10―1 後朝の別れ①
大きなベッドの上に立つ目覚めの戦乙女。魔法使いであるニアの膨大な魔力を回収したことで目覚めるまでに至ったのだろう。
絹糸のようにきめ細かく腰まで垂れた長い白髪。大きな双眸はこちらを呆然とさせるほどで、魂の底まで見透かされているよう。
見かけはこの通り。140センチほどのほっそりとした、まるで子どものように華奢で小柄な存在なのに、峻厳で近寄りがたい神聖さがあった。
「魔力の回収、ご苦労様です、コハク。ずいぶんと大きくなりましたね、歳はいくつになりましたか?」
近寄りがたい印象が消えて、神聖化されたその透徹された瞳には不思議な暖かさが灯っていた。
「十七歳になりました」
「そうですか、十二年ぶりですね」
「……はい」
陽玄の向かい側で立ち尽くす琥珀は緊張しているのか、待ち望んでいた戦乙女の覚醒だというのにその表情に嬉しさというものは感じられなかった。
「あ、あの――」
「状況説明は結構です。あなたの傍にいる少年が魔術師というのも見ればわかります。なぜ魔術師と同行しているのか、それに関しては色々と言いたいことはありますが、あなたの成果と少年の貢献に免じて見逃しましょう。今はそんなことよりも聖典教会の瓦解です。良いですね、コハク」
「…………はい」
少しの空白があった後、琥珀は首肯して、ニアがそうしたように無防備に胸を差し出した。ベッドの上に立つ雪姫と名をつけた戦乙女は、その小さな右手に天の剱を具現化させる。長い刀身を携えながらベッドから降りた雪姫がその切っ先を琥珀の心臓に突き刺そうとした時、事の重大さに陽玄は気づいて咄嗟に琥珀の前に割り込んだ。
「ま、待ってください」
「何を待つのですか。私と琥珀の問答に部外者のあなたが付け入る隙はないと思いますが。それとも何でしょうか、あなたも魔力を返還されに来たのですか」
言葉遣いこそ丁寧だが、周囲に発せられる気迫のようなものが緊迫感を生ませる。
「部外者じゃありません。僕は彼女のことが好きなんです。だから確認させてください」
陽玄は琥珀と向き合い、問いかける。
「魔力を失えば、君は普通の人間に戻れる。もう戦わなくていいんだよな?」
「……うん、そうだよ」
「じゃあ……どうしてそんなつらそうな顔、してるんだよ。何にそんなに怯えて、いるんだよ」
陽玄の追及に琥珀は今にも泣きだしそうな顔を浮かべて床にへたり込んだ。
「伝えていなかったのですか、コハク」
陽玄の背後に佇む雪姫が言う。
「何を」
「……。彼女が生きていられるのは魔力のおかげということです。私が駆けつけた時には既に彼女は助からない命でした。それでも生きたいと望んで死んでいった彼女に、私は魔力を分け与えて蘇生させたのです。つまり一度死んでいる彼女は魔力がなければ生きていられないのです」
「一度死んでいる……?」
「ですが問題ありません。死んだ者が死に帰るだけですし、今彼女からも同意を得ました」
「今の彼女を見て、あなたは何も感じないのか」
「感じますよ。ですが、人は老いるのです。死ぬのです。それが不幸な事故であろうと、不治の病であろうと、災害で命を奪われようともです。私は御伽噺に出てくる人々を幸福に導く天使でもなければ、災いから人々を加護する天使でもありません。私は自然摂理外の障害から人々を守るために創られた戦乙女です。……心苦しいでしょうけど、彼女もそれを分かった上で承諾しています」
「でも、琥珀はずっとあなたが眠っている空白の十二年間、一人であなたの代わりをやってきたんです。彼女は戦乙女の代行者になりたくて生きたいと思ったんじゃない、まだある未来に心躍らせ、一人の人間として普通の暮らしを送りたかったはずなんだ」
「それが仮に彼女の真意であろうと、死ぬはずだった者がこうして十二年間、生きてこられたのです。それだけで奇跡なことだと思いませんか? そうは思いませんか、コハク?」
「……はい、ここまで歩んできた日々は、奇跡としか言い表せないくらい、素敵なもの、でした」
顔を上げて言う琥珀の言葉はどれも機械的だ。心なんて何もこもってない伽藍洞のような、見ていてこっちがつらくなる。
「僕は分からない。奇跡なら、素敵なものだったなら、もっと嬉しそうな顔して、……しろよっ」強く言って陽玄は雪姫に視線を向けた。
「僕は納得ができない」
「分からず屋ですね」
「ああ、そうだよ。僕はまだ尻の青いガキなんだ。僕の夢と理想を叶えるために、彼女は死なせない」
「……。開き直りの強情な人間には何を言っても話が通じないと理解しています。良いでしょう、死なせたくなければ、全力で私を止めてみることです。目覚めの肩慣らしがてらあなたの我が儘に付き合ってあげます」
天の直刀が消えると、雪姫は琥珀の背後に瞬間移動していた。床に座り込んだままの琥珀の襟元を掴むと窓から見える遠くの景色に目を呉れた。
「この建物から歩いて三十分ほど先にある、緑道近くの公園であなたの我が儘に付き合います。彼女を守りたければ、せいぜい私を打ち負かすことです」
そう布告すると雪姫と琥珀は忽然と姿を消した。
…
信じられないと、夜風で靡くカーテンを見つめて陽玄は驚く。
ホテルの最上階から庭まで五十メートル以上はある高さから飛び降りたのだ。陽玄は全開になった窓枠に落ちている白い羽毛を見つけて拾う。
「そうか、そうだよな、彼女には翼があるもんな」
ホテルの一室に一人残された陽玄はボロボロになった衣服を脱いで、クローゼットに吊るされていた作務衣に着替える。鞘に納めた刀を手に持った。隠し持ちながらホテルの廊下を走った。
エレベーターに乗ってホテルの出入り口へ。外に出た時、陽玄は一呼吸置く。血液の喪失感からくる眩暈と吐き気。コンディションは相変わらず最悪だが、大好きな彼女の命運をひっくり返す展開に心は熱く燃えていた。眠気も覚める十分な原動力である。
「絶対、絶対一緒に帰るんだよ」
夜の市街地を走った。
市街地の中心に設けられた一本の緑道。雪姫に指摘された公園はすぐに目についた。『希望ヶ丘公園』森に囲まれた園内に入った瞬間、都会にいることを忘れさせるような風景が広がっていた。造作物の多い洋風さを感じさせるような公園。レンガで作られたアーチ橋をくぐると、壁泉から水が流れている広場には大きな時計台があった。時計の針は夜の九時を指している。
幸いあたりに人はいない。ここにいるのは雪姫と琥珀、陽玄の三人だけだった。おそらく園内には他者の意識を遮断させるような何かしらの結界が貼られているのだろう。肌がぴりつく感覚がある。
「……」
時計台には休憩所があり、ベンチに座り込んでいる琥珀の表情は木々の陰に隠れていて窺えない。
「随分と早い到着でしたね」
「そりゃあだって、すぐにでも琥珀に会いたいもん」
時計台に続く階段から雪姫が下りてくる。
「僕が勝ったら彼女から魔力を奪うことはよしてくれ」
そう言うと陽玄は鞘から刀を抜いた。常闇色の刀が闇に染まった園内に溶け込む。
「奪う? 私はただ返還しているだけです。あなたの体内に流れている魔力も返還しなくてはなりませんね」
雪姫の右手に天の剱が具現化された。滴るように艶やかな刃と完成された曲線美。その曲線を伝う光の粒が闇夜を美しく照らす。凛とした優雅さは刀もそれを扱う妖精も同じだった。
円形の広場で陽玄は雪姫と対峙する。敗北すれば琥珀は死に、陽玄の魔力も剥奪される。すべて失うのだ。自分の魔力が剥奪されるだけなら何も問題はないが、琥珀が死ぬ結末だけは何としてでも阻止しなくてはならない、と柄を握る手に力が入る。
――絶対に負けられない。




