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天命の巫女姫  作者: たけのこ
2章 禁断の飴玉
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2―11 訪問②

「ただいま、千幸。今、晩ご飯準備――」


 仕事から帰ってきたのだろう千幸の父親は、黒い背広に黒いネクタイ、黒縁眼鏡を掛けている。

 陽玄を見た瞬間、父親の表情は一瞬で強張った。


「なんで、お前がうちにいるっ! 娘から離れろ!」


 怒鳴り散らした父親の手が陽玄の胸倉を掴む。陽玄は無防備のままぶん殴られた。座っていた椅子とともに陽玄は床に倒れ込む。

 ひりつく左頬を押さえたまま、陽玄はその場を動くことができない。弁明する余地もなく顔を上げることもできない。

 家に上がる時点で覚悟はしていたが、父親が怒るのも当たり前だ。昨日、偶然鉢合わせた赤の他人。そんな殆ど面識のない人間が愛娘と一緒に家にいたら誰だって驚くし、警戒するに決まっている。いや、どんな関係であろうと愛娘に近づく時点で駄目なものは駄目なのだろう。


「や、やめて、お父さんっ。お兄ちゃんは全部、千幸のためを思ってやってくれたの。だから怒らないで」


 張り詰めた空気の中、陽玄と父親の間に割って入った千幸は、怯えながら口を開いた。


「……すまん、大声上げて怖かったよな」


 自分の娘に怖い思いをさせてしまった千幸の父親は、冷静さを取り戻し、千幸の頭を優しく撫でる。


「どういう経緯で娘と一緒にいるのか、全部説明しろ」


 千幸を守るようにして抱きしめる手は優しいものの、陽玄に向けられる眼差しは鋭く険しい。


「……偶々、珠川付近の高架下の公園を歩いていたら、一人ベンチに座っている娘さんが目に留まって、声を掛けたんです」

「千幸、本当か?」

「……うん」

「学校が終わったのなら寄り道せず家に帰らないと駄目だろ」

「……ごめんなさい」

「寂しかったみたいです。それで話を聞いているうちに夕方になってしまって、一人で帰らせるのは危ないと思って、家まで送ることにしたんです」

「……。娘の安全を気遣ってくれたことには感謝するが、家まで上がる必要はないだろ」

「娘さんに明日も会いたいと言われて、でも父親に言わずに会うのも駄目だと思って、今こうして父親の帰りを待っていたんです」

「……そうか」


 理由を打ち明けると父親は千幸に優しく話しかける。


「寂しい思いをしていたのに気づけなくて悪かったな」


 千幸は首を横に振る。


「……何か不安なことでもあるのか? あるなら相談に乗るぞ?」

「いい、いらない」


 父親の提案に千幸は素っ気ない態度で拒否する。千幸の父親は、はぁと疲れたようなため息を漏らして、陽玄に視線を向けた。


「すまない。訳も聞かずに先に手を出してしまって。その、立てるか?」


 千幸の父親が手を差し伸べる。


「平気です。一人で立てますから」


 陽玄はゆっくり立ち上がり、目の前の父親とその隣にぴたりとくっついた千幸を見据える。


「娘の面倒を見てくれてありがとう」

「はい」


 父親は倒れた椅子を戻し、脱いだジャケットを腰掛けに掛ける。


「今お茶を淹れるから適当に座っていてくれ」

「あ、はい」


 用件を伝えたら帰るつもりだったが、思っていたことを口に出すこともできず言われた通り椅子に座る。


「むぅー。なんで千幸がお茶淹れようとした時はいらないって言ったのに、お父さんの時はいるの?」


 そう問いかけた千幸は頬を膨らませ、不満げに口を尖らせている。その指摘に陽玄が戸惑っていると、父親が千幸の頭を軽く叩く。


「コラっ。困らせるようなこと言うんじゃないっ」

「だって、千幸もおもてなししたかったんだもん……」


 腑に落ちないと言った様子で千幸は不満を漏らした。父親はその言葉を軽く一蹴してキッチンへと向かう。千幸もその後をてこてこ追う。

 陽玄がふぅと安堵の溜息をついていると、トレイにお茶を載せた千幸がそろそろとやってきた。トレイの上に載せた三つのコップ。そのうちの一つは可愛らしい花柄の子ども用のコップだ。千幸は零さないように慎重に運び、向こう側の椅子に座った。


「お菓子はごはん前だから駄目だって……」


 少し残念そうに言って、千幸はお茶を出してくれた。


「ありがとう。そうだね、ご飯食べられなくなったら大変だもんね」

「食べられるもん……」


 意地を張る千幸の隣に父親は疲れたように腰を深々と下ろした。


「食べられないだろうが」


 その指摘に千幸はまたしても不満げな表情をする。


「麦茶でよかったか?」

「あ、はい。いただきます」


 冷たい麦茶を口にする。殴られたことを引きずっているわけではないが、叩かれた頬が口に含んだお茶によっていい感じに冷やされているような気がする。陽玄が一口、二口、お茶を口に含ませながらゆっくり飲んでいると、千幸もコップの取っ手に指を掛けてお茶を飲もうとする。


「千幸。飲む前に片付けなさい。ランドセルも下ろして」

「どうして?」

「零したら汚れちゃうだろ?」

「こぼさないもんっ」

「はあ、また意地を張って。いいから片付けなさい」


 父親が少し語気を強めると、千幸は大人しく言うことを聞く。使った筆記用具や教材をランドセルにしまい、言われた通り、床にランドセルを下ろす。父親には従順な子なのかと思っていたが、父親が帰って来てからは少し反抗的というか我儘というか、おそらく父親に構ってもらいたいのだろう。


「片付けたよ。飲んでいい?」

「ああ、いいよ」


 父親の了承を得て、千幸もお茶を口にする。


「私の名前は雛形信之。……君の名前を伺ってもいいか?」


 父親は一口お茶を飲んだ後、柔和な口調で陽玄に訊ねた。


「剣崎陽玄です」


 名前を聞くと父親は千幸の方に視線を落とす。


「千幸、剣崎君と遊びたいのか?」

「うん。あと、こはくお姉ちゃんとも」

「それはあの金髪の女性のことか?」

「うん。一緒に遊びたい」


 縋るような瞳でおねだりする千幸。


「……わかったよ」

「やった! お父さん、大好き!」


 千幸は嬉しそうに頬を綻ばして父親の胸に抱き着いた。千幸と意思の確認をした父親は、彼女の手を解いて陽玄に視線を戻した。


「剣崎君。……殴っておきながらお願いするのも筋違いだと思うが、これからも千幸と一緒に遊んでくれると助かる」

「はい」

「ありがとう。……それとその、剣崎君は金髪の女性の知人なんだろう? もし今度会ったら、この前の無礼を謝ってくれるとありがたい」


 父親は頭を下げてお願いする。


「はい。伝えておきます」

「ああ、ありがとう」


 顔を上げた父親は少し頬を緩ませる。

 けれど陽玄は少し心配になった。眼鏡越しに映る目の隈や少しこけた頬は、母親のいない一人娘を一人前に育てていくことの難しさを物語っているように見えたから。

 陽玄は初めて会った時の印象のまま、短絡的な人間だと思っていたが、今こうして向かい合うと、その思い込みや偏見は消えていた。そして少し羨ましかった。こんなにも親というものは、自分を削ってでも我が子に対して愛情を捧げられるものなのかと。


「一つ質問してもいいですか?」


 知らず口が開いていた。


「? ああ。私が答えられる質問であれば」

「親にとって子は何なんですかね?」


 親である立場にしか答えられない質問を陽玄は問いかけた。


「幸福と希望……わがままな時もあるし、世話もかかるけど、ただいるだけで幸せを振りまいてくれる。私はこの子に生かされているんだ」


 戸惑うことなく答えた千幸の父親は、隣で静かに話を聞いていた千幸の頭を優しく撫でる。撫でられた千幸は嬉しそうに微笑んだ。


「……(子が親を生かす……自分も親になれば分かるのだろうか)」

「どうかしたか?」

「いえ、何でもないです。そろそろ僕はこのあたりで失礼します」


 陽玄は椅子を引いて、立ち上がる。それと同時に千幸の父親も立ち上がった。


「気を付けて帰るんだよ。何かと最近物騒だからね」


 そう告げた父親は何とも浮かない表情をしていた。それもそうだ。働いている間、自分の大切な我が子が無事家に帰られたかどうか、自分が家に帰るまで分からないのだから。そんな父親の不安や心配に拍車をかけているのは、間違いなくここ数か月もの期間に街を襲っている殺人鬼の存在だろう。


「その、もし良かったら、千幸ちゃんを学校から家まで送りましょうか?」


 なんでだろう。自分でも分からない。面倒なことになるのは分かっているのに知らず提案していた。その提案に千幸の父親は一瞬、固まった。


「……。いいのか? けど下校時間は十四時頃だぞ。君も学校があるだろう?」

「大丈夫です。僕の学生時代は中学で終わっていますから」

「……家業でも継ぐのか?」

「まあ、そんなところです」

「そうか……。色々あるんだな。でも本当にいいのか?」

「はい。僕で良ければ」


 その返答に父親は一瞬つらそうな表情を見せた後、再び頭を下げた。


「……千幸をよろしくお願いします」


 言って父親は顔を上げた。だが、その顔は依然何とも言えない複雑な表情をしていて、不安の大元は拭いきれていないようだった。

 陽玄はそのまま玄関口まで見送られる。


「お兄ちゃん。ばいばい!」

「うん。明日、学校の校門前で待ってるから」


 陽玄は別れ際、約束をした。


「うんっ! ばいばいっ!」


 父親の隣で元気よく手を振る千幸に頷きを返して、陽玄は家のドアを開いた。初対面の時に比べてずいぶんと仲を深めることができたことに少しだけ嬉しかった。



 夜陰に沈んだ雑草の道を歩く。

 夏の余韻がまだ残る夜の空気は生暖かくて、時折吹く風はあまり心地よくはない。曖昧な道を辿る。光ある道を目指して歩く。これではまるで帰り道を無くした子どもみたいだ。とにかく踏み固められた雑草の道を歩いていると、見覚えのある道に出た。人通りのない道。薄明りの怪しげな道。等間隔に置かれた街灯が危うく消えかけている。陽玄は塗装が剥がれた道を歩いて、駅へと向かった。

 三十分近くかけて駅に辿り着いた陽玄だったが、お金を持っていない陽玄が電車に乗れるわけもなく移動手段は自分の足だ。

 琥珀と別れるとき、お金をもらっておけばよかったなと後悔しつつも、若干の運動不足であるこの身体を解消させるには良い機会だと陽玄は淡々と路を歩いた。

 それから陽玄が館に着いたのは一時間半後。夜の二十一時過ぎ。けれど琥珀はまだ帰って来ていなかった。一人勝手に食事を済ませるわけにもいかず、陽玄は寝支度を整えた後、部屋のベッドで横になりながら、玄関のドアが開く音をひたすらに待っていた。

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