0―21 再会①
「兄さま、おはよー」
静かで緩やかな時の中、微かではあるが聞き慣れた声がする。
(おかしいな、こんなに意識が沈むことなんてなかったはずなのに)
深く沈んでいた意識が半覚醒する。
「あ、兄さま起きた?」
「……ん、ああ」
目を開ける。
自分のすぐ隣――枕元には美楚乃が横になっていた。
というよりなんでそんなにんまりした顔で。
それと顔が近い。
ああ、そうか。あのまま寄り添いながら眠っていたからか。
「……美楚乃、僕の顔を見て面白いか?」
「ううん、面白くないよ?」
「じゃあ、なんでそんなにやけてるんだよ」
「だって、いつも起こされるのわたしだもん。だからこうして兄さまを起こして、兄さまの寝顔見られたのが嬉しいの」
「……。そうかよ。それは良かったな」
照れくさくなってベッドから身体を起こした。
「今、朝ご飯作るから」
「んー、でももう昼だよ?」
嘘だと思いつつ、時計の針に目をやるともう正午過ぎになろうとしていた。
「マジか……。美楚乃も今起きたのか?」
「ううん、九時ぐらいに起きたよ」
「ならなんでその時起こしてくれなかったんだよ。二度寝でもしたのか?」
「……本当は起こそうと思ったんだけど、寝顔が可愛くて起こせなかったの。……それにずっとぎゅってしてくれてて、それがすごく心地よくてもう少しこのまま、もう少しこのままって続けてたら、こんな時間になっちゃったの」
何て恥ずかしい理由だ。聞いてるこっちが恥ずかしくなることをよくもまあ、口にでき――訂正、自分で言っておきながら美楚乃も頬を赤くしていた。
「もういい、起きなかった僕が悪かった」
照れ隠しで断言する。
「でも帰り遅かったから、疲れていると思ったし、無理に起こすのも悪いかなって」
初めからそう言えばよかったんだ。まったく。けど別に身体はそこまで疲れてはいない。どちらかと言えば、心の方が疲れていたのだろう。
「とにかく、朝ご、昼ごはん作るから」
「作らなくて大丈夫だよ。昨日作った夜ご飯があるから」
「僕の分も作ってくれてたのか?」
「うん」
「でも美楚乃の分がないだろう?」
「昨日はあんまり食欲なくて残しちゃったから。明日食べようと思って」
「どこか体調でも悪いのか?」
「ううん、単純にお腹空かなかったの。あんまり動いてなかったし。……でもそれなら兄さまだって昨日朝ご飯食べたきり、何も口にしていないでしょ? たくさん動いた分、たくさん食べないといけないよ」
「……僕は大丈夫だよ。食べなくても大丈夫な身体なんだ」
「白雪ちゃんと同じこと言ってる……」
「そういえばそうだったね」
三大欲求の著しい欠如。体質変化と言ってもひどい変わり様だ。
白雪が言っていた。
人間のような栄養摂取を必要としない身体。
とりわけ疲れていなければ睡眠もいらない身体。
生殖機能のない身体。故に性欲のない身体。
魔法を扱う人間全員がこんな体質になるのか分からないが、雄臣の身体もそのような身体になりつつあるのは確かだ。
「まあ、大丈夫だから、気にするな。それより今日は外に出よう」
心配を歓楽で紛らわせる。
「え、本当っ?」
「ああ」
「やったーっ!」
美楚乃はにっこり満面の笑みを見せて喜んだ。
「それじゃあ、身支度をしよう。僕は身体洗ってくるから」
「分かった。わたしも着替えてくる!」
ベッドから飛び起きた美楚乃は部屋を出た。
雄臣も着替えのための外出着を箪笥から取り出し、浴室に向かう。
午前中を惰眠で過ごしてしまったが、今日は一日中、美楚乃と一緒にいられる日だ。少しでも時間を無駄にはしたくない。
…
ささっと水を浴びて頭をクリアにした雄臣は身支度を整え、居間に戻った。
居間では美楚乃が昨夜の夜ご飯をテーブルに並べていた。紺色のワンピースに着替えていた美楚乃は外に出る気満々である。
「ご飯の準備できたよ。早く食べて行こうよ」
向かい合うようにして席に着き、昨夜作ってくれたご飯を食べる。美楚乃も芋の煮物を食べながら、肉無し豚汁を啜る。
「美楚乃、白雪に会いたいか?」
「えっ、会えるのっ⁉」
持っていた箸がピタリと止まり、身体が前のめりになる。目の前の食事よりも今日一番の食いつきである。多分心の何処かでは諦めていたのかもしれない。じゃないとこんな目をキラキラ輝かせたりなんかしないだろう。
「ああ、会える。昨日、白雪と会って話をした。家に寄ることはできないけど、僕らの方から会いに行くなら問題ないって」
「やったっ! じゃあ早く食べて早く行こうよっ」
「待て。そんな慌てるな。白雪は今、街の平和を守るために巡回中だから戻ってくるのは夕方頃になる。今出て行っても白雪には会えないよ」
「むぅ、じゃあ、何時に出るの?」
「そうだな……」
全速力で走ればここからあの塔まで一時間も掛からないだろう。だが美楚乃を担いで走るとなるとその半分ぐらいの速力で行くのが妥当だろう。単純計算でざっと二時間、でも途中で自分も歩きたいとか言いだしそうだし、早めに着くことに越したことはないと思う。
それを踏まえて雄臣は時計を確認した。今は十二時四十六分。
「二時頃には出ようかな」
「じゃあわたし、ご飯作って持ってくー」
「ああ、白雪もきっと喜ぶよ」
「うんっ!」
昼食を食べ終わった美楚乃は早速、台所でお弁当作りに取り掛かった。
それから一時間後、準備を整えた美楚乃は片手に籠バックを持って準備万端の様子だ。
「兄さま兄さま、早く行こ!」
「ああ」
一目散に家を出た美楚乃は、深呼吸するみたいに外の空気を肺一杯に吸い込んだ。蒼い空、健やかなる晴天の下、美楚乃は、ん~っと最大限の伸びをする。
「美楚乃、おんぶするから来てくれ」
「どうして? わたし歩けるよ。わたしも歩きたいっ」
案の定、言い出しそうだと思っていたことを美楚乃は口にした。
「歩いてだと時間かかるから美楚乃をおんぶして走った方が早く着くんだよ」
「でもわたしも歩きたいのっ」
何となくこうなることは分かっていたけど、出だしからこうなるとは思わなかった。でも本人がそうしたいなら仕方ない。
「分かった。途中までな」
美楚乃の手を繋ぐ。
「森は危ないから気を付けてな」
「うん」
森の中を歩く。いつも通っている道を美楚乃と一緒に辿る。三十分近く経って、街が見えてきた。
「……」
失った街。無人の街。雄臣が誰一人救えなかった街を、美楚乃と一緒に直視する。隣を歩く彼女にはどう映っているだろうか。
街の中心街に来た。
人が生きていた痕跡が生々しく残っている町は、静まり返っている。
廃墟と化した街を眺める。
血の炎で酷く焼けこけた大地を見る。
人の生活があった。
決して無関係ではない人間の暮らしがあった。
知っている顔があった。
会話をしたことのある人間がいた。
早く通り過ぎて、さっさと行こうと思っていた。
けど、中々離れられなかった。美楚乃も同じく立ち止まったまま、目を逸らすことなく見つめていた。
雄臣が弔った場所。
その盛り上がった土の下には焼死体の住民が埋葬されている。
それが何なのか美楚乃は分かっていた。
美楚乃は目を背けることなくその山を見つめている。
「……」
雄臣に視線を向けることなく、目を合わすことはない。会話もない。
その時、何を思ったのか、美楚乃はお弁当が入った籠を置き、雄臣の手から離れた。
「美楚乃?」
「お花、お供えする」
「そうか」
美楚乃は道端に生えた名の知れない雑草の花を摘み取った。納得するまで集めると、彼女は手向けの花としてそれを埋葬した場所の前に供えた。
「……これぐらいしかできないけど……この人たちを知っているのは多分わたしたちだけだから……」
その花束を捧げることも、死者にはきっと無意味な行為なのだろう。そんなことは分かっていても、生きている側の勝手な自己満足だとしても、生きている側に出来ることは花を手向けることぐらいだ。
「美楚乃、行こうか」
「うん……」
しばらくの間、掌を合わせ追悼した後、行き先に向かって歩き始める。
再び森の中に入る手前、美楚乃の進む足が止まった。
「どうした? 疲れたか?」
「……うん」
美楚乃は口惜しそうな顔をして頷いた。
無理もない。不老とは言え、疲れやすい体質なのは変わらないし、久しぶりに陽の下に出て、足場の悪い森の中を三十分も歩いたんだ。
「いいんだよ。そんな引け目を感じなくて」
「……」
それでも納得していない様子。いつもだったら甘えて抱き着いたりするくせに、こういう時に限って意固地だ。
「白雪に会うんだろ? その前に疲れていたら元も子もない」
「……わたし、お荷物じゃない?」
「ばかだな。お荷物だなんて一度も思ったことないよ。何なら大事なものはずっと傍に身に付けておきたいくらいだ。だからほら、おいで」
雄臣は膝を折り、背中を美楚乃の方へ向け、おんぶする態勢になる。
「…………うん」
素直に頷いてくれた美楚乃は、背中に近づくと後ろから組み付いた。美楚乃の体温と柔らかな感触を背中に感じながら、立ち上がる。ずしりと背中に来た重みは、美楚乃を背負いながら逃げていたかつての頃と何も変わらない。その重みを何とも思わなくなったのは自分が単に大きくなったから。変わったのは成長した自分だけだ。
「よし、ちゃんと籠持ってるんだぞ」
「うん」
雄臣は美楚乃を背負いながら、森の方向へ歩くのを再開した。
ふと。
前から突風が吹いた。雄臣は顔を若干後ろに逸らす。
「――え?」
それきり意識はその一点に集約された。
さっきまでそこには自分たち以外、誰もいなかった弔いの場所。その場には美楚乃が置いた献花が故人を偲ぶように揺れている。
そしてそれを眺めている真っ黒い何かがいる。
魔力的なものは感じ取れない。
ならその影法師は救えなかった住民の亡霊か、それとも何か、自分たちと同じように亡き町を弔いにでも来たというのか。
ぽつんとこの世の闇を吸い取ったかのようなモノが立っている。立ち尽くす自分に気が付いた様子もなく立っている。
言葉が出ない。
十五メートル離れた場所に黒い棒のようなヒトが立っているのが見える。
もしかしたらこの町の生き残りなのかもしれない。
なら声を掛けなくては。
それなのになぜか声が出ない。
出す勇気がなかった。
誰一人救えなかった責任感があるのなら、すぐさま駆け寄って事情を話す必要がある。それなのに怖いという感情が芽生えている。生存本能があれに話しかけてはならないと危険信号を放っているみたいだ。
(何者なんだ)
顔、どころか全身黒くて本当に人なのか曖昧なモノだけど、あれは人、人、人。人であることに間違いはない。
――と。
その人影が風で靡くかのように揺らめきだし、こっちを見た。見た気がした。見て何か言ったかのように見えた。
「兄さま?」
何を恐れると言うのか。
あれは――幻だ。白昼夢だ。
美楚乃の声で我に返ると、さっきまでその場にいたはずの黒い人間は、初めからそこには存在しなかったかのように、どこにも見当たらなかった。
「美楚乃、僕ら以外誰もいないよな」
「え。うん。誰もいないけど……誰かいるの?」
雄臣の首に回した美楚乃の腕がぎゅっと締め付けてくるのが分かった。
「ごめん。多分猫か何かだから。そんな気にしなくていい」
「うん」
変に怖がらせたくなくて、この不可思議な出来事は自分の中で留めることにした。気を取り直して美楚乃を背負った雄臣は森の中へ走り始めた。




