共に眠る
飲み屋の一件以来、リベジアンとイエーグナは共に外に出歩く事がほとんど無くなった。城の者達はほとんど事情を知っていた。しかし、何かしらのアプローチをかけられる者はほとんどなかった。
飽くまでいつも通り振る舞おうとして、お互いのぎこちなさがそれを無碍にした。イエーグナは次第に、周りの者達にとって、どう接すべき存在かが図りかねる様になっていた。
そんな中、シルビーとアリーガルだけが違った。
シルビーは、イエーグナの様子が明らかにおかしいことを把握した時、他の者達と同様、どう接すべきか迷っていた。しかし、ある時真っ直ぐ彼女と向き合い、
「……私に出来ることは少ないけど、もし何か必要なことがあったら言って」
と言った。
いつもの通り、どことなく自信なさげなところこそあったが、その彼女のあまりに切実な、真剣な態度は、イエーグナの心を仄かに動かした。イエーグナは彼女の頬を軽くつねり、微笑んだ。
「あんたに頼るようになったら、私もおしまいだ」
それは彼女が久し振りに、何の気なしに取ることが出来たその皮肉な態度であった。
アリーガルは、基本はいつも通りだった。
チェスの試合において、基本はアリーガルが前線全勝していた。それでも、アドバイスを受けたりなどして、イエーグナが徐々に、彼に勝てそうな時があった。
それが、ある日ひどい敗北を続ける日があった。初めての試合の時ですらなかったようなひどい敗北を受け、イエーグナが苦笑しながら調子の悪いことを呟くと、
「……相談したいことはないか?」
問い掛けを受けたイエーグナ派、驚きの表情で王子を見た。王子は、やはりいつもの平静な、それでいて相手を見抜くような鋭く強い視線を、彼女の方に向けていた。
イエーグナは俯いた。その視線を避ける様にも、何かを思い悩んでいるようにも見えた。やがて、自嘲気味に、疲れたような笑いを零すと、
「……毅然とする、というのは、難しいもんだな」イエーグナは彼の方を向いて、「私も、お前みたいに毅然としていたい」
そう答えた後に一試合だけやって、その日の二人は別れた。
──しかし、何より彼女の支えはリベジアンであった。リベジアンはいつもの通り、彼女の側にいた。時にはそれが苛立たしく、半ば八つ当たりをすることもあったが、何も言わずとも彼女を許していたし、受け入れていた。
決して余計なことは言わず、つまらぬことはしなかった。しかし態度は常に堂々としており、おどおどすることもなければ、イエーグナの様に揺らめくこともなかった。それがまた、実に頼りがいのある態度に見えた。
寄り掛かっても倒れぬ、あるいは柱の様な強硬さ、あるいは毛布の様な柔和さ、あるいはその両方……リベジアンは彼女にとって、そんな存在だった。そんな存在になっていた。
──夜。ベッドに眠っていたリベジアンは、隣で何者か──当然予想はついていたが──が入ってくるのが分かった。そっと目を開け、頭をそちらに向ける。横向きでこちらを向いていたイエーグナの顔があった。軽く握った両手が、口を隠している。リベジアンは微笑んだ。
「……眠れないか?」
イエーグナはその質問には答えず、そのままもぞもぞと身体を近付けて、リベジアンの身体に密着させたかと思うと、そのまま彼女の上に載ってきた。少々驚いたリベジアンはその頭に手を置いて、そっとささやかに撫でる
「……私の父さんって」イエーグナが、躊躇いがちに口を開いた。「あんたにとって、どんなんだった?」
「ん? ……そうだな」リベジアンは少し考えて、「今後私の力が戻って……以前以上の力が手に入ったとしても、もう二度と、彼の様な者とは戦いたくないと思わせられるほどの存在だった」
「もう二度と?」
「あぁ」リベジアンは頭を天井に向ける。「戦う時、少なくとも私は、頭で考えながら戦ったりしたりはしない。相手の出方次第で、一番確実だと思ったところを、反射するかの様な勢いで斬りかかりに行くんだ」
──それでも、どこかで冷静な、物事を観察しようとする目もある。何が起こっているか、何が起きそうか、誰がどうなったか……そう言ったことを、常に見極めようと努めていたし、実際見極めてもいた。
しかし、デイヴィール……君のお父さんとの戦いは、もうそういうわけにはいかなくなっていた。その攻撃、防護、速度、魔術、センス、思考……その全てが、私が戦ってきた者の中で断トツだった。冷静であろうとすることが、出来なくなっていた。片目を潰され、耳の上半分を吹き飛ばされ、あらゆる場所を痛め付けられ、止めどなく血が流れ……
私は、冷静であることを捨てた。その身体、その精神、その命、その全てを賭けることにした。もはや何も考えないことにした。私が蓄積した戦闘本能のみをもって、立ち向かうことにした。生きるか死ぬかなど、歯牙にもかけなかった。
何も考えずに着地した。何も考えずに振り返り、何も考えずに突っ走り、何も考えずに斬りかかり……その結果がどうなるかなど考えなかった。
それは莫大な消耗を、肉体にも精神にも来したのだろう。私の頭の中には、『ぼんやりとした何か』が浮かんでいた。漠然と……私はこのまま死ぬのだろうなという感覚だろうか。君のお父さんからの攻撃もそうだが、気付かぬうちに、私自身すら私を追い込んでいたのかもしれない。
……私が勝った時、私は雄叫びを上げた。無論、その勝利に歓喜したというのもある。しかしそれ以上に、そのまま私も倒れてしまうのではないかと思ったんだ。そのまま倒れ、力尽きてしまうのではないかとね。
だから叫んだ。叫んで、私自身を繋ぎ止めていようと思った。私の生命のために、私はあらん限りに叫んだ。今まで、あれほどまでに叫んだことなど無かった。
……そんな時、君のお父さんの高らかな笑い声を聞こえてきた。
その時一瞬過ったのは、実は倒せていなかったのではないか? いやそんなはずはない。最後の一撃で倒せているはずだという混沌とした思いが渦巻いた。
私は……私は、それを幻聴だと、私に潜む恐怖心によって聞こえてきた幻聴だと思おうとした。私の叫び声で、その声をかき消そうと思った。冷静になった今なら言える。君のお父さんは確実に笑っていた。命が尽きるその瞬間まで……
「──君のお父さんは本当に見事だった。最後の最後まで、死の瞬間においてさえ、私にちっての脅威だった。憎むべき敵であると同時に、思わず敬意さえも表したくなるほどだった……」
リベジアンが言葉を止めた。イエーグナはじっと、彼女の胸に頭を乗せて、その話を聞いていた。静かな、穏やかな表情で聞いていた間、何を考えているのかは、あえて考えなかった。
ふと、彼女の軽さに意識が行った。全身を乗せているにも関わらず、息苦しさも煩わしさもない。生温かな体温が服を通じて感じられ、起伏する胸に少し押され、仄かにくすぐったい髪の毛から、微かな甘い匂いがした。
「『戦争に出向いた兵士が命を落とす』」イエーグナが呟いた。「私は、間違ったことを言ったとは思ってないよ。あの戦いに関わった皆……リベジアンだって、兵士なんだ……」
その語調には、言い訳にも自己正当化にも聞こえない、諦めが滲み、哀しみに潤うようなところがあった。リベジアンは憐れむように目を細める。その言葉の意味は明白だった。侵略者たるディグジーズもまた、間違いなく『兵士』の一人であった。
イエーグナが身体をリベジアンの頭の方へ上げた。二人はちょうど、真っ直ぐ向き合う形になった。イエーグナは、リベジアンの眼帯をした片目に、そっと手を触れた。リベジアンは特に拒否することもなかった。
「ここが、お父さんに潰されたの?」
「ああそうだ」
イエーグナの問い掛けに、リベジアンは穏やかに答えた。しばらく眼帯を撫でていたイエーグナはその手を引くと、もう片方の手の人差し指を、リベジアンのもう片方の目の下に当てて、そっと微笑んだ。
「もし、私があんたと戦うことがあったら」イエーグナは言った。「もう一方のは私のだ」
「……ハハハ」リベジアンは笑った。「そいつは怖いな。出来ることなら、御免被りたい」
イエーグナは手を引っ込め、顔を埋めたかと思うと、そのまま横に倒れた。身体は密着させたままだった。
「……今日さ」イエーグナは言いにくそうに言った。「このまま一緒に寝ても良い?」
「もちろん」
「……」
イエーグナはリベジアンの身体に顔を埋め、そのまま目を閉じる。リベジアンはそんな彼女の髪の毛に手をかけて、櫛でそうするように優しく擦った。
やがて、二人は眠りに落ちていく……




