インタールード②(決壊)
外に、出た。
雨が、降っていた。
冷たい雨で、浮遊感に溺れていた黒羽は、正気を取り戻す。
「あ、ああ、ああああああ……」
あれは悪い夢なんかじゃなかった。制服にべちゃりと付いた彼らの血を見て、黒羽は罪悪感に苛まれた。
「人、殺しちゃった……。どうしよう……私、悪い子だ」
頭を抱えて、立ち尽くした。母親に助けを求めたら、右腕が真っ黒に染まった。それから影みたいに腕が伸びて、部屋の中を蹂躙した。
黒羽は血で濡れた髪の毛を掻き上げる。
「み、みぎ、右手は?」
ふと、右手を見たが、普通の手がそこにはあるだけ。
「ううん、違う。もうこの手は元には戻れない」
自分だけならまだしも見知らぬ人間にまで危害を加えてしまった。母親の呪いが刻印されたこの腕が五人の命を葬った。
「……もう、二人には会えないな……」
どこだか分からない街の中を彷徨った。あてもなく歩いた。幸い夜が深いこともあって、人影はなく、赤い絵の具みたいに汚れた制服も大量の雨粒で殆ど落ちていた。
「公園……」
どっと溢れた疲労感。降りしきる雨の中、公園のベンチに腰を下ろした。
こんなことがあって、あの呪われた家には戻りたくない。
もうどこにも帰れない。
もう死んじゃいたい。
生きてる理由も分からない。
この腕を切り落としてそのまま死んじゃいたい。……でも自分で死ぬなんて怖くてできない。
「ねえ、お母さんは怖くなかったの? 私には無理だよ」
とてつもない漂流感に襲われた黒羽は、ずぶ濡れになった肩を震わしながら手で顔を覆う。
どうしたらいいか分からなくなって泣いていると、水浸しになった地面を踏み付ける音がした。過剰なまでに張り詰めた感覚は、彼女に危機感を知らせる。そうして黒羽は指と指の隙間から園内を確認した。
「だ、だれ……」
真正面には黒い傘を差した女性が立っていた。自分よりも真っ黒で長い髪。差している傘よりも、この夜の色よりも、もっと深くて暗い不気味な色をしている。それと同じように気味の悪い赤色のロングコート。さっき見た真っ赤な鮮血に黒が混同したような色、人の血が滲んだようなどす黒い色をしている。
雨粒が地面に落ちる音だけが聞こえる。
長い沈黙の後、傘で素顔が隠れた女性がこう言った。
「哀れだな。母娘同じく、耐えるだけが取り柄の似た者同士は、互いの苦痛を表に出そうとはしない。当然、その母親は愛娘の異変には気づかない。そんな母親の姿を見て育った娘もまた、悩みを打ち明けようとはしない。その結果がこのざまだ。本当は分かっていたんだろう、美咲怜。自滅するなら娘も一緒にと。それができないのなら、子なんて産むべきではなかったろうに」
降りしきる雨音なんて聞こえないくらい毅然とした口調で淡々と話した。
「ど、どうして、お母さんの名前。あなた、誰なの?」
見知らぬ女性から母親の名前が飛び出して、黒羽は戸惑いの声を漏らした。気が動転していて口も良く回らない。
「私はただの相談相手さ」
「相談、相手……?」
「ああ、人の悩みを聞くカウンセラーさ。お前の母親とは、長い付き合いになる。それこそ、美咲康弘からの虐待に対する相談とかな」
こちらの心境を楽しむような余裕さえ感じられる声音。すると女性はゆっくりと一歩踏み出した。
「ち、近寄らないでっ」
「そんなに恐れるんじゃない。美咲黒羽……人を殺めた犯罪者」
「なんで、それを……」
「なんでって、あの野蛮共は私が手配したからだ」
驚愕の事実に思考が回らない。
「な、何が目的、なの……」
「力を十分に行使できていないようだから、発端を作ってやったまでだ。安心しろ。別にお前が人殺しだろうと私にとってはどうでもいい」
さらに二歩、三歩と距離を詰めてくる。
「なんなの……やだ、来ないで……っ!」
「怖がりで弱虫なくせに、よくここまで耐えてきたな。どうしてそこまで耐えられたんだ?」
「そ、それは……お母さん……みたいに……強く……」
「ふっ。そんな母親はお前を残して死んだみたいだが?」
「お、お母さんを悪く言わないで……」
鼻で笑いながら母親を見下された黒羽は、潤んだ双眸が雫を零し続けながらも、毅然と女を睨みつける。
「お前がそれを言うか。自分が殺したもんと変わらんだろうに」
「っ……」
黒羽は顔をくしゃくしゃにして唇を噛みしめた。
「父親の性的虐待、学校でのいじめ、母親を死に追いやった自分の言葉、そして人を殺してしまった自分の手。つらいことばっかりできっとお前はこの先も苦しむことになるだろう。その腕の呪いのように」
「なんで呪いのことまで……」
黒羽は目を大きく見開いて動揺する。
「私は何でも知ってるんだ。痣は母親を自殺に追い込んだ呪いだと思っているんだろう?」
「っ。……わ、私は……あんな一言で死ぬなんて思わなかった! 何でお母さんなの……! どうしてお母さんが死んじゃうの……! 死にたかったのは私なのに……! 死ぬなら私と一緒に心中して欲しかった……っ‼」
誰にも言えなかった本当の気持ちを、なぜかこの女性に吐露してしまった。
女が近づいてくる。
「だがお前は母親の後を追うことができない。本当は耐えるのも得意ではないし、死にたくても死ぬ勇気が出ないただの臆病者だ。なあ、本当は弱さを見せない母親の笑みが、この上なくつらかったんだろ?」
黒羽は沈黙する。
「素直になれよ」
その女性はいつの間にか足元まで距離を詰めていて、自分に降り注ぐはずだった無数の雨粒が傘に弾かれていた。
黒羽は怯えながら顔を上げた。
女の素顔は鳥肌が立つほど秀麗で、その凛と光る朱い瞳からは逃れることなんてできるはずがなかった。心の内をすべて掌握されているかのように、何もかも知り尽くされていて、否定したところで無駄だと思ってしまった。
「……そうです、つらかった……! 心配しても、ずっと……いつも笑顔で、それが私には耐えられなかったっ……! 私はこんなに……こんなにも……」
黒羽は悲痛の叫びを訴える。
「苦しんでいたのにってか。……それは違うな」
「何が、違うの?」
俯きがちになっていた顔を上げ、返答を待った。
「苦しんでいるのはお前だけじゃなかったということだ。皮肉なことにお前が知らないだけで母親も苦しんでいたんだ。耐えるのが取り柄だと言っておきながら、本当はどちらもそうじゃなかった」
「嘘だ、そんなの。だって、お母さんはいつも強くて、私を守って」
「言ったろう。相談相手だって、お前の母親は私に悩みを相談してきたんだぞ?」
彼女の口から告げられる言葉に嘘はない。口から発せられるものはどれも真実で、疑いたくても疑えない。
「どうして、私じゃないの……」
「不毛だな、お前と同じで心配を掛けさせたくなかったんだ。まあ、傷を見せ合うことができない母娘なんて所詮他人ということだが」
黒羽は俯き、沈黙する。
「素朴で純粋で可憐で愛おしい。お前の母親はそんなことを言っていたな。だが私の目に映るお前は楚々とした顔の裏に煮えたぎる怒りを秘めている。なあ、どうだったんだ? 人を殺めた感想は」
見下ろす瞳に感情はなく、瞳孔の朱が濃くなっていく。
「なんで、そんなこと……そんなの、最悪な気分に決まって……」
言葉とともに視線を落とす。
「いいや、違うな。ずっとベンチに座って笑っていたじゃないか。愉しげに」
「ち、違う。……わたしは、悲しんで……」
「認めろよ。愉しかったんだろう?」女はそう問いかける。そして「私の目をちゃんと見ろっ!」しかりつけるような鋭い声音に反射的に顔を上げた。
「あ――」
見ればその瞳孔は猫のように鋭く細く、まるで本物の猫が怒っているようだった。
「い、や……そんな目で見ないで……っ。お願いだから怒らないでよ……! 私、猫さんにまで嫌われたくない……っ!」
黒羽は大粒の涙を流しながら異性に告白するかのように打ち明ける。
「……はい、本当は、とても愉しかった」言うと切り替わった。「幼い頃、羽を捥いだ蜻蛉を、蟻の巣穴に差し込んだ時のような高揚感がありました」
歌うような言い方に、赤い眼をした女は不愉快そうに目を細める。
「私の用は済んだ。せいぜい、いじめてきた子に復讐でもすればいい。虐めた側が後悔するほどの暴力で鬱積を晴らしたまえ」
目的を果たした女性は立ち去ろうと背を向ける。
「……待ってよ、あなたが私の家族をおかしくさせたんじゃないの」
女の黒いヒールがピタリと止まって、黒羽を尻目に見る。
「だったら何か……?」
「その長い手足、もぎ取って、砂場に埋葬してあげる」
黒羽は雨に打たれた青白い腕を持ち上げる。その腕からはずぶずぶと狼煙のような黒い靄が溢れ出る。見れば、右腕は酷い火傷で壊疽したように黒ずんでいた。
この腕を振るえば、あの男たちを細断したみたいに目の前にいる女も殺せる。綺麗な顔が歪むところを見てみたい。
「ふん、やめておけよ」
振り向いた瞳が異彩を放つ。
振ろうとしていた腕がなぜか止まる。
動かない。
「どうして……うごかない、の……」
動作を封印された黒羽の目に映るものは、真っ赤な満月のような瞳。瞳。瞳。爛々と妖しげに光を放つ、狂気を孕んだ赫い眼だった。
その禍々しい赫色が網膜に入り込んでくる感覚に黒羽は呻きを上げる。
「いっ、あぁ……っ!」
黒羽はあまりにも眩い赤色に目を押さえつけた。
その瞬間、激痛が走る。
「い、や、あああぁぁぁぁぁ……っ!」
今までで一番痛い。感じたことのない激痛。今まで振るわれてきたどんな理不尽な暴力よりも痛い。痛い。痛すぎた。眼球を裂かれて、その切れ込みに油を差し込まれたみたいな激痛、身体が狂い出す。
「アアアぁああああああああああああっ!」
発狂する。出したことのない声が自分の喉から飛び出していく。声を出さないと死んじゃう。身体が警鐘を鳴らしている。もう十分壊れているのに、色んなところが壊されていく。身体中が悲鳴を上げている。でもどうすることもできない。
ベンチから転がり落ちる。
雨でぬかるんだ地面にのたうち回る。
目を合わせていないのに痛い。何度瞼を閉じても眩しくて、眼球がフライパンの上で焼かされているみたいだ。いっそのこと眼球を抉り出してしまいたい。しまいたい。しまいたい痛い痛い痛い。
「割れ窓如きが、私に殺意を向けた罰だ」
壊れちゃう。もう壊されているのに、もっと壊れちゃう。
心が壊れる。
人格が狂い出す。
主人格と副人格が強烈な刺激でぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
やめて、やめて、やめて。
もうこれ以上、壊さないで。
もうこれ以上、おかしくなりたくない。
「ご、めん、だざい……! ゆりゅ、じ、で……ぐだ、じゃい……! じ、に、だぐ、ない、お……っ!」
身体を痙攣させながら、舌を出して懇願する。その様を見下ろしていた女の赫い瞳孔が黒ずんでいく。
「ちょうどいいのがあるだろう。母親にでも守ってもらえよ」
女は清々しく言って、何事もなかったかのように、立ち去っていく。
「おが、ぁ、ざん……。いだ、い……よ。だず、げ、て……っ! おか、あ、ざん……っ!」
黒い右手で瞳を覆うと、腐敗したその手が、徐々に眩しい激痛を吸い取っていく。
「はぁ……。ぁ……、ぁ……」
痛みが引いて忘れていた呼吸を繰り返した。脱力感に襲われて身体は動けず、ぺたんと濡れた地面に横たわったまま、冷たい夜を過ごした。




