インタールード⑲(世に生まれし異物①)
「タケオミ、ここで少し待っていてください」
瓦礫から降りた雪姫は四尺刀の剱を具現化させる。対峙するアスタリアを見て、対アスタリアに施した死の概念が剱に付与された。死という概念が存在しない女神を打ち倒す秘策として編み出したかつての理は今も続いている。
「……大丈夫です」
雪姫は自身に言い聞かせるように呟いた。殺すことは造作もないと。人は愚か戦乙女よりも上位な存在ではあるが、生まれたばかりの生命体は魔力量も次元階級も、あの時、君臨していた女神に比べれば気後れするほどではない。
ならば直ちに。成熟する前に殺さなくてはならないと直感する。
片手で持った刀を床に向けて、遠く離れた黒い女神を視界に収める。両者の距離は十メートルあるかどうか。雪姫は微かに重心を低くし、前かがみになった。対してアスタリアは神色自若として一歩たりとも動くことはない。かつての自分を殺した相手を前に明確な殺意を抱きながらもその感情が先走ることはない。
ただ見開いた眼は雪姫だけを直視し続けている。まるで兎を狩る狐のように。
殺伐とした空気の中で、女神が一つ、緩慢とした瞬きをした時、戦いはしゃらんと風を斬る音で始まった。刀を後ろに構えると同時に雪姫は弾けていた。音速をも凌駕する異次元の速さで一瞬の攻防にも持ち込ませない覚悟で機先を制する。
快刀乱麻を断つが如く、アスタリアの背後に瞬間移動した雪姫が刀を振り抜いた。
その時、速すぎるが故に時間が止まっているように感じたのか、将又、時間が逆行しているように感じたのは、流し目でこちらの動きを把握するアスタリアの螺旋の瞳と眼があったからだろう。
アスタリアの左腕が動く。
だがその動きは雪姫が刀を振るう速さに比べれば遅すぎた。
死の概念という絶対的な意味付けがされた一撃。生き死にの法則に囚われていない不死身のアスタリアを強制的に死に追いやるために生み出した一撃必殺の居合は、神具である天万の防護性を難なく無意味にさせる。
「――」
微かに震える指先と噴き出す汗を差し置いて、雪姫は躊躇うことなく彼女の身体を切り裂いた。かつてと同じ光景が広がる。女神の腹部から粉のような血飛沫が弾け飛ぶ。その血液は滴ることなく、風に乗って消えていく。アスタリアの肉体と精神に死の概念が付与されたことで、彼女はその傷が死に直結すると誤認した。死の攻撃は与えた傷の重症度に関係なく、傷を受けた者が死を実感した時点で死に陥る。死とは無縁である女神に植えつけられる生命そのものが持つ死という三つの共通認識。元の状態に戻ることは不可能であるという不可逆性。肉体機能及び感情、動作、思考――生きている時に行っていること全てが死によって終わるという終焉性。そして生きている者は皆、いつか必ず死ぬという不可避性。それら三つの認識によってかつての女神アスタリアは破滅した。その出鱈目すぎる一撃に驚愕し、その切り札を生み出したこの魔眼を恨んだことだろう。だが、今現在愕然としているのは――。
筒抜けになった天井から吹く夜風でさらさらと長い白髪が靡く。刀を振り下ろしたままの体勢で雪姫は微かに目を細めた。
「それで――」
問いかけるように口を開いた女神の一声。
あろうことか彼女に与えた死に至る傷が驚異の再生能力によって修復されていく。
過去からしてこのままいけば勝っていたのは雪姫だっただろう。だが、それは女神アスタリアであったならばの話だった。結末はまるっきり違っていたどころか、初めから何もかも違っていたのだ。
「――何が大丈夫だと?」
厳かに質す女の険相とした面構えと死の斬撃が通じない状況から、雪姫は今の彼女がかつての彼女とは違う別個体の存在であることを知る。
「ふふ」
雪姫の内実を悟って、黒い髪をはためかせる女が人間のようにせせら笑った。
「知って、知ったところで、何ができようか?」
ズチャチャチャァァァァァァアアアッ。
十二単の着物がするりと擦れる音も前触れもなく、聞こえた音は雪姫の肉が裂かれる出血音だけだった。雪姫の袴が有する防衛機能は意味もなさず、彼女は左肩口からばっさりと裂かれていた。雪姫は咄嗟に後退し、傷口を押さえる。この地に、新たに生まれ落ちた女神の手にはジブリエールが所持していた太極図の剱が握られていた。無数に連結した左右白黒の勾玉。その陰と陽の関係性を度外視するようにその剱から陰の要素がすべて失われ、陽の白一色に転ずり出す。
「何故、私が貴様如きに敗北せねばならぬのか? お前は私を誰だと思っている?」
蛇のようにするりと伸びた天万は束ね熨斗のように雪姫の首元へ飛び掛かった。
「――っ!」
幾重にも絡まった帯が雪姫の首を絞めつける。その拘束を振り解こうとする左腕をもアマヨロズに持っていかれようとした時、雪姫は自身の次元を最大限に引き上げ腰回りに出現させた二翼によって拘束から抜け出した。
――ここで退けば間違いなく……。
痛みも違和感もかなぐり捨てて前進する。
満身創痍な状況で、白い姿が跳ね上がる。振り下ろされた一刀。刀は異界の女の頭部を捉えていた。けれど、刀の軌道は、もう目の前に敵がいるというのに、逸れた。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
声にならない悲鳴。想像を絶する未知の痛みに意識は吹き飛び、筋肉はとち狂ったように痙攣し出す。地べたに崩れ落ちた雪姫は頭を抱えながらうずくまる。脳髄に流れる強烈な異変はこれまでに感じたことのない不具合。その不具合を脳は一切処理できないまま、症状はさらに悪化する。固形物一つない胃液だけの嘔吐は血反吐に変わる。
「ぁ、ぁあああ」
呻きながら呼吸もままならない状態で、雪姫は身体に生じた異変の正体を突き止めた。視えるものがオカシイ。感じているものがワカラナイ。情報が完結しない理解不能なある空間に自身の脳がつながっている。これは次元階級の格上げによる認識阻害だ。これは意図しない次元上昇によるオーバーヘッドだ。理作の魔眼を持ってしても到達できない地点に到達させられた。つまりは存在しないはずの次元だ。
雪姫は朦朧とした意識の中、顔を上げた。頭上にあるのは太極図の剱。その剱によって次元を引き上げられたのだと理解した。それに気付くまでに要した時間はどれ程のものだったろう、雪姫の魔眼に亀裂が入った時、太極図の剱が打ち下ろされる。それを間一髪でどうにか回避した瞬間、ずぶり、と雪姫の左眼に黒い女神の指が刺し込まれた。
「っ、イアアァァァァァアアア!」
絶叫。焼け朽ちるような左の目許。女の細い指先を突っ込まれた眼球はぽっかり空いたように失明する。畳み掛けるようにもう片方の腕が万力のように雪姫の首を絞め上げた。
「がっ、ぐ……」
「戦乙女あろう者が、世俗に塗れて血と涙を垂れ流し、反吐をぶちまける。なんと汚らしい」
右の指先についた雪姫の血液を振り払いながら、別の何かに嫌悪するように続けて言う。
「そして、なんと穢らわしく救いようのない人の世だ。生物界の頂点に君臨していると思い上がるのも甚だしい。私から見れば、人類は地球を蝕むガン細胞でしかない。下等動物よりも役に立たない蒙昧な存在に成り下がった人類どもに生きる価値はない」
「何を、言って……」
「分からぬのか? 私はこう言っているのだ。人類の平和ではなく、世界の存続を優先すると」




