顔をリベジアンから離すと、優しく小さく微笑んだ。長い年月を生きてきた中で、彼女は人を見るのを養い、そして謙虚にそれを誇っていた。
頭をリベジアン、イエーグナの順に下げると、そのまま扉へ向かう。
「またしばらくしたら取りに来ます。お皿はそのままで構いませんよ」
そう言い残して、サキミは部屋を出ていく。
──リベジアンが、イチゴジャムを六等分された一辺に少し垂らして塗りたくるとそのまま口の中に含む。イエーグナはその様子を見て、三つのジャムに目を向ける。開いた蓋からスプーンの刺さったジャムを見比べると、リベジアンとは違う一つを恐る恐る取り上げる。橙色の皮の、滑らかに煌めいたのが掬われる。
「マーマレードというんだ」
リベジアンに声を掛けられ、イエーグナはそちらに目を向ける。
「少し酸っぱさがあるかもしれんな」
その微笑みの忠告には特に反応せず、イエーグナはそれをそっとパンに塗りたくると、そのまま口の中に含んだ。二度三度と咀嚼すると、ビクッと肩をいからせ、顔とつむった目が、酸っぱさを耐えようとするかの様に固くなった。リベジアンは笑ったまま小さく口を開ける。イエーグナはそのまま咀嚼を続けると、ゆっくり飲み込んだ。
「……もう一つがリンゴのジャムだ。こちらは甘いぞ」
そう言いながら、リベジアンはそのジャムをパンに塗って食した。そのままソースを取り上げ、自らの目玉焼きに垂らしていく。鈍く淀んだそれは、注がれた所から少しばかり広がっていく。
一周ほどしてソースを戻すと、リベジアンはフォークで半熟の黄身を潰した。潰れて漏れだした黄身が、近くのソースに垂れていって混じっていく。
リベジアンがフォークとナイフでそれを食べようとして、ふと目を転じる。イエーグナが再びマーマレードに手を出していた。明らかに耐えようも表情を固くしながらそれをパンにつけて食べていた。その様子はどう見ても好きで食べているという様子ではない。
リベジアンは苦笑しつつ、目玉焼きを切ってそれを食べた。