9―9 この世で一番嫌いな女
消えた。
いなくなった。
琥珀は何処に行ったのだろうか。
一体、どこに、どこに、どこに。
それから、部屋の中でどれだけの時間、立ち尽くしていただろう。陽玄を現実に引き戻したのは、銀の冷静な声だった。
「たまたまどこかに出掛けているだけで、きっとすぐに帰ってきますよ。そうです、ちょうど良かったじゃないですか。彼女が戻ってくる前にパパッと朝ご飯を済ませてしまいましょ。ね?」
「……あ、ああ」
銀に言われてリビングに戻ってきたものの、作る気は湧いてこなかった。それを見据えてか、エプロンを着た銀が代わりに作りますと言ってキッチンに入ってきた。
「何を作りしょうかね」
銀が冷蔵庫の扉を開けるとそこには昨日琥珀のために作り置きしておいたハンバーグが残っていた。
「そう言えばハンバーグが残っていたんでした。どうです? ここは思考を凝らしてハンバーグ茶漬けはいかがですか?」
陽玄が和食好みだと思って気を遣ってくれているのだろう、銀は明るい声音で持ちかけてくる。
「そうだね……いいんじゃないか」
「じゃあ決まりですね! すぐできますから座っていてくださいね」
銀は早速お茶碗にご飯を盛り付け、その上にハンバーグを乗せる。それを電子レンジで温めた後、熱々のだし汁をかけてネギと刻みのりをトッピングした。
「はい、出来上がり〜、食べましょ」
「……いただきます」
一口食べた。美味しい。けど胃の中は不安と心配でいっぱいで食事が思うように喉を通らない。
結局、食事どころではなかった。
陽玄は二、三口食べたきり、箸を持ったまま、玄関のドアが開く音をずっと待っていた。向かい側に座る銀もその姿に呆れていたことだろう。
今になって改めて彼らの気持ちが痛いほど分かる。
千幸の父親もこんな心境だったのだろう。大切な愛娘を亡くしたくない気持ち。失わずに済む選択があるのならそれに縋りたくなる。現に琥珀を失いたくない。
失った後、自分はどうなるだろうか。
一人で孤独と戦っていた美咲黒羽がどれだけ強い子だったか、琥珀がいなくなった今、自分の弱さを思い知る。自分はこの先の人生を、会いたいと思っても振り返ってもいない毎日を過ごしていく強さがあるだろうか。
同じく三日月理人に対してもだ。
彼とは境遇が似ていた。陽玄と同じように彼も琥珀に拾われ、少しの間生活を共にした。孤児院の中でいくら待っても戻ってこない彼女を待ち続ける彼の心境はさぞかし寂しかったはずだ。現にたった数時間、顔を合わせていないだけで陽玄の心は荒み、突き放されるのなら手放したくないと思ってしまう。
幸せとはいいものだ。琥珀と出会って幸せというものがどういうものなのかを知った。けど、幸せを知れば知るほど、深くなればなるほど、失った時、不幸の度合いも大きくなる。至極当然のことなのだが、今はそれがすごく怖い。
雪によって漂白された窓の外をぼんやりと眺める。琥珀が帰ってこないと何も始まらないから早く帰ってきて欲しい、などと陽玄が願った矢先、洋館には不釣り合いな音が響いてきた。
「琥珀……?」
箸をおいて椅子から立ち上がった。ごんごん、という音は玄関の方から辛抱強くずっと続いていた。琥珀が帰ってきた、と先行的な感情は玄関ホールに向かった時には冷静になっていた。
「……誰だ」
琥珀じゃない誰か。古い家だが、呼び鈴らしきものはあるのに玄関のドアを叩いてくる訪問者。高台の森の中で密かに佇むこの巫邸にピンポイントでやってきた正体不明の何者か。
陽玄から見れば、両開きの玄関ドアは要塞のように堅固だが、扉を叩く音は妙だった。
人間の手ではないような、硬い工具で叩いているような怪音がする。頑丈な扉が破られることはないと思うが、こちらが開けない限り何度も続くノックの果てに、ドアは悲鳴を上げるように軋んでいる。
陽玄は警戒しながら玄関のドアノブに手を掛けた。ゆっくりとドアを開けて、訪問者の正体を覗き見ようとした時、ガシッと突き破るかのようにドアの隙間に相手の手が差し込まれた。
「――⁉ 誰だっ!」
「……」
名乗らないなら問答無用。強引にドアを閉め戻したことによって訪問者の手が容赦なくドアに挟まれた。だが、相手の手は退かない。痛みによる悲鳴も反応もなく、黒い革手袋に包まれたおかしなほど頑丈な手が中へとめり込んでくる。
このまま出てこないのならば、こう行かせてもらうと言わんばかりの荒業に、埒が明かないと思った陽玄は断念して手を引いた。
「……」
正体不明の訪問者の顔を見て、驚いた。直後、胸の底から湧き上がった緊迫感と危機感に遅れて殺意が芽生えた。
細いが、芯のあるきりっとした女性。自分の背が伸びたからか、背丈は陽玄とほとんど変わらない。黒の地味な彩色のダッフルコートは厚手だがゆとりがあり、銃器を隠すには最適な格好だろう。
隠れているものと言えば、もう一つ。女の右眼が包帯に覆われているということだが、深追いするまでの、関心はない。
疑問はただ二つ。
なぜこの場所を知っていて、なぜここに来たのか。
目の前に立つ女は堂々としているが、戦闘中の威圧さは清々しいほどなく、優しげな微笑みを浮かばせている。だが、陽玄はこの女の正体を知っている。こちらの動揺を分かった上であえて穏やかな表情をしてみせている演技に違いない。
うなじから背中にかけて掛かるか掛からないか程度の髪の長さ。
漆黒の髪は不吉だが、凛とした女との組み合わせは怖いほどこの上なく似合っていて、街で見かければ誰だって美しいと、そう判断するだろう。
だが、対照的に心の方は酷く醜い。醜過ぎて見たくもないほど。
剣崎陽毬。
それがこの女の名前。
陽玄がこの世で一番嫌いな女の名前である。




