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天命の巫女姫  作者: たけのこ
3章 慈悲腐敗
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3―6 不安のない休日①

 涼しい空気が部屋に舞い込む中、陽玄は目を覚ました。

 何だか肌寒いと思ってソファから立ち上がった陽玄は窓際を見る。カーテンは波のように風でたなびいていた。昨晩、換気をしようと思って窓を開けたきり閉めるのを忘れていたようだ。

 自然の光を受けて淡く輝いている白いカーテンを開けた陽玄は、開けっ放しだった窓を閉めて、そのまま部屋の電気を付けた。


 時刻は早朝六時前。

 起床時間はいつもと変わらないが、視界に入る光景はいつもと違う。

 ここは美咲黒羽が暮らすアパートメントの一室。

 隣の部屋は襖で仕切られていて、中の様子は窺えないが、おそらくまだ眠っているのだろう。とても静かだ。昨夜、悪夢で魘されるような様子はなかったが、黒羽は安心して眠れたのだろうか。

 しばらく心配の眼差しを襖に向けていると、それがゆっくりと開かれた。


「おはよう」

「お、おはようございます」


 丁寧に挨拶を返してくれた黒羽だったが、寝起きだからか、何だか照れ臭そうに手をもじもじさせている。だがやつれ地味だった顔色は、一晩眠ったせいか、明るいものとなっていた。


「あの、あんまり、見ないでください……」


 陽玄がしばし黒羽の表情を窺っていると、彼女は恥じらいながら言って、長い黒髪が垂れた。俯いてしまって表情は分からなくなったが、自分の意志を伝えられるぐらいにまでは気力を取り戻してくれたみたいで良かった。

 安堵して黙っていると、とたんに不安そうな表情を浮かべて陽玄を見てきた。


「ごめんなさい。お、怒りました、か?」


 伸びた前髪の下から上目遣いにこちらを見てくる大きな紫苑色の瞳が不安で揺らめいている。沈黙が不安を呼び寄せるのは分かるが、どこに怒る要素があっただろう。


「怒ってないよ」


 言うと彼女はほっとしたように小さく息を吐いた。


「それより昨夜はよく眠れた?」

「はい」

「それは良かった。……となると、悪夢は日中連続して起こるわけじゃないのか」


 下校後、眠った時には悪夢を見たと言っていたが、昨晩は悪夢を見なかったらしい。


「そういえば、見なかったです」

「まあ、偶々見なかっただけかもしれないけど、何か法則性が分かれば、びくびく身構えなく済むのにね」

「はい……でも休みの日は悪夢を見ないので少し気が楽です。学校もないですし……」


 肩を小さくして言う。今日は何も嫌なことが起こらないという確信が穏やかな眼差しに現れているように見えた。


「巫さんはまだ寝てる?」

「はい、眠っています」

「そっか。美咲ちゃんももう少し寝てきたら? 良かったら僕が朝食を作るからさ、それまで眠って来なよ。日頃満足に眠れていないだろう?」


 もしかしたら自分らがいるせいで変に気を遣わせて、目覚めを早くしてしまったのではないかと感じた。


「大丈夫です。夜ご飯も作っていただいたのに、朝ご飯まで用意されたら私、何も返せない」

「そうかな。君の家にあるものを勝手に使ってご馳走になっているんだから、そんなに引け目を感じなくても」

「そうかもしれないですけど、何から何まで任せていたら、駄目になる気がして……」


 気に病むことでもないと思うし、時には身を委ねたって駄目にはならないと思うが……。


「分かった。じゃあ一緒に作るってのはどう?」

「それなら、はい。……でも、あんまり得意じゃないですよ」

「大丈夫、一緒にやろう」


 それから二人で朝食の準備に取り掛かった。

 昨晩も冷蔵庫の中身を拝見して思ったことだが、冷蔵庫には材料となるものは殆どなくて、電子レンジの上に山積みになったレトルトパウチが印象的でどこか既視感があった。そう言えば、琥珀の家にもたくさんあった。


 黒羽によると朝は何も食べず、学校に持って行く弁当箱には冷凍食品を詰め込んで済ませているそうだ。琥珀のように料理が不得意だったり、ずぼらな性格だからという理由もあるのかと思ったが、食には興味がないらしく、あれが食べたいという欲求よりかは空腹を満たせれば何でもいいそうだ。本人がそれでいいのなら構わないが、気分が沈んでいるから食欲が沸かないのではないかと心配になる。これが単なるその人の体質ならば気にはしないのだが、環境が人を作るという言葉があるように、母親が自殺し、学校でもいじめられ、夢の中でも悪夢に苛まれれば、自然と食への関心は薄れていくものなのではないかと余計に心配になった。


 冷蔵庫には幸い卵が常備してあったので卵焼きを、冷凍のひじき煮がたくさんあったのでご飯に混ぜておにぎりを作ることにした。

 台所には調理器具が揃っていて、棚には料理本が数冊整えられている。黒羽は好きな食べ物はないと言っていたが、母親は彼女のために何を作ってあげていたのだろう。

 視線を黒羽の方に戻す。

 隣に立っている彼女はしょんぼりしながらお皿に盛られた黒焦げの卵焼きを見つめていた。とても残念そうだ。


「何度も挑戦したのに、何度も失敗して……」


 自分を追い詰めるように言う。


「そんなに思い詰めなくても……」


 黒羽は微動だにしない。励みの言葉を掛けたが彼女の耳には届いていない様子で、不格好な形をした黒い卵焼きへと、視線を向け続けている。


「何回も、黒く焦がして、駄目にして、黒い、黒い……」


 言葉を発したそこで、ピクリとも動かなかった黒羽の肩が小さくなって震え出した。


「美咲ちゃん?」

「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 怖がるように何度も繰り返す。

 震えた声で謝り続ける彼女の精神は明らかに不安定で、黒く変色したものに異常な拒否反応を示した彼女の表情は、ひどく青ざめていた。


「大丈夫。こんなのは食べてしまえば」


 陽玄は焦げた卵焼きを手に取り口へと運んだ。黒羽の動揺していた瞳が陽玄を見て、恐怖に満ちた表情が次第に和らいでいく。

 その時、陽玄と彼女の間に割って入るように色白の細い腕が皿へと伸びた。いつの間に起きてきたのか、琥珀は隣に置いてある普通の卵焼きではなく黒く焦げた卵焼きを手に取った。おそらく見た目や色合いに関心を示したのだろう。


「あ、巫さん――」


 名前を呼んだ時には既に彼女はそれを頬張っていた。


「あたしが寝ている間に、二人でつまみ食いなんて、ずるい」


 もぐもぐしながら彼女は唇を不服そうに尖らせて言う。別につまみ食いをした覚えはないが、彼女の食への嗅覚は魔力感知並みに鋭い。


「てかこれなんて料理名? 何だかよくわかんなかったけど、香ばしくて少し甘かった」


 食べ終わった琥珀は言って、確かめるようにもう一度真っ黒になった卵焼きを口へと運んだ。


「卵焼きです。美咲ちゃんと練習していたんです」

「へえー、そうなんだ」


 もぐもぐ食べながら話す。


「でも失敗してしまって、何度も駄目にしてしまいました……」

「大丈夫、大丈夫、そんなしょげないで。あたしも料理下手くそだから、ご飯は彼に任せちゃってるの」


 言って琥珀は、三度卵焼きを食べる。


「食べない方が……。身体に悪いです」黒羽は心配そうに言う。

「大丈夫だよ。卵の甘みに香ばしさが加わって大人の味みたいな……あはは」

「うん、失敗しても食べてしまえば同じもんだよ」


 何とか元気付かせると、伏し目がちだった黒羽の視線が少し上を向く。その後彼女は恐る恐る黒くなった卵焼きに手を伸ばした。


「に、苦いです……」


 眉間に皺を寄せ渋い顔をするが、深刻な雰囲気は顔から抜け出ていた。とは言え、黒く焦げた卵焼きが黒く壊死した何かに見えてしまうのはかなり重篤だと思う。昨日、話してくれた現象も霊能力の類というよりかは精神的ストレスが関係しているのではないかと思ってしまう。


「昨晩はぐっすり眠れた? 悪夢は見なかった?」


 いつの間にか黒羽が作った卵焼きをすべて平らげていた琥珀が問いかける。


「はい。そのことで剣崎さんと話していたんですけど、悪夢は日中に連続して起こらないんじゃないかって」

「以前には? 悪夢を一日二回以上見ることはなかった?」

「ないです。寝れば悪夢を見ると思っていたので、お昼寝とか二度寝もしませんでした。けど、昨日は疲れていて、つい眠ってしまって……」

「そっか。ま、悪夢を見てしまうことに関しては変わらないしね。やっぱり原因だと思われるいじめを解決しなくちゃ」


 いじめというセンシティブな問題に踏み込む前に一先ず腹ごしらえをした。それからしばらくソファの上で適当にテレビでも点けてくつろぎ、彼女から話してくれるのを待った。


「あ、あの、外を歩きながら話してもいいですか?」

「うん、オッケー」


 黒羽の隣に座っていた琥珀は優しい声音で応じた。窓から外の風景を眺めていた陽玄も振り返りそれに頷いた。

 早速、着替えてきますと言って、パジャマ姿だった黒羽は十代の少女が着るのに似合いそうな白いワンピースに着替えて、肩にはショルダーバッグが掛けられていた。


「準備万端?」琥珀が問う。

「はい。お金もしっかり持ちました」


 どうやら何かを買いに行くようだ。


「それじゃあ、行こっか」


 玄関口で靴を履き、外に出る。

 陽玄は久しぶりの白い光に目を細めつつ、心地の良い風に身を預けながら歩いた。黒羽の行く先はどうやら商店街のある駅前のようだ。昨夜、彼女を背負いながら通った線路沿いの道を歩いていく。


「何買いに行くの?」琥珀が訊ねる。

「学校に履いていくローファーを買いに……」


 言葉一つ一つに元気はなく、彼女は少しの間を置いた後、言葉を付け加えた。


「この前、帰ろうと思ったら下駄箱に靴がなくて、それで……」

「隠されたの?」


 琥珀の声音は柔和だが、表情は鋭い。そんなことをした人間に怒っているようだ。


「はい……。けど、ゴミ箱とか、花壇とか、池とか、色々探したんですけど、見つからなくて、その日は上履きで帰って、昨日も仕方なく上履きで……」

「……。他には……どんなことされたの?」

「……私の机には、毎日、死ねとか、消えろとか落書きがされていて、教科書とかノートはビリビリに破かれるから板書は写しても意味なくて、お昼になったら、お弁当の中身をゴミ箱に捨てられて、ひどい時はトイレに連れて行かれて、頭から水をかけられて……」


 想像を絶するほどの酷さに唖然とする。聞いている側が苦しくなる内容に返す言葉が見つからない。


「そのいじめ、いつから続いているの?」

「入学して一か月経った頃から」


 ということはこの子は五月から今まで、四か月間もの間、このいじめに耐えてきたということなのか。陽玄も父の容赦ない鍛錬に耐えてきたが、それとこれとは訳が違う。陽玄とは違い、彼女が耐えてきたのは悪意のある苦痛だ。


「誰かに相談は?」

「先生は、たぶん気付いているのに気づいてないふりしてる。お母さんには……言えなかった……」

「いじめてくる子にはやめてって言った?」

「最初は言っていたけど、抵抗するともっと過激になっていくから、もう何も言いたくなくて……」


 彼女の心は明らかに疲れ切っていた。抵抗する気力を失い、されるがままの学校生活に行ったところで彼女の身に残るものは、つらい記憶と痛い思いをするだけだ。それでも彼女が学校に行く理由が陽玄には分からなかった。


「どうしてそんなに頑張れるんだ? 行けばいじめられるって分かるのに」陽玄は問いかける。

「……負けたくないんです。だって、行かなかったら私の人生はもっとぐちゃぐちゃになる。だから私も、お母さんみたいに強い人間になりたいんです」


 心の限界はとうに越えているだろうに、母親の存在が彼女をそうさせるのか。

 琥珀がそれに言葉を返す。


「でも、それはもう耐えられていないよ。君の心の受け皿にはひびが入っている。順応と矯正は違うの。嫌なのに無理やり強行したら心は擦り減るし、何も言わなかったら後は好き勝手に壊されるだけだよ。このまま心の受け皿まで壊れたら、心の抑止は衝動を抑えられなくなる」


 少しの沈黙の後、黒羽が口を開いた。


「じゃあ、どうしたらいいんですか? 逃げればいいんですか? 抗えばいじめはなくなるんですか? ……私は何のために、今まで頑張って学校に行っていたんですか?」


 これまで琥珀が掛けた言葉に頷いてきた黒羽だったが、それだけは納得できなかったようだ。琥珀が言っていることも正しいが、逃げたところでデメリットを負うのはいじめられた側だ。学校に行けなくなって、その先の未来が壊される。不幸を背負うのはなぜか被害者だ。そして、抗ってもいじめはなくならないことを彼女は既に知ってしまっている。周囲の人間に相談したところで無駄だと諦めてしまっている。だから彼女が行きついた先はロボットのように感情を捨て、その環境に無理やり身を置くことでこれが普通であると身体に覚え込ませることだったのだろう。

 だが現に彼女は苦しんでいる。


「でも君の心は壊されている」


 結果、それに尽きる。

 彼女の本心は逃げ出したくてたまらないはずなのに、それを良しとしない自分がいるのだろう。黒羽はバッグの紐を握りしめたまま何も答えない。長い髪が時折吹く風で穏やかに揺れて、髪と髪の隙間から彼女の横顔が一瞬だけ見えた。その姿は見ていてつらかった。今にも泣き出しそうで、でも必死に堪えていて、薄紅色の唇をきつくきつく噛みしめていた。

 耐えて耐えて、それがふと切れて、おそらくその時、琥珀の言う心の受け皿にひびが入って、母親にきつく当たってしまったのだろう。それが原因で母親が自殺したのかは分からないが、最悪な結末を招いてしまった。

 琥珀はそっと黒羽の肩に手を回して、自分の方に彼女を寄せる。


「……君の気持ちも理解できる。けど、耐えることだけが強さではないことを心の何処かに留めておいてね」


 黒羽は小さく頷いた。


「最後に一つだけ質問するね。いじめられたきっかけは何か、心当たりある?」

「たぶん、私が告白してきた男の子を振ったから。それで振った男の子を好きだった子から嫌がらせが始まった」

「そう。勇気出して打ち明けてくれてありがとね。何とかしていじめを解決させるから。そしたらお母さんの悪夢も見なくなって何にも怯える必要なんてなくなるはずだから、一緒に頑張ろう」


 黒羽は頷きを返す。


「……君は一人じゃない。頼りないかもだけど、一応、僕も傍にいる」


 陽玄の方に視線を向けた黒羽の瞳は潤んでいた。


「頼りなくなんかないです」


 微笑むように表情を緩ませると目の縁に溜まった涙が頬を伝った。

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