2―6 お出掛け②
「だ、大丈夫? 迷子かな」
できるだけ怖がらせないようにしゃがみ込んで目線を合わせながら話しかけた。女の子は泣き止んでくれたが、不審者でも見るかのような目で口を開いた。
「迷子なんかじゃないもん」
「でも泣いてたし」
「泣いてなんかないしっ!」
「じゃあ、なんで階段の隅で蹲ってるの?」
「っ、ぅぅ」
少女は大きな手編みの帽子を深く被りながら顔を隠して呻く。せっかく泣き止んだのに泣かせてしまっては元も子もない。
「ご、ごめん。謝るから泣かないでよ」
「泣いてなんかないしっ。どっかいってよ、もうっ」
参った。どうやら完全に嫌われてしまったようだ。かといって何かと物騒な事件が起きていることもあって、このまま放っておくわけにもいかない。とりあえず近くの従業員にでも声をかけて迷子センターで保護してもらおう。そう思った時、琥珀が駆け寄ってきた。
「遅いと思ったらこんなところで何やってんの?」
「いや、この子が迷子みたいで」
「迷子じゃないもん、うわあああん」
「もう、ヨーゲン君、小さい子泣かせたら駄目でしょ」
「ち、違、わないけどさ……」
泣かせたのは事実だけど、迷子という状況もまた事実である。
「大丈夫だから泣かないで。よしよし」
怖がらせないための配慮だろう、パーカーのフードを取った琥珀は、手編み帽子の少女を優しく撫でる。
「お父さんと、はぐれちゃった……」
「なんだ、やっぱり迷子じゃないか」
手編み帽子の少女が涙ぐみながら陽玄を見た。
「ヨーゲン君っ」次いで琥珀の怒った目が陽玄に向けられた。
「分かったよ……」
「あのね、お父さんトイレ行ってくる、って言ってね」
少女はグレーのセーターの袖で涙を拭きながら小さな声で話し始めた。
「うん」琥珀が頷く。
「でね、待っている間にランドセル一人で見に行ったら、はぐれちゃった」
「そっか、でもすぐ会えるから大丈夫だよ。お姉ちゃんと一緒にお父さんが戻ってくるの待ってようね」
「……うん」
泣き止んでくれて良かったが、自分と彼女でずいぶんと態度が違い過ぎないか。
「巫さん、待っても来なかったらどうするんですか?」
「とりあえず現場に戻ってくる可能性が高いだろうし、少しだけ待ってみるよ。それでも来なかったら係員に引き渡して館内放送でもしてもらおう」
言うと琥珀はしゃがみ込んで、迷子の少女に訊ねる。
「あたし、琥珀って名前なんだけど、名前、聞いてもいいかな?」
「ちゆき(千幸)」
「千幸ちゃんは、今日お父さんと来たの? お母さんは?」
「お母さん……お母さんは死んじゃって、もういない。お父さんだけ……」
しょんぼりしながら話す千幸に琥珀は優しく頭を撫でる。
「そっか。……うん、お父さんはどんな格好してる?」琥珀は父親の身体的特徴を尋ねる。
「黒いスーツ着てて、メガネかけてる」
「教えてくれてありがと」
保護者を探す手掛かりになることを聞き出した琥珀は、立ち上がって周囲を見渡す。陽玄も同じく眼鏡を掛けた黒いスーツの男を捜す。
見つかるまで時間がかかると思ったが、少し見渡すとすぐに分かった。
「巫さん、あの人じゃ?」
「うん、それっぽいね」
背広姿の黒縁眼鏡を掛けた男が、人混みの中、急ぎ足で不安そうな顔をしながらキョロキョロと誰かを捜している。
「千幸ちゃん、もしかしてお父さんってあの人かな?」
琥珀は屈んで、父親と思しき男に指を差した。
「あ、うんっ! お父さんっー!」
不安そうだった千幸の顔は、みるみる明るくなり、元気な声で呼びかける。それに気づいた父親は人混みを掻き分けこちらに近づいてくる。
千幸は握っていた琥珀の手から離れて父親のもとへと駆け寄った。
「離れちゃ駄目だろっ! 心配したんだぞ」
「ごめんなさい……」
父親の胸に抱き着いた千幸は、不安からの安堵か涙を流しながら謝る。
そんな光景を陽玄はほっとしながら胸を撫で下ろした。琥珀も同じく「ああ、よかった」と心の声が漏れ出ていた。
千幸の父親は娘である彼女の手を握りながらこちらに向かってくる。お礼でも言われるのかと思っていたが、彼女の手を離した父親は琥珀の胸ぐらを掴んで怒り始めた。
「おい、娘に何した。なんで手を繋いでいた? 娘に触るなっ!」
手を繋いでいたことに怒る父親。突き飛ばされ、琥珀の体勢が大きくよろめいた。陽玄はそんな光景に普段は動かない頬の筋肉がぴくりと動いて、いつの間にか拳を握りしめていて、今自分は苛ついているのだと自覚した。
「申し訳ございません。大事な娘さんを手荒く扱ってしまったのなら謝ります」
琥珀は頭を下げて謝罪している。けれど陽玄は納得いかず頭を下げずに父親の顔をずっと見ていた。
「何見てんだ?」
「……ヨーゲン君、頭下げて」
ここで否定的な言葉を吐いて、変ないざこざを起こして琥珀に迷惑をかけるくらいなら潔く謝る方が得策なのだろう。仕方なく陽玄も頭を下げた。
「ち、ちがうよ。千幸からお姉ちゃんの手をつないだの。だから怒らないで、お父さん」
千幸は必死に誤解を解こうと父親の袖を引っ張る。
「……帰るぞ」
父親はそのまま何も言わず千幸の手を握りながら立ち去っていった。連れて行かれる千幸は最後にこちらに顔を向けて「ばいばい、お姉ちゃん」と言って手を振った。が陽玄の顔を見るなり、『あっかんべー』でもするように、己の顔を指差すようにした。
「はぁー、びっくりしたね!」
親子の姿が見えなくなると、琥珀は心情を陽玄に向けて吐露した。
「いくらなんでも父親のあの態度は横柄だった。礼の一つも言わないどころか、謝りもしない。非常識だ。巫さんのおかげで再会できたのに」
陽玄は父親の態度に納得がいかず、つい不満が漏れ出てしまった。
今どんな顔をしているのか、分からないが、そんな言葉を受けて、なぜか琥珀の口元には微かな笑みが湛えられていた。
「ありがとう、あたしのために怒ってくれて。でもよくよく考えてみれば、子どもを見失って不安でパニックに陥っている親からしたら、不審者が無理やり我が子の手を引いているように見えても仕方ないのかもね」
「でも、違ったんだ。謝るくらいはできるだろ」
「そうだね。でも、それだけ自分の子を大切にしているってことだから、いい父親だと、思うよ?」
冷静過ぎる着眼点。自分本位な目線ではなく他人本位の目線。いささか寛大過ぎないかと思うほどの心の広さである。
「……巫さんがそう思うならいいけど」
陽玄はぴたりと感情をリセットした。本人がもういいならもういいのだ。これ以上、不毛な言葉を交わす必要はいらないはずだ。
「じゃあほら、ショッピング再開しよ」
琥珀はフードを被り、歩き出した。陽玄も荷物を持ち上げて歩く。生活雑貨店に寄った後は、手当たり次第、生活に必要なものを購入した。
「よし、後はスーパーにでも寄って何か美味しいものでも買って帰ろう」
デパートの地下で夕食のおかずを買いにぶらぶら歩く。
「何食べたい?」
「別に……なんでもいい」
「そう」
会話はそれで途切れる。惣菜コーナーを歩いている最中、陽玄は足を止めた。
「ん? なんか食べたいものでもあった?」
「あ、いや、なんか貼ってあったから」
「あー、値引シールだね。そんなに気になる?」
「まあ、なんか自分みたいだなと思って。うん、僕はこんな風に割引シールが貼られた売れ残りの惣菜品みたいなものなんだ」
「どうしたの急に。別にいいじゃん、売れ残りでも。あたしはそれでも買うよ。ていうかそっちの方がお得感があってすごく嬉しいし」
言って琥珀は三割引きになったマカロニサラダをカゴに入れた。
「……」
「もうっ、自分をそんな卑下しない」
「だって僕に価値なんかない。自分のことを信じられない奴は棚に並ぶ価値すらない。下処理でゴミ箱に捨てられる使い物にすらならない存在なんだ」
「……。じゃあ、自分を信じられないならあたしのことを信じて」
「まだ出会って間もない君のことを信じるなんてできないよ。自分すら信じられないのに」
「だから、これからたくさん話すのっ。君はどんなご飯が好き? どんな服が自分に似合うと思う? 何をもらったら嬉しい? 何が欲しい? 何をしたい? 何のために生きたい? これからたくさん教えてもらって、あたしのことも知ってもらって、そしたらお互いのことたくさん知れる。それで、いつか君があたしのことを信じてくれたら君は自分のことを信じられるようになるよ」
「……どうして?」
「だって君が信じてくれたあたしが君のことを君よりも信じてる……はずだから。まあ、君の行い次第であたしの信頼も変わるってこと。……はい、暗いのおしまい。せっかくデパ地下に来たんだから食べたいもの買って帰ろ、ね?」
「……うん」
「何、食べたい?」
もう一度、訊かれたその問いに陽玄は答える。
――陽玄、晩ご飯、なに食べたい?
「ロールキャベツ、野菜がたくさん入ったの」
――好きだね。いいよ、たくさん作ってあげる。
誰の記憶だろうか。誰と話していたんだろうか。分からないけど、無性に食べたかった。食べたかったというよりはたぶんそう言うと喜んでくれるから、喜ぶ顔が見たかったんだと思う。
「いいね! ロールキャベツ。ちなみにあたしの好きなものはハンバーグ。覚えといてね」
「あ、ああ」
お互いの好物を買い終えてショッピングモールを後にする。最寄りの駅に着くと、空は薄っすらと星が見え始めていて、喧騒とした市街から離れた街は、明日が平日ということもあり人影は殆どなく、道路を走る車の音が静かに聞こえていた。
「今日、君とお出掛けをして何となくだけど、君のこと、少し知れた気がする」
「……そう」
「怒ることあるんだって」
「……」
「多分、あたしと君は似た者同士。自分に興味はなくても他人には興味がある。……ヨーゲン君は他人のためなら頑張れたり、怒れたりできる人間なんだよ」
「……。いや、巫さんと僕は多分少し違う」
「え、そうかな?」
「うん。僕はここに居ていいんだって自信が欲しかった。他人のために尽くせば、褒めてもらえる。認められて、生きている意味が生まれてくる。だから僕は父さんに褒めてもらいたくて刀を握り続けてきた。でもそれは単なる自己欲求なんだ。他人のために生きることで自分の欲求を満たそうとしていただけなんだ。多分、そこが巫さんと違う」
求める。欲する。期待する。
そういった心があるから自分を犠牲にして他人を優先し続けた結果、不満が溜まって、屋敷から逃げ出した。
それが巫琥珀という女性と出会って気付いた自分という存在。
「確かに、あたしは自分のことは二の次でも良くて、他人が幸せそうにしているならそれで良くて、相手には別に何も求めない。けど、君の場合、刀を握る行為は父親からの押し付けであって、自主的なものじゃないんでしょ? そこに君の意志や責任はない。一方的な責任を課されて、その責任に応えることでしか生きる価値を見い出せなかったんだよ。だから頑張ってきた自分を悪く言うのは違うと思う」
「……でも、初めは憧れていたんだ。こんな僕でも父さんみたいになれたらって。それがいつしか、自分のためではなくなっていったんだと思う」
「そっか……」
坂を上ると、いつの間にか人工的な音は消え去り、聞こえる音は虫の声と袋が衣服に擦れる音や彼女の小さな吐息、ゆったりと歩く自分たちの足音だけだった。
墓地風景の静かな薄闇の中、人影がないことを確認した琥珀はパーカーのフードを下ろす。電灯がないせいか、フードから露わになった金髪は、まるで光が零れだしたかのように明るく見えた。
「巫さん」
「ん、なに?」
名前を呼ぶと嬉しそうに反応して、琥珀は振り向いた。そのあどけない笑顔に陽玄は毎度息を呑んでしまう。
「その、お金とか、何も返せないけど、色々、僕のために買ってくれてありがとう」
「いーよ、そんな畏まらなくて。お金だって魔法で生み出したものだからあたしのものじゃないし、何なら違法発行みたいなものだし……」
琥珀は苦笑しながら呟くが、自分にしてくれたという点では変わらない。だから何かお礼をと、考えて……。
「その、良かったら今度夜ご飯作っても」
「え、本当っ⁉」
「うん」
飛び跳ねるように琥珀は顔一杯に嬉しさを露わにした。
「やった~。ありがと。楽しみだな」
子どもみたいな笑みを頬に蓄えて喜ぶ彼女の姿は、やっぱり陽玄には眩しく映った。




