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天命の巫女姫  作者: たけのこ
10章 受胎告知
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10―14 舞い散る命②

 天界殿を顕現させ、それを倒壊させるまでの間、巫琥珀は自分の背中に手を添えている陽玄の声を肩越しから聞いていた。


『琥珀、ありがとう。助かった。だけど今度は僕を助けようとしなくていいから、後のことは頼んだよ。そしてさ、あいつを倒したら少しだけ話をしよう』


 彼と約束した。したくない約束をした。だってこんなのは分かり切っていることだから。

 女神の凄絶な突きが入った胸を抑えて、よろよろと琥珀は歩く。濡れた地面に倒れ伏した陽玄に近寄っていく。彼の左腕は切断されたままであり、急ピッチで修復させた右腕には真っ二つに折れた刀が握られていた。


「ヨーゲンくん……」


 握りしめていたその刀が手から離れる。心臓に突き刺さった太極図の剱が霧散して濡れた地面が徐々に赤く染まっていく。



「……陽玄くん」

「…………やったね、琥珀」


 陽玄はしわがれた声で呟いた。握っていた刀が手から落ちて、血に染まった水面に浸かる。身体全身の力が抜けて、脱力感しか残らない身体に残された時間はあとどれくらいあるだろうか。


 陽玄の傍らに座り込んだ琥珀が涙を流しながらひきつけを起こしているのを見て、自分の命がそう長くないことを悟った。時の魔術による時間経過、人間の限界を超えた成長の上昇を可能にしていたのは閻椰雄臣が付与した不老の概念があったからこそ。その楔がなくなった今、陽玄には一万年分のしわ寄せが来る。一万年の経年劣化。年齢に応じて向上していく魔力量も身体機能も上限がないからこそ、その最盛期は終わりなく引き上げられ何処までも更新される。だが寿命という際限ができてしまった以上、陽玄の最盛期はとっくに終わりを告げ、後に続くは彼に関わるすべての要素の衰退だけである。


「……っ」


 泣いている琥珀に腕を伸ばそうとしたが、自分の腕を上げることさえままならない。力を込めているのに伝わらない。この手は彼女に触れたがっているのに、どうして思うように動かないのか、悔しくてたまらない。彼女の涙を拭うことも、背中をさすってあげることもできない。


「くっ、ぅ……」


 腕を上げようと藻掻く陽玄の首に琥珀の手が回されて、抱き上げられた。こんな簡単に持ち上げられるほど自分の体重が軽くなっていたこと。それは自分の骨が細くなっているということで、赤が入り混じった水面に映る自分の姿を見て、陽玄は諦観を抱いた。

 一万年に及ぶ歳月が一気に押し寄せようとしていた。秋の枯れ葉のようにはらはらと垂れ落ちる。柳と例えられれば美しくもあったかもしれないが、そう比喩するには黒の前髪は生気も水気もひどく抜け落ちてしまっていた。


「随分と、老けたもんだな。……みっともない顔だ、かっこ、悪い……」

「そんなことないよ。どんなに歳を取ろうと君はかっこいいままだよ」


 力が入らない身体は自然と琥珀にもたれかかる形になり、彼女は陽玄を抱きしめたまま、一向に離れようとしない。発泡スチロールみたいに軽くなった全身の骨。血液の巡りが滞った身体は氷のように冷たい。寒い。その中で彼女の温もりと鼓動だけが生を実感できる唯一の寄る辺だった。


「琥珀……」

「なに?」

「君に出会えて、よかった。君と過ごした時間は、僕にとって、かけがえのないもの、だった。おかげで僕の人生は……幸せだった」

「やめてよ、そんなお別れみたいな言葉……」


 末端が灰になって消えていく感覚がある。脳細胞の働きが弱くなって、うまく言葉が出なくなる。差し迫る死が陽玄の身体を不自由にする。


「……本当は、まだ死にたくない。君と約束したこと、君とやりたかったこと、何一つできずに死ぬのはやっぱりいやだ。……死ぬのは、怖い」


 つうーと陽玄の目から涙が出た。抱き合っていた状態から琥珀と向かい合う。彼女の顔は涙でふやけ切っていた。だらんとした手は依然として動かない。代わりに彼女の手が陽玄の涙を拭う。それなのに琥珀の顔は靄がかかってよく見えない。目の焦点がうまく合わない。さっきまで感じていた温もりも一切感じられない。それがすごく寂しくて、これから誰も知らない暗い場所へ行くんだと思うと怖くて怖くてたまらなかった。


「大丈夫。あたしがずっと傍にいるから」


 温もりも感触も匂いも感じられない中で、琥珀の優しい声だけが聞こえた。その声に促されるように陽玄は彼女の膝の上で横になった。


「ごめん、琥珀。君を幸せにしてあげたかったのに……約束守れそうにない」

「ううん、そんなことないよ。君はあたしにたくさんの幸せをくれたよ。あたしを好きでいてくれて、傍に居続けてくれた。あたしのために戦ってくれた。あたしのために怒ってくれた。誰よりもあたしの幸せを望んでくれて、あたしを幸せにしようと思う気持ちがすごい嬉しかった」


 幸せだったよ、と嬉しそうに言う琥珀は、だけど、唇を嚙みしめながら涙が流れるのをぐっと堪えているようだった。涙を流せば今の発言が嘘になってしまうと、陽玄が心残りを残さずに旅立てるようにと彼女なりの配慮なのだろう。


「優しいなぁ、琥珀は……」


 幸せなのは確かなのだろう。だけど幸せよりも今は悲しさが勝るのだろう。だからせめて彼女が泣くのを我慢しなくていいように、お互い、最後は笑顔で別れたかった。


「琥珀、ありがとう」

「うん」琥珀は涙を堪えるように笑って頷いた。

「琥珀、愛してる」

「うんっ! あたしも大好きだよっ」


 ――ああ、良かった。最後に花咲くような満面の笑みを浮かべてくれて、最後に僕が一番見たかった大好きな笑顔をこんな近くで見ることができて、本当に、僕は、幸せ者、だ――


 琥珀の両手が陽玄の顔を包み込むように抱きしめる。


「ありがとう、陽玄くん。君と出会えたこと、君と過ごした時間、君がくれたかけがえのない宝物、あたしは君のことをずっとずっと忘れない。ずっとずっと憶えてる。だから安心して眠りな」


 落ち着くような声音で愛おしそうに眠りへ誘う琥珀の顔がだんだんと見えなくなっていく。本当は眠りたくないけど、無性に眠くて、瞼が勝手に閉じていく。


「おやすみ、陽玄くん」


 囁くように眠りの挨拶を言われて、陽玄は安らかに眠りについた。



 万感の思いを募らせながら琥珀は陽玄にキスをした。それきり彼は眠ってしまって心臓の鼓動も聞こえなくなった。体温もゼロになって、押し寄せる歳月が彼だけを風化させていく。痩せこけた頬、抜け落ちる白い髪。やがて彼は皮と骨だけになり、みるみるうちに白骨化して、最後は遺灰のように何もかもが風に舞って消えていった。その中で琥珀の手には彼が肌身離さず持っていたコハクのペンダントが握られていた。

 少女は一人、夜が明けるまでの間ずっと、赤く濡れた地面に腰を下ろしたままずっと、月の明かりで淡くなった黒い空を見上げて――。


――さようなら、陽玄くん。


 ――もう永遠に会うことはない、愛しい彼に別れの言葉を告げた。

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