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天命の巫女姫  作者: たけのこ
10章 受胎告知
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10ー9 始めは処女の如く後は脱兎の如し③

 その異変は何の前触れもなく唐突にやってきた。

 握っていた刀が地面に落ちる。どうして刀を落としたのか、自分でも分からない。刀が落ちる音を聞くまで、手には刀を握っていた感覚があった。なのに今はもうその刀を握っていた感覚がないどころか右肘から先がない喪失感に埋め尽くされていた。

 陽玄は利き手である右手の行方を確認して納得する。右手はぽっかりと穴が開いたかのように消失していた。切り離されたというよりも消し飛んだような喪失感だと抱くのは痛みも出血もないからだ。

 思い当たる節とすれば女神に指を差されたからであり、自分に天恵魔法をかけた術者を消滅させたのもこれと同じ手法だろう。

 陽玄は落とした刀を拾い上げながら消滅した右腕を復元させようとする。――のだが、元に戻ることはない。


「無駄な足掻きよ。この手の攻撃は貴様らが扱う魔の術とは訳が違う。次元による攻撃で損傷した箇所を魔力で治そうとするなんて無謀にも程がある」


 陽玄は額の汗を拭う。

 確かにその通りだが、失ったものを復元させること自体、無謀な話なのだ。その無謀さを可能にさせていたのが、魔術及び魔法の基盤を覆すほどの並外れた魔力量だった。

 だが不可能を可能にさせてきた膨大な魔力量も底が尽き始めていた。

 天恵魔法によって付与された膨大な魔力量による再生能力は治癒魔法の復元能力に匹敵するほどだが、魔力消費量は治癒魔法のそれとは比べものにならないほど悪い。

 たかが数分、されど数分。異界と接続している肉体の異変は止まらない。その異変を少しでも緩和させようと体内に内蔵されている時計が逆行する。魔力による自然治癒力は魔力の消費量に依存する。それを制限するために時の魔術に割り当てる魔力を増やした。


「蒙昧な、魔力は有限であって無限ではない。理作の魔眼を除いて、如何な魔法だろうとそれだけはあり得ない。貴様の魔力はいずれ尽き果てる」


 再度、突き付けられる女神の指先。それはどんな銃口よりも畏怖する視えない凶器。五の次元をもってしてもその攻撃が視えないことから扱う次元の位は彼女の方が上だろう。それをどう躱す。どうすれば避けられる。


 ――ダメだ。


 陽玄は背後を一瞥してそれらの思考を破棄した。

 カシリと陽玄の持つ刀が鳴る。不能になった右手に代わり、左手で拾い上げた刀の柄が強く握り直される。

 仮に彼女の眼がすべてを見通すモノだったとしても、陽玄はその背中で沈黙したまま動かない少女を守るように隠した。

 直感で運よく躱せたとしても背後には彼女がいる。回避する選択肢はそれでなくなる。この刀で防ぐ。思考はそれだけに塗り固められる。聖遺物であるこの刀は戦乙女の遺骨が資材となっている。材料となった戦乙女がどういった人物だったのか、どの次元階級に位置する者だったのかは分からない。もしかしたら五次元止まりだったかもしれない。だとしたらこの刀では女神の攻撃を防ぎ切れないのではないか。


 ――やめろ。そんなこと考えるな。


 この時にも一秒、もしもこの一秒にも意味があるとしたら、陽玄にできることはただ一つ。それは体内時間を極限まで停滞させることだった。おそらくだがどの過剰次元にも共通しているのは時間という概念があるということだ。五次元世界と接続している陽玄は現実世界よりも五倍速い時間軸に立っている。そう仮定する。そして本来であればその効果を戦闘時に利用していたわけだが、今は生命活動を維持するためにその接続を強引に繋ぎ止めている。時の魔術による時間遡行はその倍速に伴う肉体的負担を緩和させるためだが、陽玄はそれよりもさらに時間遡行を加速させていく。仮に十次元が十倍速であるならば時間の倍速下では敵わない。そもそも肉体を保つことができないがために倍速の時間軸を低速の時間軸で相殺させ、等倍速にしている。だからそれでは勝ち目がない。ならば、自身の時間軸を限界まで停滞させ、敵が繰り出す次元の時間軸を遅らせる。次元を仮想の次元で差し引く。要は低次元の概念を付与させる逆転の発想であった。


 突き出された女神の腕が張り詰めたその時、ここで五次元世界の接続を解除してはならないことを陽玄は察した。確かに体内時間を停滞させるということは呼吸を止めることと同義であり、無酸素空間内という状況を自ら作り出すことを意味する。つまり理論上、敵の攻撃を防ぐ時まで、五次元世界の接続を切り離しても状況はさして変わらないように思える。だが、その接続を切断することでその余波を受けるモノがある。それは当然の話だが、陽玄の認識も三次元に降下、つまりは元に戻るということだ。

 そうなった場合、彼女から撃ち出される次元の一撃を向かえ討つことは限りなく不可能となる。

 例えばそう、敵が扱う次元が十だとしてその時間倍速が十であった時、三次元を認識できる範囲だとして、0次元まで停滞させたとしても差し引きは七次元であり、こちらは実質四次元下回ることになる。対して認識範囲が五次元である場合、こちらが下回る次元を二次元までに留められる。


 すべては陽玄の憶測に過ぎないが、極限の状況下でこれが最適解であると再度剣術の構えを取った。


「語り聞かせるだけ無駄のようだな」


 心音は消える。熱は冷める。血の巡りは止まる。呼吸は停止する。身体に刻まれた時計が生命の時間とは逆に回る。回る。回る。

 その攻撃は視えない。視えない。視えないから陽玄は目をつむった。視界が闇になった時、時が逆行していくのを痛感した。感じたのはそれだけじゃない。瞼を閉じていても感じ取れる光。全身に纏う時の圧縮に女神の指先から生成された異次元の渦が干渉した時、カッ、と陽玄は両眼を開いた。

 八相の構えで握る刀が軋みを上げる。それは利き腕ではない左手で力強く柄を握りしめた音。

 依然として視認はできないが、何かがやってくるのをひしひしと感じる。

 地面に張り付く足先に満身の気迫を込める。前のめりに崩れ落ちそうになりながらも八相の構えは崩さない。

 危機の切迫。死が音をたてて近づいてくる予感。その音は一瞬で陽玄の身体が壊れる音に変わることだろう――。



 腕一本でその破滅にどう耐え抜くことができようか。だが少年の眼には一切の陰も曇りもない。片腕で確かに握るその黒い刀でその一瞬を見極め、真っ向から立ち向かおうとする。その背後には我が手で磔にした少女の無様な醜態。なお、彼の眼は何を見ている。否、女神である自分は愚か、他のことなど気にも留めない。この時にも我が手で収集されていく人間のことも、死んでいく自分のことさえ眼中にない。そう、他のことなんて何も見ていない。本当に見ているのは串刺しにされ、動かない白い戦乙女でもない。その戦乙女の中にいるもう一人の少女だけをずっとずっと見ている。


「ふざけよって」


 静かな怒りと共に、女神は前方で構え続ける相手を深く睨んだ。



 終わると感じ取れるこの身体機能は正常か否か。

 己の傷には目もくれず、少年は必死に大事なものを守るために刀を構える。

 死に急いでいるのか。

 死を先延ばしにしているのか。

 相克する倍速と低速の時間の狭間で見える未来はそのどちらも結局は死に至るということ。

 でも死がちらつく度に死よりも強く思うものがある。

 これまで何度も死にそうになった時はあった。

 その度に死にかけの自分を見て、矛盾したことを強く願い、今もこうして陽玄は叫ぶ。


――死にたくない……!


 その思いを口にした瞬間に、陽玄の敗北は決定した。

 だが。

 そう確信した女神は見た。

 認識できないはずの九次元の攻撃が少年の一振りによって薙ぎ切られたことに。


「やってくれるではないかっ!」


 これはまぐれあってまぐれではない。この少年は持ち合わせた才と弛み無い奮励努力で偶然の幸運を引き寄せたのだ。それがこの異様な遅さと速さ。先手を取ったのは明らかに女神であり、その瞬間に彼の敗北は決定的なものになるはずだった。だが原子分解の次元弾が彼に近づくほどにその光速は低速した。それとは対照的に彼が振るう刀は黒い閃光とさえ錯覚するほどの速度だった。事実、その迸りは相対する時間軸の狭間の中で黒い軌跡を残している。

 緩と急の時間操作。

 遅と速の二層構造。

 時の魔術による体内時間の遡行を表皮部分に付与させ、五次元の時間倍速を皮質部分に付与させる魔術と次元の合わせ技。


 陽玄の憶測は概ね正しかった。

 女神の指先から放たれた一撃は原子分解を掛け合わせた九次元の凝集体のようなものである。十次元を扱えないのはすでに仮想の平面世界を作り上げているからである。結果、九倍速から時間遡行による三次元の差し引きと、五次元による打ち消しで次元格差は一次元。だがそれは時間という観点だけで言えばの話だ。その性質まで打ち消すことはできていない。故に――九次元の世界は物理法則や初期条件の違う宇宙全ての比較から成る事象の抽出。


 だから予期し得ない、あり得ないことは当然のように巻き起こる。


「――っ!」


 壊れるはずのない聖遺物の刀が刃こぼれする。

 ちっ、と陽玄は舌打ちをする。口の端から血が流れる。沸騰した血液が急速に身体中を駆け巡る。五次元の世界を見過ぎた目の網膜の血管が千切れて出血する。身体の至る箇所が静かに着実と壊れていく。決して身体の崩壊が魔力による治癒の速度を上回ったわけではない。単に今の魔力量ではその異常を一瞬で修復させるには限りがあった。これまで治癒に要していた魔力の半分もない治癒力ではこの負傷は賄いきれない。


 だが、少年は刀を振り下ろしたままの体勢――奇しくもそれは真心ノ一心流さやのいっしんりゅうの基本にして最強と謳われる八相・陰の構えであった。


「遺構の偏愛、徒花の一刻――、忘却の彼方で貴方の夢と愛を知り――、未だ届かぬ最果てで不可逆の時計を回す――、包蔵された久遠の時に身を委ね焦がし粉にして願いを叶えよう――」

「こやつ……、この私を本当に――」


 完全なる詠唱を唱えた後、「真心ノ一心流――斬空滅鐵……ッ!」少年は五次元との接続を維持したまま、再び五次元の歪みをこじ開ける、と思いきや、彼の身体は踏み出した一歩と同時に弾け、女神を一閃せんと凄まじい速さで肉薄し、横一文字に薙ぎ切った。


 女神の首から血の筋が滲み出る。

 ふざけた話だ。神でありながら人間の腹から生まれたというだけで彼と同じように鮮血を零すとは。女神は自身の首から流れる血液の感触を確かめながら、振り向いた。それ以上にふざけているのはあの少年である。


「この私が一杯食わせられるとは、小賢しい餓鬼よの」


 剣術の二段構成の一つである次元の創出を省略した一撃。正確には簡略化と言うべきか。前の防いだ一撃が第一撃による五次元の創出だったのである。即ち、この少年は女神の攻撃を防ぎながら攻撃への布石を敷いていたのだ。現状最高次元である九次元の障壁が破られたのは前の攻撃を刀で防いだ際に五次元の歪みに九次元の残滓が混ざり込んだからだろう。かくして九次元の名残が空間に残ったことで女神は見誤った。


「とはいえ、かゆい」


 女神は自身の首に刻まれた傷口をその白い指先でなぞる。傷はそれだけで完治した。対して、ビチャチャチャアアアアッ、と少年は勢いよく血反吐を地面に吐きながら膝をついていた。


 呼吸をしないといけないのに口から出るモノが多すぎた。未だこの身体は五次元と接続している。でないと生命活動の原料が取り込めなくなるからだ。だけれど、もはやそんなことを言っている場合ではなかった。何をしようがすべて致命的であり、もう何もできない。

 意識を差し置いてモノが壊れるという自然の成り行きで陽玄の上半身は地面に倒れた。

 呼吸をしているのか、吐血をしているのか、今自分が何をしているのかも分からないくらい、どうしようもない状況だ。

 幸い、痛みがあるのが唯一の救いだった。生きている実感が湧く。

 痛みからして数本の肋と幾つかの内臓が破損している。それと灼けるような眼の痛み。異なる次元の混在によって左眼が破裂したんだろう。右眼の方は失明を免れたが、その眼が映し出す像は何もかも赤くて朧げだった。

 その片目を微かに横にずらせば、左手が持つ黒い刀の刀身は真っ二つに折れていた。


「……はぁ、ア、アぁ」

「もうよい、小僧。引き際の時だ。お主も我が血肉として取り込んでやろう」


 壊れた身体は硝子細工。視界はだらりと流れる血で真っ赤で、身体もだらんと思うように動かない。まるで大海原に投げ出されてもがくことしかできない羽虫のよう。十二単から成る天万アマヨロズが陽玄の身体に巻きつき、女神のもとへ引きずられていく。ずるりずるりと。

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