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天命の巫女姫  作者: たけのこ
10章 受胎告知
252/285

インタールード⑥(魔の議事堂決戦 第二幕⑥)

 階数に換算して九階にあたる最上階のこの小さな空間は、昭和初期、日本一高い建物として展望台や灯台として利用されていたようだ。

 帝国議会議事堂。かつての国会議事堂の名称が記された柱に一匹のハエが立ち止まる。

 ローゼ・メアリーが待ち受ける議員会館に転生回帰者の魔法使いが到着した同刻、獣の少年――ベスティーが国会議事堂最上階に降り立った。


「Beast change(変身切り替え〈蠅〉→〈豚〉)」


 ハエに変身していたベスティーは一転。

 蠅、栗鼠、豚、鰐、虎、三頭猛戌。六種むくさの獣で構成される変身へんげ術のうち、最も嗅覚が優れている豚に変化した。

 古寂れた床に大きく頑丈な鼻先をつけたベスティーは、目処すべき特定の匂いを嗅ぎつける。

 思い当たるにおいが二つ。匂いと臭い。心落ち着く匂いと胸糞悪い臭い。その二つがこの議事堂内に滞留していた。


「Beast off(変身解除)」


 下に降りる螺旋階段を見つけて、この短い足では降りられないとベスティーは獣化を解いた。

 マンガリッツァのようなもふもふの毛は抜け落ちるように消え、分厚い皮膚は柔らかく、短い四足は直立型の二足歩行へと、その姿は金の髪が特徴的な七歳の少年に戻る。


「なんで、真神(母さん)の匂いがするんだ」


 心落ち着く懐かしい陽だまりの匂いはベスティーに特定の感情と記憶を呼び起こす。過去の思い出に浸りながら寂れた螺旋階段をゆったりと降りていく。



 物心ついた頃から狼が自分の母親だった。それが狼による刷り込みだったことは森の中でひっそりと暮らす人の姿をした狼から打ち明けられた。母親だと思っていた女性の姿が壮観で雄大な純白のフォルムに変化していく。


 白い獣は獣の姿で人の言葉を喋った。


『どうか怖がらないで。人の子よ』


 でもその声音は赤ん坊の頃から聞き馴染みある声音だったから全く怖くなかった。

 確かに驚きはした。でもそれ以上に美しかった。厳しい自然界で生き抜いてきたからこそ際立つ凛とした立ち姿に、全てを魅了する白いその毛並み。

 山の中に捨てられていた自分を拾って人として育ててくれたのが、幼い自分を怖がらせまいと人の姿に化け続けていた心優しき狼であった。

 その狼は人々に真神と崇め奉られていた山の守り神でもあった。


『なんで人の言葉を喋れるんだ?』

『遠くからずっと人間を見てきたからです』

『人間が……好きなのか?』

『そう言われるとそうですね。あらゆる生命体の中でこれほどまでに物見高くなる一種はいないと思います』

『俺は……嫌いだ。俺を捨てたのも人間だ』

『そうですね。その事実は変わりありません。ですが狭い視野を広げてみると人間すべてが悪いわけではありません。視野だけでなく思考も広げてみましょう。ここの山頂には社があります。その社に奉納されていたのが貴方です。貴方を捨てた人間も悪い人間ではなかったかもしれません』

『ならそいつは馬鹿だな。捨てるならもっとマシなところがあっただろ。人が来ない山に捨てればどうなるか、考えれば分かんだろ。……いや、きっとこうだ。誰もこない場所に捨てれば、罪に問われないってそう考えたんだっ!』


 沸々とこみ上げてくる激情のままに思いを口にする自分に狼の白い前脚が伸びる。殴られるのかと思ったが、慰められていることはすぐに分かった。


『やはりこの腕ではうまく撫でられませんね』


 再び、人間の女性に姿を変えた狼は、優しく微笑みかけながら口を開く。


『貴方の親は人として未熟だったのかもしれません。ですが純粋だったのでしょう。もしかしたら私の存在を信じて託したのかもしれません』

『……くだらない。獣のくせに人間を擁護するなんて』

『要は考え方次第です。善行か悪行か、どちらも考えられる場合、私は前者の可能性を信じたいのです』

『……。俺は獣が好きだ』

『まあ嬉しい!』


 ぱあ、と顔が明るくなるところは本物の人間みたいだが、嬉しさのあまり、特徴的な耳と尻尾がぴょこんと出ていることに狼は気づかない。


『俺がこうやって人の言葉を喋れるのも、病気にならずに健康でいられるのも、この森の動物たちが俺のことを優しく迎え入れてくれるのもすべて……真神(母さん)のおかげだ。でも人間にそこまで肩入れする意味が分からない。この森だって人間の手によって好き勝手に伐採されている。それを容認しておけば、いずれ動物たちの生活圏も失われることになるんだぞ』


 それに山の守り神は少し難しい顔をして、『ではこの森に立ち入る人間を殺せばよいですか?』冷たい瞳で言い放った。その問いかけに答えられずにいると狼は優しくこう言った。


『人間側の都合があるのでしょう。こちら側にも都合がありました。貴方を育てるために私は人に化け、人間社会に溶け込み、人間の食料を確保しました。人間社会ではこの行為を窃盗と呼ぶようです』

『だから何なんだよ』

『要はお互い様ということです』


 獣は堪能な日本語で人間を擁護し続けた。だが人間よりも人間のことを信じていた獣を襲撃してきたのはやっぱり人間だった。



 その忌まわしき人間の臭いが下の階から漂い溢れている。


「俺は人間が大嫌いだ。真神(母さん)を殺した奴を俺は赦さない」


 国会議事堂八階。ここはかつて国会の人間が社交ダンスの練習など、多目的ホールとして使用されていたロビーである。

 270平方メートルの広さはある空間の真ん中に立つベスティーは四方を見渡した。

 明かりのない暗闇の中、蒸気の音と水が泡立つ音だけが聞こえる。

 ベスティーの双眸が光る。ベスティーは暗闇でもよく見えるように眼球だけを虎の目に変化させていた。


「なんだ、これ……」


 異様な光景を目の当たりにした。

 数え切れないほどの透明な蒸留器が立ち並ぶ。その容器の中には得体の知れない液体が入っていて、ホルマリン漬けのように、ふわふわとヒトの形をした子どもが浮いていた。

 その子どもはあの夜、山を襲撃してきた碧眼の少年で間違いなく、そのすべてが本物だった。


「オリジナルの複製……人造人間ホムンクルスってか?」

「ちょっと違う。これらは確かに複製だけどすべてオリジナル、これらを含めてみな僕なんだ。彼も彼も僕で、僕もまた彼らと同じなんだ」


 子ども一人分のサイズはあるガラス瓶の後ろから碧眼の少年が姿を現した。数あるうちの一つのガラス瓶に手を付け、もう一人の自分をガラス越しに眺める。


「僕も初めは冠状動脈の血管と骨髄の中にある洞様毛細血管の結びつきで生まれた……僕は僕の中から生まれた存在なんだ」

「何言ってんだ、お前」

「分からなくていい」

「分かりたくもねえ。ただ分かっていることは、お前が俺の真神(母さん)を、殺したってことだ」


 言葉一つ一つに滲み出る殺意。その殺意を意に介さず少年は首を傾けた。


「母さん? 誰のこと? 身に覚えがないな」

「真神だ。山の、狼、だ」

「ああ、あの白い……。そういってくれなきゃ分かるものも分からない。そうだよ、かつての僕が殺した」


 淡々と答える少年にベスティーは今すぐに殺したい衝動を必死に抑えて、理由ワケを聞く。


「なんで、殺した」

「狼は狂暴過ぎる生き物だから人間の手で排除しなくてはならない」

「知ったような口を叩くな。狂暴なのはお前ら人間の方だろ」


 怒り狂った虎のように少年の周りを回る。ごうごうと髪を逆立て、金の瞳は憎悪に歪んだ。


「そう、怒るなよ。今のはこの国のお偉いさんを納得させるための表向きの理由。真の理由は神性を帯びた生命体を用いた錬金魔法の成功事例を創出したかったから」

「したかったから? ふざけんなっ!」


 野獣の腕へと隆起した右手。分厚いガラス容器を砕く激しい音。激昂した獣の少年が歯を剝きだしにして怒鳴った。


「ふざけてなんかないさ。大変だったんだ。真神がいることは分かっていたけど、なかなか正体を現さなかったから。だから君には感謝している」

「は?」


 復讐に燃えて怖ろしく引きつっていた顔が途方に暮れる。少年から告げられる真相にベスティーは愕然と息を呑んだ。


「あの神獣は人の子を拾ったことで表に出ざるを得なくなった。君という存在のおかげで真神は尻尾を出してくれたんだ。この際だから全部教えてあげるよ。君の本当の母親は君を山になんか捨てていない。君は公共の児童養護施設に預けられたんだ」

「あり得ねえあり得ねえあり得ねえだろっ。じゃあ、なんで俺は山で育ったっ!」

「それは施設の職員が君を意図的に山に捨てたからだよ」

「……嘘だ。嘘をつくなっ」

「嘘か真か、信じるか信じないかは、君の受け止め方次第だ。僕には関係ない」


 その言葉はベスティーの耳には入っていなかった。かつて自分を子として育ててくれた真神が信じ抜いていた人間という生き物がここまで醜いものであることにベスティーは心底から失望し、憤る。


 ――これじゃあ、人間の善心を信じていた真神(母さん)が馬鹿みたいじゃないか。


 陰惨な部屋の広大な空間に、少年の苛立ちが獣の叫び声となって響き渡った。

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