1―4 家出④
時間も気にせずベンチに座っていた。夕方五時を定刻とした鐘の音が鳴る。黄昏ていた思考が目覚まし時計のようにこれからどうしようかと稼働するが、思いつくのは野宿という二文字。それ以降何度頭を回しても、結局、陽玄の思考回路は野宿に辿り着く。それでも頭の中に屋敷に戻るという考えは微塵もなかった。
夕陽の名残は殆どなくなり、そこには薄暗い夜だけがあった。
あれから陽玄は緩やかに蛇行するアスファルトの車道を行ったり来たりしていた。日が沈む前は、犬の散歩やジョギングをする人をちらほら見かけていたが、この時間帯になるとぱたりと見なくなった。それでも変わらず鳴いているのは、樹枝に止まった無数の烏。カーカーと威嚇にも捉えられる鳴き声は夜になっても鳴り止まることを知らない。そんな烏が羽休めをする桜の根は舗装を持ち上げさせていて、歩道は歩けたものではなかった。
加えて森に囲まれている霊園内は街灯が一つもなく、闇を受け入れる環境が整っていた。何より霊園というもの自体が霊を招き入れているように感じる。陽玄の視線は、自然と横に移る。あるのは手入れされずに佇む暮石。この霊園の墓は見捨てられた子どものようだった。卒塔婆がカタカタと震えて哀愁を漂わせている。無数の死を留めている墓地から吹く冷たい風は、浴衣の隙間に入り込んで、背筋に寒気をもたらしてくる。
「……」
陽玄の足取りは次第に速くなった。霊なんてあやふやな存在、陽玄は信じていない。視たこともなければ、触れることもできない、そんな不確かな要素で成り立つもの、いないに等しい。だが正体が分からないからこそ怖いと感じるものだ。
陽玄は駆け足になって、ようやく電灯が数本立っている場所に辿り着いた。ここはちょっとした憩いの場として設置された噴水広場のようである。
「はぁ……」
疲れた陽玄はベンチに座り、今日はここで一夜を過ごすことに決めた。心細いが灯りはあるし、公共トイレだって……手入れはされていなさそうだが一応ある。
「今、何時だろう?」
こういう時、携帯電話を持っていれば、と初めて思った。だが無いものをねだったところで仕方がない。頼れるものは自分自身だ。
だいたい七時過ぎぐらいだろうか。感覚的に時間を予測した。今のところはまだ薄暗いだけだが、あと一、二時間もすれば本格的な夜を迎える。気分はあまり良くないが、気温は快適で、空腹でもない。陽玄は袂に手を入れ何となく夜空を見上げた。
「清信のことだ。心配して僕を探し回っているかもしれないな……」
ぼそりとそんなどうでもいいことを呟いた。というより自分にはそれぐらいのことしか思い浮かばない。ただ毎日同じ時間に起きて稽古をし、ただ毎日魔術に寄り添い同じ時間に眠る。その繰り返し。
「やっぱり、僕には何もないな……」
ぽつぽつと夜空に星が現れた。
(そういえば、あの金髪の女性。何で僕より前に立っていられたんだ?)
陽玄は夕方頃に出会った命の恩人に疑問を抱いた。
(よくよく考えれば、あの場に居たのは僕だけで、たとえその場に居合わせたとしてもあの短時間で助けに入れるとは思えない。それにあんなスピード、止まれるはずがない。だから僕は飛び出したんだ。それなのに……。戸惑いがなかったのか? あの現場を見て助からないと思ったら少なくとも身体は竦むはず。それでも彼女は助けられる自信があった。助かるという確信があったのか。だから突発的に身体が動いたのか? けどあんな女の子が車を弾く? なんて一体どんな理屈だ……、分からない)
納得のいく答えは出なかった。陽玄は世の中不思議なことがあるもんだとそれきり何も思わなかった。いやもう何も考えたくなかった。
その時、緩やかな坂を上ってくる一人の影法師が見えた。
「あれは……」
パーカーのフードを被っていて暗くてよく分からなかったが、目を凝らせば噂の金髪少女だった。
だが先ほどとは打って変わって彼女の足取りは重く、表情も険しかった。その原因はおそらく両手にぶら下がった荷物だろう。彼女は買い物帰りの女性と化していた。それにしても買いすぎである。レジ袋は今にもはち切れそうな程パンパンに膨れ上がり、中身が零れ落ちそうだった。
「あっ!」
好奇な視線を送っていると迂闊にも目が合った。こちらに気づいた彼女は、いかにも知り合いを見つけたかのように目を大きく見開いた。眉間に寄せていた苦しそうな皺もなくなり、重そうな荷物を抱えながら陽玄の方へとゆっくり近づいてきた。
「よいしょっと。少し休憩~」
彼女はドサッと荷物を置きフードを外した。フードの下に隠されていた長い金の髪が滑らかに流れ落ち、その零れ出す光のような髪を揺らしながら陽玄の隣に座ってきた。
「ふぅ~、疲れた」
静かな夜の中に彼女の吐息と体温だけが伝わってくる。
「……」
何て声を掛けようかと迷う陽玄を差し置いて、呼吸を整えた彼女が気さくに声を掛けてきた。
「どうしたの? もう夜だよ」
「……」
それはもっともな反応だった。夜に一人、こんな場所でぽつんと座っていて、それが昼間助けた人間だったら誰でも心配はするだろう。
「……」
なんて言えば納得して立ち去ってくれるだろうか。陽玄は適切な返答が思い浮かばなかった。
「ん?」
彼女は軽く身を乗り出して、問い詰めてくる。陽玄は咄嗟に顔を右に逸らした。そもそも肩が触れるか触れないかぐらいの距離に女の子が座ってきて、可愛らしい顔が近づいてくれば誰だってドキドキはするし、思うような言葉も出てこない。
「た、ただの散歩です」
だから苦し紛れにでた理由がこうなってしまうのも仕方がない。それでも陽玄はできる限りの返答をしたつもりだった。
「そっか。ふーん。……君、嘘が下手だね。散歩なんかじゃないでしょ」
「っ――」
だがその返答では彼女を惑わすことはできなかった。
「本当にそうだったらすぐ答えられるはずだよ。君、家出少年でしょ」
あっけなく彼女に見抜かれ、胸がどきりと音を立てた。陽玄は急に居心地が悪くなりこの場から立ち去りたくなった。だがそうしたところでおそらく彼女はついてくるだろう。ならば陽玄が次に取る行為は一つだけ。呆れさせて、何処かに行ってもらうことだ。
「そうですけど心配しなくて平気です」
「あら潔い」
「っ。ほっといてください。僕に気を配らず、通り過ぎてください。僕は一人になりたいんだ」
陽玄は目を合わせないまま、少し強い口調で言い放った。だが彼女は立ち去る素振りを見せてはくれない。
「それも、嘘でしょ。君、つらい顔してる」
「そんなはずない。だいたい僕の何を知ってんだよ」
思わず彼女の方へ振り向いた。そこには胡桃のように優しい薄茶色の瞳が陽玄だけを見つめていた。
「うん。分かんない。けどやっと目があったね。何があったか知んないけど、親御さん、心配してるよ」
彼女はこちらの気を引くためにわざとそんな言葉を掛けてきたのか。陽玄は再度目を逸らした。
「それでも僕は帰りたくないんだ。帰ってしまったらきっともう外には出られない」
自業自得。厳格な父のことだ。今帰ればきっと暗い暗い説教部屋に閉じ込められるだけでは済まされないだろう。
「……そう。う~ん……」
彼女は難しそうな顔を浮かべて腕を組んだ。少しの間、考え込んだ後、スッと口を開いた。
「なら仕方ない。じゃあ、今晩だけ特別。特別だからね。あたしのお家に泊めさせてあげる」
「は?」
陽玄は唖然とした。そんな都合のいい話あるわけがない。普通なら警察に突き出したりするものではないのか。
「でも、明日には帰るんだよ」
「いや、そうじゃなくて赤の他人がそこまでする必要ない。それにご家族に迷惑だ」
「それなら大丈夫。うち、実質一人だから。それに困ってる人を他人だからってほっとく人、多分いないと思うよ」
陽玄はそれでも賛同できない。それは何かを決めた以上、誰かに頼ることは甘えだと教え込まれてきたからだ。家出をしたと言うのにこんな時でも陽玄は屋敷の家訓に忠実だった。いや、違う。陽玄は父の叱りが怖かったのだ。それでようやく気付いた。家出をしても心はあの屋敷から拭い切れていないことに……。
「行こ?」
「……」
依然として声を掛けてくるのは今日たまたま出会った女の子。こんな人間を家に泊まらせて彼女に何の得があるというのか。好き好んで厄介ごとに巻き込まれる人間なんていないのに。
「ほら早く、こんなところにずっといたら風邪引くから、とりあえず歩こうよ」
「……」
「ねえ、どうしたの?」
「……」
「ねえって」
分からない。彼女が何を考えているのか。何故こんな人間に手を差し伸べようとするのか、さっぱりわからない。放っておいてくれればいいのに、むしろ放っておいてくれた方がお互いにとって都合がいいはずなのに。
「……」
陽玄はうんともすんとも言わず黙り続けた。その時だった。相反する強い力で勝手に上半身が半回転した。何が起こったのかはすぐに理解できた。陽玄は彼女に両肩を掴まれ勢いよく引き寄せられたのだ。
「ねえ、聞いてんの? なんか返事してよ。しっかりあたしの顔見てさ」
正面から見た彼女の顔は少し怒っているようだった。
「……ごめんなさい」
心配してくれている彼女にこの態度はないなと陽玄が素直に謝ると、彼女は頷き、すぐに温和な表情に戻った。
「ん。……分かった。君がどうしてもこの場から離れたくないって言うならあたしも一晩ここにいる」
「っ――」
盲点だった。そんなことを言われてしまえば、彼女の言う通りにするしかなくなる。これ以上、彼女に迷惑をかけたくなかった。
「……すみません。一晩だけ泊まらせてください」
「よろしい。それじゃあ悪いけどこの荷物持ってくんない?」
折り合いがつくと彼女はあっさりした口調で頼んできた。もしかしてこれを持たせるために近寄ったのではないかと疑うぐらい気軽に。それが彼女にとっての対価だったのなら不釣り合いだが。
「別にいいけど」
「やった、ありがと~」
彼女の足元にあるのは大きな岩のようなレジ袋、二つ。泊まらせてくれる身として彼女の要望を拒否することはできない。陽玄は潔く両方の荷物を持とうとして、その瞬間、ズキリと左肩が悲鳴を上げた。怪我を負っていたことをすっかり忘れていた。だが、バレると面倒くさいと思った陽玄は、我関せずにそれを持つ。
「あ、いいよ。一つで」
「いや、これぐらい、持てるから」
「ん~。あたし、自分だけ楽になるのって嫌なの。だから一つでいい。それに二人で持てば自然と心も軽くならない?」
バレたのかと思って一瞬焦ったが、杞憂だったようだ。それにしても彼女は少し変わっている。そんなことで心の重さが変わるとは思えない。
ただ彼女がそう言うのなら仕方ないと、陽玄は右手で一つ荷物を持ち、立ち上がった。
「あ、待って」
まだ何かあるのか、再び彼女に呼び止められた。
「どうしたんですか?」
「名前、教えてよ。あたし、巫琥珀。君は何君?」
「僕は、剣崎陽玄」
彼女は名前を聞くと立ち上がり、早速名前で呼んできた。
「ヨーゲン君か、いい名前じゃん。よろしくね、ヨーゲン君」
「……は、はい」
巫琥珀という少女は馴れ馴れしく下の名前でそう呼んだ。イントネーションが少しおかしくて、外国人の名前みたくなってしまったが、名前なんてどうでもいいなと訂正することはなかった。




