2―7 傷に恥を、傷に誇りを
九月六日。
月曜日。
朝の六時前に起きた陽玄は居間に向かう。
電気を付けて、カーテンを開ける。
木漏れ日が陽玄の顔を明るく照らし、入浴以外肌身離さず首にかけているコハクのペンダントが眩く煌めく。
洗面所に向かった。
顔を洗い、タオルで顔を拭いた後、左肩の傷痕を見た。
(もう大丈夫そうだな)
昨日、荷物を持ち上げた時も傷が疼くこともなかったし、どうやら傷口は完全に塞がっているようだ。
(後で、抜糸しないと、な)
そう思いながら洗面台に置かれたコップと歯ブラシに目を向ける。それは昨日、琥珀と出掛けた時に買ってもらった陽玄用のものだ。
歯を磨いて、一通りの身支度を整えた後、彼女が起きてくるまでの間、洗濯物を畳んだり、部屋の掃除をする。住まわせてもらっている以上、できることは何でもやるスタンスである。
「おはよー、相変わらず早いね」
動物の絵柄(犬)が描かれたパジャマを着た琥珀は、ふぁ~、と欠伸をしながら二階から降りてきて、その足で洗面所に向かった。
陽玄は壁に立て掛けられている柱時計に目をやる。
時刻は午前九時半すぎ。
あれから何だかんだ、三時間以上も経っていた。
洗面所から戻ってきた彼女の目はしゃっきりしていて、寝ぐせの付いた髪はブラシで綺麗に整えられていた。
「あれ? 刀なんか持ってどうしたの?」
「え?」
言われて、ハッと気づく。
とうに掃除も終えて暇を持て余していた陽玄は、無意識に部屋に放置していた刀の手入れをしていた。
(……本当だ、何でこんなこと、もう振らなくてもいいはずなのに……)
刀を黒い鞘に収め、その鞘を竹刀袋にしまう。
すぐさま陽玄は立ち上がり、刀を置きに二階の部屋に向かった。
戻ってくると、丸テーブルには菓子パンや惣菜パンが置かれていて、琥珀はキッチンでお茶を沸かしていた。
陽玄は三人掛けのソファに腰を下ろす。本当、何でだろう、自分でも分からない。遠ざけていても、彼女の家の部屋であろうが、なぜか刀は自分の傍にあって……。
考え込んでいると、ティーポットとティーカップを乗せたトレイを運んできた彼女が向かいのソファに腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
琥珀は煎じたお茶をティーカップに注ぎ、陽玄に渡す。
「ありがとう」
受け取って一口啜った。
屋敷の時は湯呑であったため、この取っ手のあるコップでお茶を飲むのはやっぱり慣れない。そして熱い。
「さっきの刀は君のものなんだよね」
「はい。三十七刀目の刀です」
「三十七?」
「月に数回、真剣同士で稽古するので、初めの頃は刀の使い方が下手くそで、すぐに刃こぼれして駄目にしてしまったんです。でもだんだん扱い方も慣れてきて、壊す回数も減ってきて……」
陽玄はコップに揺蕩うお茶を見つめながら話した。嫌な記憶の方が断然多いけれど、刀は自分の人生そのもので、自分の存在意義を示してくれるものであることには変わらない。
「だから稽古は嫌いでも、この刀は大切にしないといけない気がしたんだ」
「そっか」
浮かんだ言葉を優しく受け止めてくれる琥珀は、ティーカップのお茶にふぅーと息を吹きかけてから口をつけた。
「その、傷の具合は大丈夫なんですか?」
「え? ああ、うん。もう何ともないよ」
ティーカップをテーブルに置いた琥珀は、若干、前かがみになって、パジャマの首回りを指でめくった。ちらりと見える谷間と肩紐。無防備に肩をさらけ出してきて、不覚にもドキッとしてしまう。
「ほら、綺麗に治っているでしょ」
「あ、ああ。傷が残らなくてよかった」
一瞬だけ見てすぐに目を逸らした。
撃たれた左肩の傷跡は一切残っておらず、今更ながらホッとした。とは言え、予想外の行為に心臓はまだどぎまぎしている。
陽玄の心情とは裏腹にぼすんと座り直した琥珀は、「いただきまーす」と呑気な声を出して、メロンパンをぱくりと食べた。
陽玄も適当にパンを見繕って食べる。そうして彼女がメロンパンを平らげ、お茶を一口、二口啜った後、陽玄は問いかけた。
「……巫さん、その、ピンセットと小さなハサミってありますか?」
「んー、ピンセットはたぶん救急箱の中にあると思うけど、小さなハサミは……普通のハサミじゃ駄目なの? というか何に使うの?」
「……えーっと」
当然の疑問である。何かに使うのに理由がないなんておかしな話だ。
陽玄が返答に困っている間、琥珀はティッシュで口元を拭う。
変に気を遣われたくなくて怪我のことを隠していた陽玄は、中々言えずにどうしたものかと考えを巡らす。だが彼女にはごまかしが通じないことを陽玄は薄々感じていた。適当なことを言ったところですぐに見抜かれ、怒られるのがオチだからだ。
彼女と目が合う。
「?」小首を傾げながら返答を待っているようだった。
「その、抜糸をするためにピンセットとハサミが必要なんです」
聞いた琥珀は眉を顰め、じーっと陽玄を睨んだ。
「なに? 怪我でもしてるの?」
「いや、もう、治ってるから……」
ソファから立ち上がった琥珀は、陽玄の声を差し置いて詰め寄ってくる。
「ほ、本当、大丈夫だから……」
「いいから脱いで見せて。あたしがやってあげる」
陽玄は、はぁ、と小さく溜息をついた。
仕方なくシャツの首回りに指をかけてがばっと脱いだ。
「……」
怪我を隠していたことに怒られると思っていたが、琥珀は言葉を失ったまま陽玄の身体を見つめていた。
自分でも身体は鍛え抜かれている方で弱々しい印象は見られないと自負しているが、やっぱり気になるのはこの無数の傷跡だろう。
「この傷、痛くないの」
琥珀は恐る恐る口にする。
視線を落とし、斬られた傷跡を見る。スパッと綺麗な太刀筋で斬られた線の傷。傷のない箇所を探す方が難しく、傷は交差し合って網目模様みたくなっている。だからどの傷を見て言っているのか、分からないが、どれもこれも痛みはない。
「痛くない。ただ半端者だから傷の治りは普通の人に比べれば早いけど、傷跡は完全にはなくならないんだ」
「……」
琥珀は黙り込んだまま固まっている。
「気持ち悪いよな。だからあんまり見せたくなかったんだ」
陽玄は恥じ入るように言って、左肩から左脇にかけて斬られた縫合箇所を右手でさすりながら傷全体を隠す。
「その、抜糸ぐらい自分でできるから、この際普通のハサミでも何でもいいから用意できたら僕の部屋に持って来てくれると助かる」
言って陽玄はシャツを着ながら立ち上がり、部屋に戻ろうと階段に向かう。その時、「待って」琥珀の声に陽玄は振り返った。
「気持ち悪くなんかないよ。その傷は努力の証だよ」
「……違うよ、巫さん。この傷はまやかしだ。傷を負う度、恥だと思えと罵られ、それを戒めに稽古に励めと檄を飛ばされた。弱いままだから痛みを刻まれ思い知らされる。……父さんは言った。努力は結果に繋がらなければ何の意味もないと。結果が伴わない努力は努力とは呼ばないんだ」
琥珀は無言のまま、何故だか悔しそうに浅く唇を噛み締めながら聞いていた。
「じゃあ、僕は行くから」
陽玄は彼女の気分を損なわせてしまったことに耐えきれずそのまま二階へと上がった。
ベッドに腰を下ろして机に置いてある刀をぼんやり見つめていると、すぐに扉がノックされた。
ドアを開くと、琥珀が片手に救急箱を持っていた。けれど彼女の表情はむっとしていて不満気な様子だ。
何がそんなに不満なのか、陽玄には分からない。気まずくてとりあえず持って来てくれたことに礼を言う。
「ありがとう」
救急箱を渡して立ち去る、わけもなく、琥珀はずかずかと部屋に入ってきた。
「だから自分でできるって」
「いいから、ベッドに座りな。話したいこともあるから」
若干怒っているような声音で言われて、陽玄はやむ無く座る。その後、琥珀も同じようにベッドに座り、陽玄の左斜め横に位置を移した。
「脱いで」
「……」
「早く」
急かされて仕方なく陽玄はシャツを脱いだ。
琥珀は救急箱からピンセットと、医療用ではないが小さなハサミを取り出した。
「大人しくしててね」
琥珀に言われて、陽玄は軽く頷いた。彼女は膝立ちしながらおぼつかない手つきで処置していく。だけど彼女は丁寧だった。十センチほどの縫合跡。皮膚と皮膚を縫合している糸の端をピンセットでつまみ、ハサミで切った。そしてゆっくりと糸を引っ張って抜いていく。
「はい、終わったよ。傷はちゃんと塞がっているみたいだね」
「……ありがとう」
礼を言ってシャツを着た。
琥珀はピンセットとハサミもついでに救急箱にしまうと、陽玄の隣に座る位置をずらした。
少しの空白。
僅かな気まずさを伴った空気感の中、彼女は静かな声で諭すように口を開いた。
「……君はさ、頑張ってきたって、自分でそう言っていたじゃんか。……駄目だよ。頑張ってきたことを、やってきたことを全部否定しちゃ。何もなかった、なんてそれこそ嘘だよ」
陽玄は行き場を失った手をいじりながら琥珀の言葉を受けて、言葉を返す。
「でも必死に頑張ってきたつもりだったけど、分かったことは自分には才がなかったということだけだったんだ。本当にそれだけなんだ」
結局はそれに尽きる。
結果が出なければ何の意味もない。
努力することに意味があると言うのは、単なる成功者による人生論であろう。
「……あたし、君の裸見て、すごい逞しい体つきしてるなぁって思った」
何を言い出すかと思いきや、聞いているこっちが気恥ずかしくなることを、よくもまぁ、真剣な顔して言える。
「さっきだって、刃こぼれしてすぐ駄目にするって言っていたけど、今は昔より刀を上手に扱えるようになって、そうじゃなくなってきたんでしょ?」
言われて陽玄は机の上に置いた刀に目を向ける。
「……」
琥珀は何でこんなにも自分のことを肯定してくるのだろうか。多分、自分がこんなにもネガティブだからポジティブになるしかないのだろう。なんてどうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。けれど、彼女が問いかけてきたことを否定する言葉は思い浮かばなかった。
「君は努力してるよ。ただ望む結果が出ていないから自信がないだけ。君の悔しさは努力もせずに結果を求めて何も得られなかった者が抱く後悔とは違うし、君の嘆きは努力せず運よく出た結果よりもずっと価値の高いものだ。……仮に自分に才がないと努力をしてみて感じても、君の中には確かな経験が残っているはずだよ。あたしはそんな君を誇りに思うから、君は胸を張って生きな」
「…………」
傷に恥を。
傷に誇りを。
纏いつく父の言葉が琥珀の言葉で優しく解されていくのが分かる。
傷はいつまで経っても開花しない弱い自分を示す刻印でもあるが、裏を返せば、傷の数は陽玄が諦めずに挑んだ回数であり、痛みにのたうち回ろうとも負けずに立ち向かった勲章なのだと。
「……ありがとう」
弱音を振り払って、背筋を伸ばす。誇りに思ってくれる彼女のためにもこれ以上、くよくよしてはいられない。
傷は癒えるものだ。その出来事も過去のものとして受け止めなくてはならない。
「いいよ、別に。また君が下を向いた時はあたしが何度も励ましてあげるから」
そう言って琥珀はいつもみたく微笑んで、ベッドから立ち上がった。
「よしっ。それじゃあ、そろそろ出掛ける準備しよっか。まずは第七被害者の殺害現場である珠川河川敷ね」
その場所は、連続通り魔事件の犯人が行脚していた河川区域である。




