酔い覚め
結局、部屋に戻ってからも、イエーグナは目を覚ますことはなかった。メイド長のサキミは、初めて見るイエーグナの様子を可笑しそうに見つめていた。
「酔い醒ましの飲み物でも持ってきますね」
「……起きた時に、自分で取りに行きます」少し考えて、リベジアンは言った。
「分かりました。では、いつ来ていただいても分かるよう、用意だけしておきます」
サキミは部屋をそっと出ていく。それを見送ったリベジアンは、そのまま視線をイエーグナの睡っている姿に移した。彼女の眠る姿は、ほぼ毎晩のように見ている。いつも俯いており、口を一の字に小さく閉じ、少しばかり身体を折り曲げて眠っているのが、彼女の睡眠時の姿である。
その目がどこか険しそうに見えるのも含め、その姿は、睡眠中さえ警戒を怠らない、隙を見せようとしない、普段の彼女の態度を、表しているようだった。
それに対し今は、仰向けで、小さく口をすぼめ、目を柔らかく、赤ん坊のように閉じており、その頭は小さく横向いていた。腕は「く」の字に曲がり、手は上を向き、胸は呼吸の度に小さく波打っている。
酔いの影響とはいえ、ここまで無防備な、安心しきった彼女を見るのは初めてであり、しばらくは目が離せなかった。
……すると、イエーグナが小さく呻き出し、握った両手で目を擦り、小さく開いた瞳をリベジアンに向けた。
「……リベジアン?」
「目が覚めたか?」
「……」
しばらくじっと目を向けていたかと思うと、イエーグナは楽しそうな、そして少し浸るような笑みを浮かべた。それを見て、まだ酔っていることをリベジアンは察した。
「私、お父さんのこと、何も言わなかったでしょう」
リベジアンは一瞬、彼女の問い掛けの意図が掴めなかった。次の言葉を促すよう、少しだけ頭を横に倒した。
「私ね、お父さんがいなくて悲しいなんて言わないよ。しっかり元気にやってるって感じ。酔ってたってなんだって、お父さんを求めたりしないんだー。ふふーん」
陽気に語られる言葉であったが、リベジアンには物悲しげに思われた。それは、ディグジーズの存在が、大なり小なり、娘たるイエーグナの心のどこかに、絶えず引っ掛かっていることを示しているようでもあったからだ。
彼女自身が普段尾首にも出さぬ、そして今でも出しているとは思っておらぬはずの悲しみに、触れたような気がした。ずっとにやにやしながら、頭をゆっくり右左としていたイエーグナだったが、やがて真っ直ぐ向けて、小さく開いた目を天井に向けた。
「すんごくふわふわする……また空に飛びたい」
「……空?」
「飛べるんだ、私。今は魔力が取られて使えない……」
イエーグナは再び眠りの世界へ落ちていった。先程と似たような姿勢で寝入る彼女に見ていたリベジアンは、何かを検討するように、下を向いた……
「──私、何か変なこと言わなかった?」
イエーグナは苦しそうに顔を歪め、支えるように手で頭を押さえながら、リベジアンに聞いた。結局、次の日まで起きなかったのである。
「安心してくれ。特に変なことは言わなかった」
リベジアンはそう言いながら、コップをイエーグナに手渡す。イエーグナは両手で受け取ったコップの中身に視線を注ぐ。透明の茶色い液体が彼女の顔を写しながら、軽く波打つ。
ゆったり立ち上る湯気の湿った温もりを顔に感じつつ、そっと口つけて飲んでいく。少し薬味がかった甘味が口内に広がっていき、コップを口から離すと共に、心地の良さそうな息を漏らした。
「どうだい? 味は」
「ん~……まぁ誉めれないことはない」
「そうか」
いつも通りの彼女に戻ったことを確認したリベジアンは、可笑しそうに微笑んだ。
「どうする?今日は休むか?サキミさんも、休んで構わないとは言ってくれている」
「ん~……」イエーグナは考えて、「じゃあ休ましてもらって良い?」
「分かった」リベジアンが言った。「あとで来たら言っておくよ」
「うん」
イエーグナは隣の机にコップを置いて、そのまま仰向けで勢いつけつつ、ベッドに倒れこんだ。額には腕を置いて、気分の悪さを抑えようと静かにしていた。そうした状態も相まって、晴れた日の爽やかな風が、余計に心地よく感じられた。静かに目を閉じる。仄かな気分の悪さをそのままに、夢の中へと入り込めそうに思われた。
リベジアンはその様子をじっと見届けると、窓の方へ顔を向ける。本日も快晴にて、雄大な青空にペンキで塗られたような白い雲は、柔らかで強い存在感を示していた。
ふと、朝食について尋ねようと、イエーグナに目を向けたリベジアンだったが、彼女のじっとした様子から、あえて尋ねるのをやめた。二日酔いの苦しみを、彼女自身知らぬわけではなかったし、求められた時、すぐに対応すれば良いと判断した。
──昼食時には起きたものの、あまり食べたくは無いという事だった。そして、何時もより少なめにリベジアンが用意した物を、少しずつ、ゆっくりと食べていった。
「気分はどうだ?」
「う~ん」イエーグナは口の中のパンを飲み込む。「まぁまぁ」
「そうか」
イエーグナは小さくむしったパンをコーンスープに少し浸して、口に運ぶ。リベジアンは、暖かな眼差しで彼女を見守る。半ば、お転婆な妹を見守る姉の目付きである。
「何もしない日って、久しぶりかも」
「ん?」
「一応、いっつも何かしてるから……ベッドでぼーっとって、あんまない」
「ここに来てからはそうだな。初日……すらも、色々移動したしな」
「うん」イエーグナが返事をした。「時間を無駄にしてるって感じで、何か良い」
「たまには良いな。そういうのも」
リベジアンも、パンを一切れ掴んでバターを少し着けた部分を食す。
「そうさ」イエーグナが言った。「私は何時だって、時間を無駄に使える。時間は常に、私のためにあるんだ」
先程まで、どことなく夢うつつの状態にあった彼女がこの時、いつもよりも正気な、強きな態度を現した。よく見る不遜さのようでもあるが、その一方、普段のものとは違うようにも思えた。
彼女の普段の不遜さは、常にどこか当たりの強い、警戒したような、いかなる隙も見せまいとする意思表示のようなものであった。言わば、守りの不遜さと言おうか。
それが今、この時、彼女の見せる不遜さには、容易く言えば、父ディグジーズを思い出させるものがあった。何者にも支配されず、むしろ全てを支配しようとする姿勢、支配できぬはずがないと言わんばかりの態度。
どのような状況下にあっても、自らの敗北を信じようとせずにいながら、敗北の瞬間には何らの強がりも感じさせない高笑いを響かせた堂々たる姿勢……
決して長い時間、魔王と対峙したわけではなかったが、リベジアンはどうしても、彼女の態度に、父親の面影を見ないわけにはいかなかった。あるいはそれは、二日酔いの疲れにより出来た隙であったとも言えるかもしれない。
こうしたイエーグナの態度に対し、しかしリベジアンに、不思議と警戒心は生まれなかった。それは、彼女と過ごした時間がそうさせるのか、彼女が普段隠しているであろう側面を見ることが出来たかことによる喜びによるものかは分かりかねた。ただ少なくとも、現状において、彼女がディグジーズの行ったことを繰り返すことはないだろうということで、彼女を信頼していた。
──昼食の後、再びイエーグナはベッドに仰向けで飛び込んだ。それからは目をつむったり開いたり、眠気のあるような無いような、そんな曖昧さの中、ベッドで過ごした。喉が渇けば、澄んだ水を喉に流し込む。
時折、本を読んでいるリベジアンに頼み込んで、取ってもらった本を読むこともあった。しかし、数ページ読むとすぐに閉じ、本を持った手を大きく横に倒し、いつものように読めないことを、どことなく疲れたように小さく気だるげに嘆いた。確かに、普段の彼女の読書の早さから考えると、いつもよりは微妙に遅かった。
何もしない時間は、遅々として進んでいく。しかしその遅さはあまり気にならない。時折は意識が半ば浮遊していることもあり、一気に時間が過ぎていることもあった。リベジアンに目を向ければ、彼女もまた、本を読んだり、じっと外を見ていたりしている。退屈ではないのだろうかと思わぬこともなかったが、不思議と退屈そうには見えなかった。
──ふとイエーグナは、リベジアンをああして支えるものはなんだろうかと思った。使命感か、信念か、単純な習慣か……決して固い人間ではない。態度も様子も、自然体そのものである。
その一方隙がなかった。細目で彼女を見ることがあったが、普段と全く変わらぬ様子をしていた。時折の小さな欠伸に、多少の人間らしさがあった。しかしそれでも、その欠伸には、どことなく品格のようなものがあった。
なんとなく、彼女の一人でいる様子を見ている気がした。自らがいなくても、彼女はああして過ごしているのだろうと、信じることが容易く出来た。
リベジアンは時折、こちらの様子を窺う時がある。しかし、決して不要に干渉してこようともしない。何かを言えば必ず返してくれるので、リベジアンがイエーグナの意のままに任せてくれるのがよく分かった。
そうした配慮が、イエーグナには仄かに居心地よく感じられていた。そしてまた、彼女自身意識してこそいないが、ある程度感謝の念も、無いではなかった。
夕方になり夜になる。二人は風呂に入り、夕食を取った。その頃になると、イエーグナの体調もほとんど良くなっていた。改めて酒の感想をイエーグナが述べると、二人は酒についての談義に花を咲かせた。
そして良い時刻になるとベッドに入り、何もない一日を終えた。翌日からまた、イエーグナはいつも通りの日々を、時折ほろ酔い気分になれる程度の少量のアルコールを交えながら、続けることになった──




