9―6 少女の述懐①
銀が車を剣崎家の駐車場に戻している間、陽玄と琥珀は館に戻ってきた。帰り道、陽玄よりも二歩、三歩とどんどん前に歩いていく琥珀の後ろ姿を見て、いつも近くにいた彼女が離れていく感覚に襲われた。
悴む手を動かしながら玄関で靴を脱ぐ。冬の寒さからか、いや、違う。この期に及んでまだ彼女に言われたことが受け止めきれなくて思考が回らなくなっているだけだろう。
「ヨーゲン君」
玄関ホールで待っていた琥珀に名前を呼ばれて陽玄は顔を上げた。玄関の薄暗い灯りに映える琥珀の表情は殺風景だがすごくきれいでそこにいるのは棚に飾られた人形のようだった。
「夜ご飯、あたしの分は作らなくていいから」
静かで寒い部屋の中で彼女の声が冷たく突き刺さる。
「どうして」
「お腹空いてないから」
理由だけを端的に告げて琥珀はそそくさと二階へと階段を上っていく。
「待って、待ってよ」
陽玄が必死に呼びかけても琥珀の足が立ち止まることはなく、二階に姿を消した。彼女の拒絶にも見える反応に、それ以上陽玄は彼女の後を追うことができなくなった。
ビニール袋に入ったひき肉がちらりと陽玄の視界に入る。今夜は琥珀が好きなハンバーグを作ろうと思っていたのに、食べてもらいたい本人がいらないのなら作る意味もない。意味も。
「ハンバーグ……」
虚しさを呟く。何を作ろうか考える時はだいたい琥珀の笑った顔を思い浮かべていた。何を作ったらおいしそうに喜んでくれるか。笑った顔を想像しながらいつも料理を作っていた。まあ、何を作っても彼女はおいしそうに食べて、嬉しそうに笑ってくれるんだが、でもそんな些細なことで生きていられると思ったんだ。
でも、だからどうしたんだろう。これは単なる陽玄自身の問題で、彼女が今幸せならそれでいいじゃないか。
ただ少し、自分の幸せを叶えることができないことに少し、ほんの少しだけ寂しくて悲しかっただけなのだ。
「とりあえず、ご飯を作ろう」
気持ちを切り替えて寂しさを料理で埋めることにした。陽玄がキッチンで料理をしているとがちゃりと玄関のドアが開く音がした。車を剣崎邸に戻してきた銀が帰ってきたようだ。
リビングに戻ってきた銀は子どものように大粒の涙を流していた。
「ど、どうしたの?」
「ごめん、なさいっ、私のせいで、二人の仲を悪くしてしまいました」
「ああ、そういうことか。大丈夫、銀が思い詰めることじゃないから。それよりお腹空いただろう、今ご飯作ってるから待っててね」
料理を作ることに集中しているからか、今はそこまで悲しくない。それにせっかく人差し指の傷口がきれいに治ったのにまたしょうもない怪我をしたら面目が立たない。銀が泣きながら戻ってきたのは少し驚いたが。
「どうして、そんな平気でいられるのですか」
涙を拭いながら銀が訊ねる。
「別に平気なんかじゃないけど、僕が一番嬉しいのは巫さんが幸せそうに笑ってくれることだから。だから彼女がそう決めたのならそれでいいんだ」
陽玄はハンバーグのたねをボウルで練りながら言う。
「そんなの駄目です。彼女はあなたと一緒に話している時が一番楽しそうでした」
「そうかな、そうだったら嬉しいな」
「それに言ってましたよね、普通の女の子に戻したらその時にもう一度告白するって」
「……うん、まあ、一人の人間としての尊厳を取り戻してあげたいとは思う。それがきっと彼女の幸せにつながると思うから……でも告白はもういいかな」
「何でですか、おかしいです。どうしてあなた方二人は自分の幸せを無下にするのですか。人間というのは自分の幸福が土壌にあってこそ他者の幸せを願うものなんじゃないのですか」
「だから彼女の幸せが僕の幸せだから僕はそれでいいんだよ」
陽玄はフライパンにハンバーグを乗せて焼いていく。パチパチと弾ける脂が飛んでくる。
「じゃあ悲しそうにしていたのは何だったのですか。彼女がくれる幸せを心のどこかで心待ちにしていたからこそ、その分悲しかったんじゃないんですか」
陽玄は静かにため息を吐く。吐息は肉が焼ける音にかき消された。
「……僕のことはもういいから、君は自分のことを考えていればいい。君も助けたい人がいるんだろう?」
言って、陽玄はハンバーグを焼いているフライパンに蓋をする。銀は立ち尽くしたまま、何か言おうとして諦めた。
「うん、話はもうおしまい。もうすぐできるからご飯にしよう」
「……。琥珀さまはどこに?」
「呼んでこなくていいよ。巫さんはいらないから」
「でも彼女の分も作っているんじゃないのですか」
「……まあ一応。もしかしたら夜中にこっそり食べるかもしれないし、多めに作っておいて損はないと思うから」
作ってないと嘘でも言えばよかったのか。銀は陽玄の返答になおさら悲しそうな顔をした。
「そんな顔しないで、ほら、一緒に食べよう。食べたら元気がでるよ」
「……はい」
銀と二人で食べるのはこれが初めてだったが、特に会話はなく食事は淡々と終わった。
食器を洗い終えた陽玄はダイニングテーブルの椅子に座る。対してリビングのソファに腰を下ろしている銀はテレビをつけて気まずさを紛らわしているようだった。
自分が全部悪いのだが、間が持たないのはいやだなと思う。だから早く琥珀との関係性を修復して元に戻せたらいいのだが……。
その瞬間、玄関ホールから電話が鳴り響いた。
陽玄は椅子から立ち上がり、玄関に続く廊下を歩く。
誰からだろう、と鳴っている電話の受話器を手に取った。
「はい、もしもし。どちら様でしょうか?」
「あ、陽玄さんですか?」
明るく涼やかな少女の声。聞いただけで声の主が分かった。美咲黒羽からだ。
「ああ、うん。美咲ちゃんだよね? 元気そうでよかった」
「はい、元気です。でも陽玄さんはなんだか、元気がなさそう?」
「え、そうかな、声だけ聞くとそう感じるだけだよ」
「ごめんなさい、私の勘違いみたいでした」
「謝らなくていいよ、それより巫さんに電話だよね」
「はい。遅くなってしまってごめんなさい。養護施設に入所するための手続きだったり色々あって」
「そっか。じゃあ今はもう施設の方で暮らしているんだね」
「はい」
「楽しい?」
「はいっ!」
一際元気な返事が聞けて陽玄は素直に喜ぶ。
「良かった。……今、巫さん呼んでくるからちょっと待っててね」
受話器を置いて、二階の部屋にいる琥珀に声を掛けに行く。少し気まずいが話しかけるきっかけができてよかった。
彼女がいる部屋の前に立った。普段なら気軽に話しかけられるのに喉が渇いてすぐに詰まる。でもいつまでも黒羽を待たせるわけにもいかない。
「……こ、琥珀」
「なに?」
良かった。返事をしてくれた。
「美咲ちゃんから琥珀に電話が来てる」
「美咲ちゃん……黒羽ちゃんがどうして?」
「そんなの君と話がしたいからだよ」
「……」
しばらく沈黙があった後、部屋の扉が開いた。よそよそしい態度で出て来た琥珀は、陽玄の横を通り過ぎて一階の玄関ホールに向かった。
電話を終えて琥珀が戻ってくるのをここで待っているのもなんかいやなので、陽玄も一階のリビングに戻ることにした。
「誰からの電話だったのですか?」ソファに座っている銀が訊いてくる。
「美咲ちゃんっていう女の子からなんだけど銀の記憶に残ってるかな、倒れていた姉(鉄)を助けようとしてくれた子なんだけど」
「うーん、覚えがありませんね、心配そうに声を掛けられたことは記憶にあるのですが、名前は愚かお顔も記憶にないです」
「そっか」
「お礼が言えたら良かったですが、私が出るとその少女も混乱しますよね」
「そうだね。同じ家で暮らしていることになっちゃうし」
「用件は……っと私には関係のない話ですよね。出しゃばりました」
「まあ、僕とは挨拶程度で、今日電話を掛けてきたのは巫さんに用があったからだから今頃二人で楽しく話していると思う」
「……そうでしたか」
「うん」
「……陽玄さんはいいのですか?」
「? 美咲ちゃんとの電話?」
「違います。琥珀さまとです。すれ違いがこれ以上生まれないよう、今必要なのは会話だと思います」
「……でも、なにを話せば、いいのか……」
「今までのように自分が思っていることを言葉にすれば、彼女の方も心を開いてくれると思います。好意がある無しは別として決してあなたのことが嫌いなわけではないのですから」
「……うん。そう、だね」
銀の助言に背中を押されて陽玄は玄関ホールに向かう。陽玄もこのぎくしゃくとした関係を明日に持ち越したくはない。できるだけ早くいつも通りの彼女と話がしたい。玄関の方からは会話の声が微かに聞こえた。陽玄は階段の陰にそっと身を置いて電話が終わるタイミングを待った。会話の内容は分からないが、とりわけ盛り上がるわけでもなく、二分ほどして黒羽との電話は終わったようだった。
がちゃりと受話器が置かれる音と同時に、陽玄は琥珀の前に自然と飛び出した。
「琥珀」
「……なに?」
琥珀は陽玄の顔を一瞥した後、視線を逸らして問いかけた。
「えっと、……、美咲ちゃんとはどんな話をしたんだ?」
何を訊いているのだろう。そんなことはどうでもいいのに。
「……秘密」
「そっか……」
「もういい? 部屋に戻りたいんだけど」
「ま、待って」
陽玄は階段の前に立ち塞がって彼女の進路を封鎖する。
「このままぎくしゃくしたのはいやだから、いつもみたいに親し気な関係性でいたいんだ。一緒に雪姫を救い出すんだろう?」
「……あたしは君のことを振ったんだよ?」
「それとこれとは別……ううん、違う。君が僕のことを好きじゃなくても僕が君のことを好きだからだよ。振られたからって僕が君を好きじゃなくなるわけじゃないよ。……その、気持ち悪かったらごめん。……でも僕は君が幸せだったらそれでよくて……だから、僕がいるせいで君の幸せの邪魔をしているのなら、僕はいなくなるしかないんだけど、使い勝手の良い武器としてなら利用価値はあると思うから、……僕は、君の傍に、いたい」
結局、隠す筈の自分の幸せを隠しきれずにはいられなかった。
「…………っ」
琥珀は複雑な表情を浮かべるが何も答えてはくれなくて、しばらく立ち尽くした後、思い悩んだ顔を振り払うようにして答えた。
「もういいから。部屋に戻りたいから、そこどいて」
「ごめん……」
何に謝っているのかさえ分からず、陽玄は棒立ちになった身体を動かして道を譲る。
「……ハンバーグ、琥珀の分も冷蔵庫にしまって、あるから、良かったら、食べ……」
階段を上っていく琥珀の後ろ姿を目で追いながら最後まで言おうとしたが、だんだん心が苦しくなって喉から声が出なくなった。
リビングに戻ると銀が不安そうな面持ちでこちらを見てきた。
「どうでしたか?」
「よく分からないや……、ごめん銀、今日はもう疲れたから寝るね」
「…………はい」
リビングを後にして自分の部屋に戻るまでの間、陽玄の脳内では琥珀と過ごしてきた思い出や彼女の笑った顔が走馬灯のように駆け巡っていた。




