インタールード⑦(巡り合わせ)
「反転、まさか――」
教祖の男が振り向いた時には湾曲した鋭い獣の爪が目先にあった。視界に入り込んだ流れる爪の鋭端。獲物を狩る獣爪が大槌のように振り下ろされる。
ズドンッ。
教祖の首がすとんと大根のようにずり落ちた。左肩から右脇腹へ、斜めに五本爪の凶器が引き下ろされる。
裏切った男の表情を見るまでもなく、教祖の男はあっけなく死んだ。床に倒れた身体は真っ二つに切断された。見る見るうちに赤い水溜まりができる。まるでナイフを差し込んだハンバーグから溢れ出す肉汁のよう。切り落とした肉の断面からはとめどない血液が零れ出していた。
「はは、ははは、はははははははははははははははははははっ!」
獣の雄叫びのように高々と笑う男の声が教会の空間に反響した。
△
下水の通路、湿った壁に身体を預けながら陽玄は歩く。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、琥珀……」
魔力も気力も体力も、先ほどの戦いで何もかもが消耗していた。戦う力は残っていない。数秒後、数メートル先、歩いている自分の未来が見えない。あるのは、あと数歩、歩けばボロボロに崩れていく感覚だけ。
「琥珀、琥珀、琥珀……」
もう一度、彼女と重なる熱を背に感じたい。寒い。もうまともに動かせなくなっている。魔力の流れを調節するために千切れた血管を別の血管に繋ぎ止めたのがよくなかったのか。全身に流れる血液は血液じゃないみたいに異物感となって吐き気を催させる。眼もだ。眼も。眼を覆いたくなるほど、今この眼に映る景色が気持ち悪い。別世界を見過ぎた反動か、視界は歪み渦巻いていて、身体機能と意識がかみ合わない。
「琥珀……、琥珀に会いたい、よ……」
肩を腕を、腰を脚を、全身隈なく貫かれてもなお止まることなく戦った。修復したのはあくまで血管であり、裂かれた皮膚の修復は後回しだった。
陽玄はズルズルと壁に寄りかかりながら倒れていく。琥珀に貰った首飾りのペンダントを握る。皮膚は垂れ下がり、骨は剝き出た状態。頭も回らない。瀕死の身体が濡れたコンクリートの床に溶け落ちていく。それが妙に気持ちよかったりする。
「こは、く……、何だかちょっと、眠たいや……」
霞む意識の中、うわ言を漏らすと、そこに新しい足音がした。分からない。前も後ろも真っ暗な通路を照らすほどの白い靄がこちらに向かってくるのは何となく分かる。けれどそれが何なのか霞みがかっていて正体は掴めない。白く眩しい朝の光のように、光の領域が辺りの闇を後退させていく。
ぼんやりと鈍く光る人影が陽玄の前で腰を下ろした。光芒が差すかのように白く発光した手が陽玄の肩に触れた、気がした。
そこで陽玄の意識は途絶えた。だが脳に直接語り掛けてくる見知らぬ少女の声があった。
――動きなさい。巫琥珀に会いたいのなら。
再機能の言葉を吹き込まれて、陽玄は目を見開いた。起き上がると、目の前には白髪の少女が床に倒れ込んでいた。吸い込まれそうな乳白色の肌。触れたくなるような金色に近い白の毛髪。白以外寄せ付けないような、月の白銀の光で作られたかのような姿は、この少女が神の使いであったことを如実に示していた。
「どうして、こんなところに……」
そんな疑問も差し置いて、自然と手が伸びる。白いベビードールに包まれた雪姫を抱き上げた瞬間、千里眼を得たかのように琥珀が今何処にいるのか分かった。
「琥珀っ!」
陽玄は下水路を走る。浴槽から出てきたように湿った足音が響き渡った。
もう一歩も動けなかったはずの身体は走れるまでに回復していて、全身にあった傷も癒えていた。あの時、全身を包み込んでくれた優しい光は紛れもなく雪姫のモノだった。陽玄の魔力が回復したのはおそらく戦乙女の特権である魔力譲渡が要因なのだろう。ということは一時的だが雪姫は目を覚ましたということなのか。
何はともあれ身体は自由に動く。琥珀が取り戻そうとしていた雪姫もここにいる。あとは琥珀を連れ帰るだけだ。
頭に浮かぶ風景は礼拝堂。そこにいるのは三人の人物。そのうちの一人が琥珀であることに間違いはない。残りの二人は知らない。
陰鬱な下水路を抜け、地上に続く階段を駆け上がった。
その勢いのまま扉を開けると、目に入るよりも先に鳴り響く音楽が耳に入り込んできた。アルビノーニのアダージョ。悲壮感なクラシックが目の前の惨劇をより陰翳に引き立たせる。
陽玄は唖然となった。教会の中心に立つ男はその音楽をかき消すかのように笑っていて、その後ろには首なしの身体が血の海に浸っている。そして、横並びに立つ長椅子の先には、陽玄が恋焦がれた金髪の少女がこの戦局を厳然たる表情で見下ろしていた。
「琥珀っ!」
陽玄が呼びかけるまでこちらの存在に気付かなかったのだろう。聞き覚えのある声に反応した琥珀は無防備な表情を陽玄に向けた。
「ヨーゲン、君……」
白装束のような袴を纏っている琥珀に怪我はないようだ。無事で良かった。それに越したことはない。陽玄は血の上で笑い続ける男を警戒しながら横切った。一刻も早く琥珀の近くに、傍に行きたかった。
「琥珀、良かった」
「その血、どこを怪我し――」
陽玄の腕の中にいる雪姫を見て、琥珀は言葉を失った。
「大丈夫。君が取り戻したかったものはここにあるから」
「……ごめん、ありがとう」
「うん。だから早く帰ろう」
「でもまだ――」
「駄目だ」
「まだ何も言って――」
「これ以上は駄目だっ。誰にも言わずに独断専行した琥珀の言うことなんて聞けない。今は僕の言うことを聞いてもらう」
陽玄は琥珀の手を引っ張り、強引に連れていく。国の主要拠点は壊滅的な状態だ。立て直すには相当の時間がかかるだろう。けど一般人への被害は免れた。なら後のことはどうでもいいはずだ。陽玄の目的はあくまで琥珀を連れ帰ることであり、敵の魔術師を一人残らず殺害することではない。何より剣術を行使できるまで魔力は回復していない。琥珀は残りの魔術師から魔力を回収したいのだろうが、いざという時、彼女を守れる余裕が今の陽玄にはなかった。
琥珀が言いたいことを差し置いて、地上を目指す。議事堂の出口を目指す。きっと陽玄よりも先に銀が外で待っているはずだ。早く家に帰る。早くここから離れる。じゃないと――。
階段を上がり、蓋のような隠し扉を開けた。
敵の拠点は会議が開かれる議場の下にあった。議長席の隣、内閣総理大臣席から地下へとそれは繋がっていた。議長席を中心に左右にそれぞれ二つの席が扇状のように並んでいて周囲が一望できる。
「琥珀、行こう」
「……」
陽玄は赤い絨毯が敷かれた通路を走る。雪姫を抱えながら琥珀の手を握って。
「――っ⁉」
その時、上の階で凄まじいうねりのような爆発が起きた。瞬く間に国会議事堂の建物は爆発の衝撃に巻き込まれる。地響きのように床が激しく振動する。身体は立っていられないほど激しく揺れ、思ったように進めない。
もはや陽玄がいるここが瓦礫の下敷きになることは避けようのない運命だった。落雷の中にいるみたいに、瓦礫の雨が次々と降り落ちていく。駄目だ。間に合わない。このままじゃ生き埋めになる。議場を出られたとしても広間に出た瞬間に瓦礫に押し潰される。ならまた地下に戻るしか――。
「大丈夫」
降り注ぐ一面の瓦礫と土砂。見える世界が黒く塗り潰される中、琥珀は左手を天井へと向けた。何故だろう。切羽詰まった状況なのに、陽玄は息を切らしていたことも忘れて、鮮やかに秘めた光が灯りだす彼女の手中を、眺めていた。そういえばと、前にもこんなことがあったなと、いや、何度もそうだった。
――僕は何度も彼女に助けられてきたんだ。




