10―12 始めは処女の如く後は脱兎の如し⑥
斬り落とされた右手から落ちる刀を手に取ったのは復元された右の手。裁断された痛みに悶えることなく淡々とすくい上げるように壊れた刀を手に取った。
「空理空論。何をされたのか、全くわからないな。やっぱり確かな痕跡を与えるためにもまずは同じ土俵に立たないといけないか」陽玄は冷静な口調で言う。
「懲りない奴よの。どんなに挑もうとも、結果は変わらないというのに」
「ならさっさと殺してみろよ」
焚きつけの言葉に海と陸を内包したような双眸が動く。女神は黙ったまま、陽玄を睨むように見てそして――。
「――」
何の所作も何の気配も何の危機感もなく陽玄は見えない何かに弾き飛ばされていた。失った意識を一瞬で立て直すと陽玄の身体は血みどろになっていた。絡み合う血液と泥水と一緒に魔力が外へ流出していくのが分かる。
「駄目だ、来るな……!」
陽玄は自分の傍に駆けつけようとする琥珀を必死に制止する。魔力を限りなく制限させて気配を隠しているのにここで出てきてしまっては自分の行為がすべて無駄になる。悟られてはいけない、何より彼女には生きていてもらいたい。
「――はァ、……にしても今のはまずかったな」
コンクリートの柱の陰に隠れた陽玄は傷口を左手で押さえながら小さく呟いた。
右半身の感覚がないくらい酷い損傷。右腹部にはぽっかりと砲丸のように大きな穴が開いていた。傷の痛みは堪えられる程度のものだが、呼吸が苦しかった。やはり千年の時を経た後に千年前に戻る離れ業は想像を絶するほどの魔力消費量で、それが傷の治りを遅くさせている。
だが、陽玄の表情は曇らなかった。単純明快に勝つイメージしか頭の中にはなく、身も心も負けることなど一切考えていないからだ。
確かに一歩間違えれば瞬時に殺されるのは明白だが、打開策ならもう見つかっている。次元の成り立ちも次元理論も一万年の時を経たことでようやく解明できた。
「魔法の頂にある次元。お前を出し抜く術はもう導き出されて――」
その時、抱いた。到底、看過できるはずがないほどの強烈な危機的状況という違和感を。
――なんだ、この膨大な魔力反応は……。女神からではない、もっと別の場所、もっと高い地点から――。
「虚構の空の天蓋よ、裂け割れ落ちろ」
異変は前触れもなく起こった。
壊れた天井の隙間から見える空。
霞む視界でもはっきりと見えた。
見上げた夜空は雲が流れ、星がちらほら見えていた。殆ど動かないそれは北極星だろうか。なんてそんなもの、どうでもいい。そのはずなのに、その星から目を離してはならなかった。
あれは流れ落ちる星ではない。大気圏内でも燃え尽きることなく、ここを目標として真下に落ちてきている。
そう。急転直下で落ちてくるソレは、仮想平面世界によって抽出された人工物の凝集体。粉粉に圧壊され犇めき合ってできた巨大な隕石である。
女神から突き付けられた挑戦状。急造で作り上げた仮想平面世界の掃き溜めが鉄槌となって下ろされる。虚空に輝く紺碧の鉄塊。身を弁えない愚かな魔術師を圧し潰すために、女神はこの国の政治の心臓部を陥没しにかかった。
「腐った国よの。政治の心臓部が闇に堕ちるというのにその頭どもは自分の我が身可愛さに律儀に安全な場所へ逃げ帰った。その頭を選んだ民もまた腐っておる。人類というのは生きようとすればするほど意地汚く、何かしらの罪を犯し隠し、己の体裁を守ることを優先する。対して死ぬために生まれてくる者は言うまでもない。種の平和を築くどころか、己の志もない命が平和を築き上げることなんてできやしないのだ」
「ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ、うるせぇんだよ……」
死にかけの魔術師に残された猶予はあと何分あるか。
あれを打ち砕くには剣戟が届く距離まで待たなくてはならない。だが自分は今、地上から遥かに離れた地下にいる。自分が迎え撃つ前に地表にある街並み、そこに暮らす人間が呆気なく死滅することは明らかだった。だが隕石が落下する前に撃ち落とす術を陽玄は持ち得ない。対人相手に特化した魔術師には手が余るほど被害の規模が大きすぎるからだ。
凄まじい衝撃に身震いする。
脳の神経回路。全身に分布する血管。肉体と精神を構築するあらゆる部品が断線した身体で一体何ができようか。戦慄かすようにその隕石は強風と風圧を纏わせながら宙の下にいるものを跡形もなく木っ端微塵にしようと落ちてくる。
「っ――、くっ」
無様に倒れている場合ではないと柱に身体を預けながら立ち上がり、急ピッチで瓦礫の隕石を打ち砕くための打開策を考える。考えながら時を回して魔力を生成させて、考えながら外傷を回復させる。
――駄目だ、全部は守り切れない。僕が守れるのは僕が知り得る限りの人間だけ――。
「自惚れるなよ」
甘い思考は即遮断。見えない死が差し迫る気配を直感で感じ取った陽玄はすぐさま折れた刀を身構え――。
「お前はお前すら守れない」
その言葉を聞いた時、「バキリボキ、ポキコキ、ボキポキバキポキバキボキボキバキッ――」陽玄の体内から湧き立つような異音が鳴り響いた。
――なんだ、コレは。
何かの衝撃に耐えきれなかった骨が小枝のように折れる。身体を動かす。身体を支える。骨をズタズタにされた肉体はその役割を失い、陽玄は平伏するように跪いた。
「――っ」
世界そのものから全身を打ちのめされたかのような出鱈目な衝撃に苦悶の吐息を漏らしながら天を仰いだ。中空まで落下してきた隕石はまるで汚い月のよう。建造物がぐちゃぐちゃに圧し固められた鉄の塊が地上に直撃するまで数十秒、その間際、女神は畳みかけるように指先を陽玄に突き付けた。
「この地果てる前に先立つがいい」
重く残酷な、聞く者を屈服させるような声で女神は告げた。指先に集まる色相環のような威光。元素の組み合わせ次第でありとあらゆる特性をもった架空の物質を作り出すことができる女神の権能。都市一つを壊滅し得るその一撃が指先一つで容易く編み出され――。
「――――――」
何で形成されたのか、解析不能な物質が火花を散らして射出された。それは熱を伴い、空気を裂く。すべてを破滅させる黒い光弾が迸る。どう足掻こうが、融解されるか、圧し潰されるかの違い。どちらの殺され方も全くもって願い下げだが、どちらを防ごうが弾こうがどのみち死に追いやられるのが運命。ならば――このままいいように負けていいはずがない。全身全霊、最後の最後まで命を賭して、彼女に託す。どうせ死ぬなら自滅が――。
「何考えてんのっ! あたしがいるでしょっ! 勝手に死のうとしないでよっ!」
まるであの時の自分が思っていたような台詞を聞いて、陽玄の口元に諧謔の笑みが浮かぶ。
――僕だって同じ気持ちだったよ。ずっと傍にいてほしくて、もっと僕を頼ってほしかった。
「……まったくどの口が」
「うるさいっ! 絶対あたしが守るんだから……!」
生き死にの瀬戸際、死の直撃から陽玄を守るのは四枚の白き翼。目の前に飛び出してきた琥珀は両手を目一杯に突き出してその衝撃を受け止める。純白の気高い翼は彼女の小さな躰よりも大きく、柔そうにはためくしなやかな翼はどんな盾よりも頑丈に見えた。魔力を最大限まで帯びた四枚の翼が陽玄を包むように黒い射線から守る。
「うっ、く――、ああああああああ!」
計り知れない激痛に絶叫する彼女の悲鳴。滞留する黒い暁闇の咆哮が彼女の白い翼を灼きつくす。荘厳で綺麗な四翼を形作る羽毛が次々と凄まじい衝撃に舞い散り、翼の先端から徐々に黒く蝕まれていく。
「琥珀っ!」
「大丈夫っ。絶対……、絶対に守るから、この攻撃からも、空から降ってくる隕石からも全部、君に取り巻く災いすべてから」
無謀な難局には決意と意地で応えようとする彼女は天の翼を具現化させている両の手から片方の手を外し、地面に右の掌を這わせた。
「くっ、ぁ」
極限まで張り詰めた状態でさらに上から振り降ろされる鉄槌を処理することは時間的にも魔力的にも無茶過ぎる話だ。陽玄には分かる。今の彼女の魔力量では五次元の維持と天の翼を展開させることで精一杯であることは。
ならやることはただ一つ。――あの時、君が僕にそうしてくれたように。今度は僕が。
今になったら遠い昔のようにも思うけど、今でも鮮明に思い出せる。これは確か戦乙女の特権らしいけど、一万年も時を経てば不可能なことも実現可能にできるくらいの歴史があるというものだ。
「君の後ろには僕がついている。ありったけの魔力も時間も僕が捻出してみせる」
陽玄は彼女の背中に右手を添えた。
常識外の魔力譲渡。これより彼女にもたらされるのは今なお増長され続ける規格外の魔力量。時間にして一万年分の魔力が彼女に譲渡される中、さらに陽玄は琥珀と同じようにもう片方の左手を地面につけた。
「Angeregt――(活気付けッ!)Dreidimensional Zeitreise(立体上の時間遡行)」
ⅠⅡⅢⅣⅤⅥⅦⅧⅨⅩⅪⅫ――時計型の魔法陣が地面に展開される。チク、タク、チク、タク、チクタクチクタクチクチクチク――時計の針が音を立てて時計回りとは逆に回る。回る。回る。左半身だけで賄う時間遡行を魔法陣の空間内に具現化させることで、隕石の落下速度を遅らせようとする。だがそれはほんのわずかな抵抗でしかない。それでも気が遠くなるような時のフィードバックを受けた琥珀の翼は肥大化し拡張する。その変容は質だけでなく量にも表れる。翼の数は六枚、八枚、十枚、数えきれないほど増え、優雅に咲き乱れる華のように成長変異した。すべて呑み込む。物質を異次元に組み合わせた女神の一撃を折り重なった天の翼が吸収していく。十分すぎるほどの魔力量と、事象を数秒だけ減速させた時空魔術の恩恵と加護。
つぅーと陽玄の鼻から血が流れる。明らかなキャパオーバー。右半身の時間加速と左半身の時間遡行。時間の対極を体内でやりくりしようとする脳内は既にオーバーヒート。血管は破れ、脳ミソには亀裂が走る。それを強引に魔力で修復させ、無茶を続行。時の歯車を死んでも止めることはしない陽玄の計らいに琥珀は全力を以てもう一つの脅威に立ち向かう。




