混迷
リベジアンが道場から出た頃には日が既にかなり傾きかけているところだった。その日は夜まで、特にこれと言う事件はなかった。部屋にしばらくいた後、夕食を取り、風呂に入り、特に用事の無くなった頃にベッドに入った。それまでの間、二人の間に会話らしい会話はほとんど無かった。
その夜は、実に静かだった。開かれた窓からは月光が入り込んでおり、電灯を消した中においても、部屋の中のものは見られる程度には明るかった。リベジアンは、深い眠りの中に沈んでいた。イエーグナの事や、久しぶりの試合などで、彼女自身気付かぬうちに、心身ともに疲れきっていたのである。
……彼女が、部屋の中の様子の異変に気付いたのは既に深夜になっていた頃であった。特に大きな危険を感じることもなかったので、目は閉じたままであったが、それでも何か起きた時のために、すぐに行動に移せるほどには心構えをしていた。
しばらくして、ベッドの足元が沈むのを感じた。乗ってきた何かは、次第に彼女の身体へと上がっていった。手が押さえられでもしたら、全力で事を起こそうと思って、両手を少し開いた彼女であったが、上がってくるものの両足は、開いた両手の内側を通って来ていた。
何が目的なのか、リベジアンは目を開いた。真っ先に目についたのは、なだらかな弧が、向こう側へ小さく流れている細い物であった。即座にそれが刃先であるのが分かった。そしてその向こう側、自らに刃を向けるイエーグナの姿があった。
リベジアンの腹の辺りに股がり、右手で持った刀を向けて、実に冷たい、内心の読めない表情をしていた。刀であると把握してもしやと思っていたが、暗い中、月明かりに辛うじて見える鍔から、その刀が自分のものであることも確信できた。リベジアンは一つ息をつく。
「……何か、言いたいことはないの?」
ほとんど平静な様子を崩そうともしないリベジアンにイエーグナは問い掛ける。
「何を言ってほしい?」
「……」
リベジアンに優しくそう問い返されたイエーグナは、少しばかり力が抜けた様子を見せた。そして、そのまま刀を下ろそうとする。
……次の瞬間、何かのスイッチでも入ったかのように、激した表情と共に刀を振り上げると、リベジアンの首めがけて振り下ろした。しかし、あと少しで達するというところで、刀が止まってしまった。引こうとしても些かも動かぬので刀に目を向けると、刃が曲げた人差し指と中指で受け止められていた。改めて押しても引いても、びくともしない。
「もう一度、試してみる?」
イエーグナはリベジアンを見る。リベジアンは、それ自体が一種の挑発であるような、変わらぬ平静さで彼女を見返していた。
一瞬顔をしかめつつも、イエーグナは柄から手を離した。刀は握られていた部分から微かに振動する。イエーグナは何も言わずにベッドの上から動き出してそこから降り、自らのそれに入ろうとする。
「待て」
呼ばれたイエーグナは、声の様子がこれまでと少し違うのを感じ、思わず止まって、後ろを振り返る。リベジアンはベッドから既に出て、そこに立っていた。その目は真剣な、そして何かを訴えかけるような調子があった。
少なくともイエーグナに、蔑ろにはしてはいけないと思わせるほどの目付きではあった。彼女はベッドに潜り込もうとして掴んだかけ毛布から手を離し、やはり真っ直ぐ立った。
「今日、君はここにいるのが怖いと言った。いつでも、いかなる理由を持ってしても、君を殺すだけの十分な理由になるというのが、君の言葉だった」
イエーグナは返事を返さず、じっとリベジアンを見る。リベジアンは言葉を探すように少しうつむいた後、
「……君はその同じ日、置き忘れのものとはいえ、模擬刀を手にした。そして、刀身を鞘から抜くまで行った。そしてその夜は、人の刀を勝手に持ち出し、その持ち主に斬りかかろうとした」
リベジアンの口調に重みが増えるのを、イエーグナは感じた。
「刀身を抜くこと自体……いや、問題がないわけでは無論ないが、少なくとも取り立てて大騒ぎするほどの事ではない。何かしら問題になろうと、私で処理することは出来る。様子を見る限り、ティクスさんも、手伝ってくれるようだしね。私に斬りかかったことも、私は特に問題視する気はない。飽くまで、私で済むのであればではあるが」
リベジアンは、様子を探るように、少し間を置いた。
「……問題は、今君がどうしたいか、ということだ」リベジアンが口を開いた。「私の見る限り、そして思う限りにおいて、君はどことなく、我が身を破滅に追い込もうとしているところがある。あの刀を抜いたということもそうだが、君はどこか、騒乱を起こし、そのことによって起こり得るかもしれない事象を我が身に振りかけようとしているように見えるんだ。自ら怖いといったものに、積極的に飛び込もうとするような、そうした態度だ」
イエーグナは、見つめられることを避けようとするかのように、顔を横に背ける。そして、何かを言い訳を考えるかのように瞳を下に向け、唇を口の中に含めると、やがてまたリベジアンを見る。その一連の動作にはどこか、自らの悪戯を咎められているような子供っぽさがあった。
「君は今……君の心は、様々なことが起こったために、そして今自分に降りかかっている状況のために、混迷しているのではないか? どうすれば良いのか、どうなりたいのか、自分自身でも分かっていないんじゃないか?」
優しく問い掛ける様なこの言葉を聞いて、イエーグナはうつむいた。内心を見つめられぬようにそうしたのかは分からぬが、少なくともその表情には、先程までの不敵さは消え、僅かながら困惑しているようにすら見えた。
「君の行為のために──無論、誰かを傷つけるといったようなよほどの事でない限りはであるが──君が何かしら不当な不利益を被ることが無いよう、そして、それを含めたあらゆる意味において、私は君を守ると約束した。しかし──」リベジアンは決然と言う。「君自身がどうなりたいか、君自身がどうしたいのかを決めることは、さすがの私もどうすることもできない。無責任かもしれないが、そうしたことは君自身で導き出さねばならない。ただ……」
イエーグナは顔を上げた。リベジアンの顔には微笑みが浮かんでいた。優しく、温かく、ほのかな慈悲が湖に照る日光のように浮かんでいた。
「私としては、出来ることなら、生きることにベクトルを向けてほしい。迷うのであれば、行く手が示せぬのであれば、私と共に、普通の毎日を送ってほしい。そこから何か見出だせることがあるかもしれないし、君にとって、決して無駄ではないと思っている。だから……」
ここで、リベジアンの言葉を切れた。どう言うべきかが、思い浮かばなかったのだ。イエーグナはまた下を向き、何かを見つけ出そうとするように、目を下に向けたまま、右に左に向けていく。リベジアンは返事を待つように、そこにじっとしていた。
やがて、結局は何の言葉も返すことなく、イエーグナは自らのベッドの方を向いて、その中に潜り込んだ。その一連の動作は、どこか意気消沈しているようにも見えた。しばらく、掛け布団から見える丸まった身体に目を向けていたリベジアンは、少し諦めの漂う微笑みを浮かべ、自らのベッドへ入っていった。
──外から微かに鳥の声が聞こえたように思いつつ、リベジアンはそっと目を開いた。影がかかりながらもその明るさから、夜が明け、陽が昇っているのが分かった。
彼女は静かにベッドの上から上半身を起こす。ふと、視線を窓辺に向けると、そこに背を向けて立っているイエーグナの姿があった。そして、その視線に呼ばれたかのように、彼女もリベジアンの方を振り向いた。
「……おはよ」
少しぎこちないながら、イエーグナは小さくそれだけ言った。リベジアンは少し驚きつつ、朝日に和らいだ喜色をたたえながら微笑んだ。
「ああ、おはよう」




