3―14 失踪
数日が経った。
ボイスレコーダーを持たせた甲斐あって、黒羽はいじめられなくなった。ボイスレコーダーの音声には佐伯の苛立ちに満ちた声が録音されていた。内容としてはこの前教室に進入してきた女は誰だという問い詰めと、マニキュアを塗った爪を見て不快に思ったのだろう、何オシャレしてんだ、という罵声だった。
だが黒羽が録音していることを言うと、暴言が暴力に発展することはなく、いじめが表沙汰になるのを恐れてか、黒羽に日頃のストレスをぶつけることはなくなった。
そういうわけでしばらく琥珀の館から登校していた黒羽だったが、昨晩、自分のアパートから登校する決意の旨を、彼女の口から聞いていたため、彼女との生活は今まさに区切りがついた。
黒羽を玄関で見送った琥珀がリビングに戻ってくる。今日の彼女は淡い翠のブラウスに黒のスカートを履いている。髪も綺麗に整えられていて、リップでも塗っているのか唇は潤いのある光沢を含んだ桜色をしていた。
ロングスリーパーであるため朝に弱い琥珀だったが、ここ数日間は黒羽が登校する時間に合わせて彼女も一緒に起きてきて、学校に行くわけではないが、一緒に身支度も済ませていた。姉妹のような立場が逆転したかのように、琥珀は黒羽の行動順序を倣っていたのだ。だが黒羽を基準とした生活習慣も今日で終わりのようだ。
「あ~あ、今日帰ってこないんだ……」
ぼふんとソファに腰を下ろした琥珀は名残惜しそうな声で呟いた。このまま佐伯率いる女子グループにいじめられなければ、黒羽の心身状態は健康的になっていくだろう。とは思いつつも気がかりな点は二つある。一つは佐伯紀香の家庭環境だ。最低限の救いはしたつもりだが、児童相談所の職員が何処まで踏み込んでいるのか、分からない。あれから彼女に対しては何のアプローチもできていない。
二つ目はいじめと悪夢の因果関係だ。それに関してはどんなに思考を重ねても腑に落ちない。悪夢を見なくなったのは良かったが、そこには必ず理由があるはずだ。いじめられた日は悪夢を見て、いじめられない日は悪夢を見ない。普通に考えれば、自分の子がいじめられていたら慰めるはずだ。なぜ追い打ちをかけるようなことをするのか。悪夢を見せるならばいじめた側だろう。
「どしたの?」
落としていた視線を声の方へと向けると、上半身だけをソファに横たわらせた琥珀が陽玄を見つめていた。
「いじめと悪夢が関係していたわけだけど、どうしていじめられると夢に母親が出てきて、自分が死ぬ瞬間を見せるのか、腑に落ちなくて」
少し考えているような間があった後、琥珀はぐでっとした上半身を持ちあがらせた。
「……いじめは嫌だし、死ぬことは怖いよね」
「そうだね。どちらもマイナスでしかない」
「でも、マイナスも掛ければプラスにはなるよ」
陽玄は何を言っているんだと首を傾げる。
「演算上の話で言うならば、これは乗算じゃなくて加算ですよ。マイナスとマイナス、足してもマイナスのままだ」
「そうだけどさー、考えるなら楽観的に考えたいじゃん」
少し唇を窄めて言う。
そうは言ってもどう解釈すれば楽観的になるんだ。仮に楽観的な解釈ができても本人(黒羽)がどう思うかだろう。
「まあ、いじめと悪夢の関係性は後回しでもいいはずだよ。いじめられなければ悪夢は見ないんだから。彼女の悩みは二つとも解決されたってことだ。それよりもあたしは佐伯紀香の方が心配だ。彼女のケアもどうにかしてあげないと」
佐伯の行く先を案ずるように言う。楽観的思考の持ち主である琥珀もまた、これで物事が良くなるとは思っていないようだ。
「放課後、下校時間に合わせて佐伯紀香の家を窺ってみますか」
「そうしようかな。黒羽ちゃんの方は大丈夫そうだし……」
とりあえず今度は佐伯紀香にシフトしよう。それが解決すれば彼女たちの不安や悩みは一先ず区切りがつくだろう。
だが、午後になると、事態は深刻な様相を呈した。
陽玄は表情を曇らせながら玄関口のホールに置いてある電話機に残された音声を聞いていた。
――一件のメッセージがあります。
事務的な口調で電話機が教えてくれた。
メッセージが吹き込まれたのは夕刻。午後十七時六分。陽玄は現時刻を確認する。午後十八時三十二分。このメッセージは今から一時間半前に掛けられたものだ。琥珀の家の電話番号を知っている者は美咲黒羽ただ一人だけで、これまでの経緯からして嫌な胸騒ぎがした。
二時間半前。
佐伯紀香の父親の様子を窺おうと思って、一足先に佐伯の自宅に来たわけだが、肝心の父親は不在だった。もしかしたら仕事なのかもしれないと思い、佐伯紀香の帰りを待っていたのだが、夕刻を知らせる鐘が鳴っても彼女が帰って来ることはなかった。
今日は父親が家にいないため命令を受けていないのか、それとも虐待が表沙汰になるのを恐れて、父親の束縛が鳴りを潜めているのか、分からないが、友人と時間を過ごしているんだろうと思った。
とは言え、いつまで待っても帰ってくる気配がないので、黒羽の家に立ち寄って、彼女から学校での佐伯の様子について聞こうと思ったが、その彼女も家にはいなかったのだ。
その時点で時刻は十七時半過ぎ。下校時間から一時間半ほど経過しているが、帰ってこないとなると何かあったのだろうかと不安になったが、もしかしたら自宅ではなく館に帰っているのかもしれないと思って、急いで琥珀の館に戻ってきたわけだ。
「カメラ、返して、欲しい……」
留守電に残された音声は、涙ぐんでいる黒羽の声だった。途切れ途切れ、何を言っているのか分からないくらい大泣きしていて、鼻をすすりながら、嗚咽を漏らしている。
佐伯家に向かってしまったのが間違えだった。あの時のように学校から尾行していればこんなことにはならなかったはずだ。
黒羽の咽び泣きながら助けを求める声に、居ても立っても居られなくなった陽玄は、玄関へと振り返る。駆け出そうとする陽玄の手を琥珀が掴んできた。
「待って。君が行くならとりあえずあたしはここにいる。もしかしたら黒羽ちゃんが帰ってくるかもしれないし。すれ違いになるのは、もう避けたい」
陽玄は頷いた。
どこにいるかも検討が付かない彼女の行方を捜しに、夜の外へ、飛び出した。
とりあえず美咲黒羽のアパートへと向かう。もしかしたら家に戻ってきているかもしれない。その可能性に縋りながら電車を乗って、彼女のアパートに辿り着いた。だが、鍵は閉まっていて、インターホンを鳴らすが反応はない。
――カメラ、返して、くれなかった……。ボイスレコーダー、と交換だって、言ったのに、うぅ、わたしの大切な、思い出なのに、返してほしい、よぉ……――
黒羽の切実な声が甦る。
アパートの錆びついた階段を下りて周囲を見渡す。
「闇雲に探しても意味はないか……」
黒羽が向かう先を特定できなければ無駄足を踏むだけだ。陽玄は駆け出しそうになる足を踏みとどませて考える。
おそらく学校から帰った後、写真を撮りに出掛けたのだろう。それで運悪く佐伯と鉢合わせて、いや違う。佐伯が日頃の鬱憤を晴らすために美咲黒羽の後をつけたんだ。
すぐ近くの駐輪場に行くと、壊れたボイスレコーダーが自転車の隅に転がっていた。やはりここでひと悶着あったようだ。愛機である一眼レフを強引に奪われて、ボイスレコーダーを差し出すことを交換条件として提示された黒羽は、家からボイスレコーダーを持って来て、それを佐伯に手渡した。それで黒羽は返してもらえると思ったが、佐伯は約束を破り、カメラを持ち出して逃げ去ったんだろう。黒羽もおそらく佐伯の後を追いかけに行ったとは思うが、行方を見失って仕方なく家に戻って来た感じだろう。そして電話を掛けた。が応答はなく、それから家を飛び出したという流れだろう。
「今はカメラよりも彼女が優先だ」
時刻は十九時。
美咲黒羽の着信履歴から二時間ほど経ってしまっているが、女子中学生だ。行動範囲はそんなに広くない。遠くには行っていないはずだ。陽玄は美咲黒羽のアパート周辺、最寄り駅周辺、学校周辺に目星をつけて探すことにした。
だが、黒羽が行きそうな公園や空き地をあちこち回ったが、見当たらなかった。仕方なく駅前に向かった陽玄は、もしかしたら館に帰ってきているのではないかと思い、念のため公衆電話で琥珀と連絡を取ったが、まだ帰って来ていないと言う。
「一体、どこにいるんだ……」
一向に戻ってこない事態に琥珀も見かねて、一先ず彼女と合流することにした。
陽玄は掌を握り締めながら駅周辺を見渡した。帰宅ラッシュが落ち着いた駅前は、帰路に就くべく改札口からぱらぱらと通勤客が姿を現している。思えば、初めて会った時も彼女は泣きながら助けを求めていた。
「どこかできっと……うずくまっているはずだ。早く探してあげないと。じゃないと彼女はずっと一人ぼっちのままだ」




