1―1 家出①
1999年、9月2日、早朝。
夏の余韻が僅かに残る九月上旬。剣崎陽玄が午前五時半に目を覚ませば、その日はもう終わっている。自室のベッドから起き上がり朝の身支度を済ませれば、向かう先は学校ではなく道場。本館から道場までの距離はかなりのもので、軽いジョギングコースになり得るのではないかと思うほどである。
ギシギシと音もしなければ埃の一つも落ちていない板張りの廊下を歩く。
「おはよう。陽玄」
剣道場の格子戸を開けば、そこにはすでに師範件父が紺の道衣姿で正座していた。
「おはようございます。父上」
父の威厳ある声に思わず声が震える。緊張感が充満した部屋から漂う空気が『早くしろ』と急かしているようでどうにも落ち着かない。物心がついてこのかた十年、この生活情景は変わらないというのに……。
陽玄は父の前に正座し、刀を横に置く。
月に何度か行われる父との稽古。
竹刀ではなく、真剣を取り扱ったやり取り。
殺伐とした雰囲気。
張り詰めた空気に唾が上手く飲み込めない。
「先週受けた傷の具合はどうだ?」
「……清信に手当てをしてもらったので……問題ないです」
その返答に陽玄の背中の傷が疼く。
「そうか。痩せ我慢ができるくらいに回復したのならよい。だが、毎度同じように、怪我を負っていればお前の身はもたんぞ」
「……」
「準備はよいか。死ぬ覚悟はできているな?」
「…………できていません」
刀身を震わせながら答える陽玄の声もまた震える。
「莫迦め、そこは是正するところだ。死にたくないのなら死なないよう弁えてみよ」
父が立ち上がり、陽玄も重い腰を上げた。父の左足が前に一歩踏み出る。それに応じて陽玄は刀を構え、守りの態勢に入る。
手汗で刀の柄が滲む。
何度死にかけたかもわからないくらい、身体は傷だらけで、でも何度傷つけられてもこの身体は修復を繰り返す。
「アぁぁぁぁぁ!」
父と息子の命のやり取りが始まった。
大声を上げれば痛みを紛らせれるんじゃないか、大声を出していれば気合が入っていると感心してもらえるんじゃないか。自分は何のために刀を握っているんだろうか。父のため。この一家のため。分からない。そんなことよりもどうしたらこの痛みから逃れられるのか、そればかりをただ考えていた。痛みがずっと続く、ほらずっと続いている。傷つけられて、癒されて、また傷つけられる。
「浅ましい考えだ、何度繰り返せば気が済むのだ、お前は」
気付けば、道場の床が血と汗でべったりと汚れていた。
――何だ、また僕は斬られたのか。
気を失っていた陽玄が目を覚ますと、自分は血塗れになりながら床に倒れていた。不思議と痛みはなく、痛みに慣れたのか、痛覚が狂ったのか、もうどうでもいいとさえ思えた。
「何を呑気に臥せている? 何故、お前は倒れているんだ? 起きろ」
「――っ」
それは沸騰よりも激しく、灼熱の炎よりも熱く熱く。
忘れかけていた痛みが再熱する。痛みの奔流が凄まじい速さで脳へと駆け上る。
「あああああああああああっ!」
ばっさりと斬られた左肩を押さえながら陽玄は痛みに絶叫する。
「この程度の痛みで何を喚いている? 何故、刀を離す。立て、刀を握れ。本来であればお前のような落ち武者はとっくに死んでおるのだぞ。決闘に慈悲はない。早う立たんか、早うせ」
父は超然としたまま稽古を続行させる。
「ぐあ、ああ、あ」
陽玄はあまりの激痛に立つこともできない。
「ならば、死ね」
父は刀を逆手に持ち、陽玄の頭蓋に切っ先を向けた。自分の血が付着した刀から赤い雫がぽたりと頬に落ちる。次に落ちるのは頭蓋をも砕くその刃物、このまま避けもせずにいたら父は本当に自分を殺すのだろうか。
「ちっ、逃げもせんか。この出来損ないが。もうよい。清信、連れていけ」
「はい」
父の圧倒的な実力差と体力差を歴然とさせた試合稽古に陽玄は成す術もなかった。それどころか自分から死を望んだ様は今までの中でこれ以上ないくらいの惨めさだった。
道場の格子戸ががらりと開く。使用人の清信が慌てたように駆けつけてきた。
「お坊ちゃま! 御無事ですか? 今手当てを」
駆け寄った清信に介抱されるという屈辱的な終わり方。
「その程度の傷、命に別状はない。普段稽古をつけているお前が動揺してどうする? 清信、お前も大袈裟になったものだな」
「……。お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません」
タオルを傷口に当てた使用人である清信は、父に会釈すると陽玄を抱きかかえた。
「失礼、当主様」
言って清信は道場を後にした。
「お坊ちゃま、大丈夫ですからね。今、私が治して差し上げますから、もう少しのご辛抱を」
「ぁ、はぁ、ぁあ」
陽玄が苦痛に悶える中、清信は急ぎ足で道場から本館を渡り、陽玄の自室に戻った。怪我を負った陽玄をそっとベッドに寝かせると、清信は早速手当てを行った。
「お身体、失礼しますね」
道着を脱がした清信は、救急箱から注射針を手に取り、慣れた手つきで陽玄の左腕に刺していく。
「局部麻酔のついでに、鎮静剤も投与しておきます」
「……清信」
「はい。何でしょう?」
「輸血療法だけは、しないでほしい」
「……かしこまりました。ごゆっくりお眠りになってください」
「ありがとう」
陽玄を労わる清信の優しげな声音が遠ざかっていくのが分かる。視界がぼんやりしていく中、清信の申し訳なさそうな表情が見えて、陽玄の意識は暗い闇へと沈んでいった。




