インタールード③(命のやり取り)
逢魔が時。
駅へと続く道は舗装が剥がれていて、雨が滝のように降り付ける中、等間隔に置かれた街灯が辺りを鈍く光らせる。フードを下ろした琥珀は鋭い眼光で男を睨みつけた。雨で濡れてもなおピシッとした背広姿の男は、黒縁眼鏡とマスクを身に着け――。
「隠しても無駄だってことは分かっているんでしょう」
張り詰めた一声で言うと皮手袋をはめた右手には、二十センチ定規くらいの鋭く尖った鋼鉄製のピックが握られていた。
「まさか、千幸の友人に姿を暴かれるとは……苦行だな」
「やっと見つけた。連続殺人犯。その凶器が何よりもの証」
「だから何だ。この行為は必要悪だ。娘のためにやらないと娘が死ぬ。でもちょうどいい。そちらから来てくれるなら物色する手間が省ける。それに、見られたからには殺さなくちゃならない。悪いけど、君は千幸のために死んでもらう」
硬直した口調。男はマスクを取り外し、打って変わって強気な姿勢を見せる。今の彼には父親としての優しい面影はなく、そこにあるのは鋭い敵意と殺意だけだった。睨みつけるその目は獲物を捕らえようとする狩りの目に近く、まさしく今目の前にいる男は人ではなく殺人鬼であった。
「どんな事情があろうと無関係の人間を殺すなんて決してやっちゃいけないことだ。だから今あたしはここにいる。貴方の罪は消えないけど魔力だけは消してやる」
「殺してやる」
アスファルトの地面にコンっと甲高い音が鳴った、手に持っていたアイスピックを勢いよく振り払ったことで錐を納める鞘が空中へと飛んで行ったのだ。と同時にぶわりと悍ましいほどの魔力が溢れ出る。どうやらその鞘は魔力を閉じこめる作用があるらしい。何人もの心臓を穿き射止めた魔的のニードルは、雨の匂いにも負けない異様な雰囲気を醸し出していた。
男が雨で濡れたコンクリートを全速力で走る。
「残念だけどあたしは千幸ちゃんのためには死ねない」
臆することなく意気込めば、右手に灯る一筋の光は刀を模様し、琥珀の手には日本刀が具現化される。
男が彼女の胸元にアイスピックを突き刺そうとした瞬間、バチンと電撃のような刀の衝撃波がその凶器を弾いた。
だが、男は思っていた以上にグリップを強く握りしめていて、弾くことはできても弾き飛ばすまでには至らない。
琥珀はそのまま濡れた地面を滑りながら軽やかに男の背後に滑り込む。その素早い身のこなしに千幸の父親は反応すらできない。
隙を付いた。
勝敗はこの時一瞬で決するはずだった。――が、琥珀は硬直したように突き刺す刀をぴたりと止めた。その瞬間、背後を取られた男は咄嗟に距離を取る。
「お前、何者だ」
凛然とした刀を確認した男は困惑したような口調で問うた。
「……逆に問うけど、貴方は何者? 魔術師?」
「魔術師……? そんな詐欺師みたいな輩と一緒にするな。私は千幸の父親だ」
「そう……」
琥珀が抱いた違和感。素人臭い、戦い慣れていないような身のこなし。反射神経も人並み。何よりその手に持っている凶器は禍々しい魔を含んでいるというのに、所持者からはその魔力が全く持って感じ取れない。
切っ先が小刻みにブレる。
あの瞬間、この刀を刺していたら殺していたかもしれないという事実に、琥珀は刀を微かに震わせた。
即ち、彼女は戦い慣れてはいるものの、殺すことには慣れていない。
刀が雨粒を弾きながら弧を描く。
だが男は身体を横へとずらして躱す。
(素早い? いや、問題はあたし……)
いかに万能な魔法を用いる魔女であろうと中身はそこらにいる普通の女子高生と何ら変わらない。即ち、普通の人間だ。殺したことがない、殺す覚悟がない者は、殺す覚悟を持った者には遠く及ばない。
琥珀は続けざまに刀を振るうも空を切る。
(やっぱりあの瞬間、躊躇わずにやるべきだった)
故に彼女の斬撃はどれもキレがない。対する男に躊躇う気持ちはない。何人もの人間を殺めた者はとうにその覚悟ができている。
「いいよな、健康的に生まれた人間は――っ!」
隙を付かれたのは琥珀だった。
男が彼女に急接近する。
極細の刃が彼女の心臓を目掛けて突撃する。一点だけを狙う迷いのない一閃はまさに閃光。
それは闇に穴を開けるかの如く突進してくる渾身の一撃だった。それでも急所を射止めに行った一撃は彼女の心臓を捉えることはできない。
彼女は刀の側面を巧みに使って防ぎきる。束の間、そのまま勢いよく切っ先を振り上げた。男は反射的に後ろへと下がったが、その切っ先は男の頬を掠めた。
つうっと男の左頬から血が流れる。
危機感から何も考えず刀を振り抜いた琥珀だったが、彼女は依然本領を発揮できないでいた。モノではなくヒト。相手がどんな極悪人でどんなに人を殺めようと人であることには変わらない。指を斬られれば悶絶するぐらい痛いだろう。心臓ではなくどこか違う箇所を貫けば間違いなく致命傷となる。
だが琥珀自身も分かっている。戦いにおいて情けは禁物であることを――。
男は魘されるように雨で濡れた髪を掻き上げた。
「ああ、ああ、ああっ、早く死んでくれないか? 千幸は今も病気と闘っているんだ。一人で頑張って頑張って一生懸命生きようとしてるんだ。その手助けをして何が悪い。娘が一体何をしたって言うんだ。そこらへんにいる子どもと変わらず生まれてきただけなのに、どうして娘だけがこんな苦しくて辛い目に遭わなきゃならないんだ。本当はこんなはずじゃなかったんだ。もっと楽しいこと、嬉しいこと、他の子よりも味合わせてやるんだ。それなのにどうして、どうしてなんだよ、おい? 苦しませるために妻はこの子を産んだんじゃない。幸せにするために、幸せになるために産んだんだ。だから私が必ず娘を幸せにさせるっ!」
男は刃先を琥珀に向けて感情を爆発させた。
「その幸せは間違ってる。他人の命を犠牲にして強引に成り立たせている命なんてただの仮初でしかない。そんなもの、どんなに命があったって足りない。貴方も娘も破綻する」
琥珀は父親の言い分を冷静に否定した。
「黙れっ。部外者に私の苦しみが分かるのか? 仮初だと、それでもいいじゃないかっ! 生きていることには変わらない。笑って元気な姿を見せてくれる。それでいいじゃないかっ! 娘には生きる価値がある。それで十分だ。だから早く、お前の命をよこせっ!」
男の猛進が始まった。
琥珀はその姿を冷静な眼差しで見据えながら覚悟を決めるために心の中を整理する。
(本当は千幸ちゃんのところにも、戦乙女がやってきてくれればとか、もしかしたらどこかにどんな病でも治せる魔術師がいるんじゃないかって思ったけど……遍く宇宙において死は平等なんだ。いかなる叡智の道具があろうと死は覆らない)
琥珀は深呼吸をした。
(心臓と凶器は別。なら……)
男が果敢に距離を詰める。針に糸を通すかのように刃先を突いてくる。乱撃してくる一点一点は夜空に輝く数多の星粒を描いているよう。その星粒は夜を駆ける流れ星のように琥珀の懐へと流れゆく。だがそれを凌駕する程の流麗な脚運びで彼女は全ての攻撃を流れるように躱していく。
それでも男は果敢に心臓だけを狙って凶器を振るう。
だがどの攻撃も彼女の心臓には届かない。何度も何度も振るうが、彼女は無駄のない動きで容易く回避する。
「っ。はあ、はあ、はあ」
男は息を切らしてもなお、闇雲に凶器を振るい続ける。呼吸は乱れ、体幹は崩れ、けれど必死に追い縋ってくる。
「……」
琥珀は無言のまま無表情のまま、もうこれ以上は不毛だと、刀を振り上げた。男がかけていた眼鏡の縁が砕き飛ばされる。
あしらうような彼女の身のこなしに怒り狂った男が発狂する。
「アアアアアっ!」
怒り任せの繽粉たる一閃。その一閃の尖鋭は心臓を狙っているようだが、視力のせいか、無作為な一手に終わる。背を反らした琥珀が無心となって刀を振り抜いた。
身を全て預けた諸刃の一閃は、振り上げられた刀に弾かれ、残像のような斬撃が手の健を裂いた。
男はカランと握っていた短刀を落とす。痛みに堪えるように唸り声を上げた。
「おまえええっ! ふざけ、んなぁぁぁ!」
激情する。裂かれた革手袋の切れ目から血がぽたぽたと滴り落ちていく。
「もう終わりです」
「終わり? 終わらせられるわけないだろっ! 救える方法があるのに、見殺しにするなんて、できるわけないだろっ!」
男は負傷した右手に代わって落としたアイスピックを左手に持ち直した。
「貴方がやっていることは自己満足です」
「なん、だと」
「娘さんはきっと他人の命を奪ってまで生きたいとは思っていない」
「お前に何が分かるんだ。勝手に娘の気持ちを代弁するなっ!」
「なら伝えて確かめればいい。その飴は薬ではなく、他人の命だと」
「っ――」
「本当は分かっているはずです。娘さんに本当のことを伝えれば罪の意識に苛まれることを」
「黙れ」
男の握られた刃物が小刻みに震えだす。力が込められた柄がミシミシと軋んでいく。
「言ったはずです。こんなこと一生続くわけないと。真実を知った時、どちらも破綻するって」
「黙れ、黙れ、黙れ…………ダマレヨっ」
狂乱し怒りの叫び声を上げた男は、血を垂れ流す右手をぶらつかせ激走した。理性を欠いた姿は誰かが止めない限り暴走し続ける壊れた機械のようである。
何を言っても無駄だと知った琥珀は至って冷静沈着だった。心は既に決まっていて、琥珀色の瞳は心臓だけを見定めている。中心よりやや左の胸部に一点。刀を持った右手を後ろに引き、逆手に構えた刀を、切っ先ではなく柄を、接近する男の心臓に向け――。
「どうかこの男に切り捨てられる強い覚悟を!」
打ち合う形で琥珀の間合いに入ってきた男の胸に、彼女は神速たる柄の先端を押しこんだ。
「ぐっ、ふ」
男の膝ががくんと崩れ落ちる。真っ直ぐに最短距離を突き抜いた重たい一撃に胸を押さえて藻掻き苦しむ。
「どうか、娘さんの最期を、見届けてあげてください」
琥珀は具現化させた刀を解除し、冷たく呟いた。
「ああ、ああああああっ!」
乾ききった掠れ声。意識を取り戻した男が頭を掻き毟りながら発狂する。手に持っていた凶器のアイスピックはいつのまにか闇に溶け込んだように消失していた。
琥珀は錯乱した男の様子を見て唇を噛みしめるが、同情はしない。生きている以上、必ず死は訪れる。それが生まれ落ちた生命の運命であり、逃れることのできない死に対して目を逸らさず向き合える強さが、この男にもあると信じたい。
雨の騒騒しさの中。
琥珀は泣き崩れる男の横を通り過ぎ、その場を立ち去った。




