0―30 深淵の森にて③
「いやあああああああああああぁぁぁぁああああ!」
「美楚乃っ! 落ち着け」
悲鳴を上げる美楚乃を必死に宥め、彼女の左耳を胸で塞ぎ、もう片方の耳を使える左手で塞いだ。
「デタラメにも、程がある」
鼓膜が破れそうになるほどの爆発音が空気中に轟いた後、森の一部は一瞬で焼け焦げ、一掃された。
懐かしい硝煙の臭い。嫌な臭い。
生命が死んだ蒸気を漂わせながら、次第に煙の幕が明けていく。
その煙の中に雄臣は人影を確認した。
黒い布…フェイスヴェールを装飾した女が二人。
能面みたいな黒の仮面を被った男が三人。
散らばっていた黒衣を纏いし集団は、今の爆発によって一気にここに集結した。
うち、長身の男が指を鳴らすと、あの赫い槍が手元に瞬間移動する。どうやら槍の使い手はこの黒ずくめの男だったらしい。
「追いかけっこはもうお終いですか?」
先頭に立つ女が問いかけた。
「お前……」
一瞬だけ力が全身から抜けた後、すぐに身体の底から力が湧き上がった。聞き覚えのある声。見覚えのある身体的特徴。何より右手に持っている黒い鞄が、あの時列車の中で出会った女のものと同じだった。
「あら、気付いちゃいましたか? ならこれは必要ないですね」
荒っぽく素顔を隠すためのヴェールが剥がされた。
「……」
薄暗い靄がかかったようなウェイブ髪。人の目ではないような魅惑的な瞳。口角の上がった唇は、決して寒さからではなく、口紅で青く施されている。
その口元はこれから起こる惨劇を待ち構えてのものか、子どものように、にやけていた。
「一人、仲間を殺されたようですね。さすがは魔法使い、エンヤタケオミ、くん。十年のブランクを感じさせない戦い方です」
「……どうして、僕の名前を――」
「あら、そちらの方はまだ気づいてなくて? 察しの良い貴方ならとっくに結論付いていると思っていましたが……ああ、そうですよね、人間、悪い出来事よりも楽観主義的な見方を信じたがるものです、ものね」
「……黙れ」
「黙りませんよ。真実から目を逸らしたところで事実は覆らないのですから。さあさあ、その目にしかと焼き付けてくださいな」
女が大きな黒い鞄に手を掛けた。
中身が開く。
何が入っているのか分からない緊張感と不安感。
嫌な音を立てて、暗いボックスの中から何かが転がってきた。
「――――」
ソレを見た瞬間、何も考えられなくなった。
目の前がユラユラと揺れて、雄臣は数歩よろよろと後ずさる。
「見ちゃ、駄目だ……」
それでもなお美楚乃には絶対に見せてはならないものだと無意識に手と口は動いていた。
雄臣は恐りのような、それでいて泣き出したくなる思いで、ごろんと、目の前に転がったソレを見つめ続ける。見たくないのに、受け入れたくないのに、ソレから目が離せなかった。
「貴方の情報……魔法の知識や技術は彼女の大脳から抜き取らせてもらったの」
愉し気に笑って。
絶望を詰め込んだ鞄からもう一つ、女は悍ましい殺戮器を取り出すと、落ちたソレを片手で拾いあげ、雄臣に見せつけるように掲げた。
雄臣は叫び出したい思いを必死に堪え、ソレをただ見つめる。
雄臣を一瞬で絶望の淵に突き落としたソレ。
黒衣の女は、片手に、白雪の首、を持っていた。
白雪の首は綺麗だった。
生前となんら変わらない肌の色と質感。眠るように瞼を閉じた素顔は、今にでも目を覚ましそうな予感さえある。ただそんな予感はすぐに消え去る。だって首から下が途絶えて、失われているのだから。
女の口端が吊り上がり、女の本性が露わになる。
「さて、彼女の役目はこれにて済みましたので――」
あえて拾ったその首を女は地面に打ち捨て、片手に持った斧のような、将又鉈のような凶器を勢いよく振り上げた。
「やめ、ろ――」
雄臣の抵抗空しく、女は躊躇なく見るも無残に何度も何度も白雪の首を押し潰すように斬り刻んだ。
「汚いな、汚いな、汚いな、汚いな、汚いな、汚いな、汚いな、汚いな、汚いな、汚いな」
ゼンマイで動く人形のように、己が欲望のために、女は恍惚した表情で、滅多滅多に、成す術もない死んだ彼女の生首が、雨でぬかるんだ地面と見分けがつかなくなるまでひたすらに振り下ろした。
「――はぁっ~~~、さいっこうに気持ちいいいいいいいいぃぃぃくて!!!」
何度も繰り返される動作が終わった頃には、白雪だったモノは跡形もなく、まるで熟して駄目になった赤い果実のようにぐじゅぐじゅに泥と相まって肉片は液状と化していた。
「やっぱり綺麗なモノが無残な姿になっていく様は見ていて飽きないわね。綺麗なモノ、可愛いモノ、純粋なモノは、永久に変わらずいつまでもそのままで居て欲しいもの。けれど、穢すのは別。特にこの子は純粋で可愛くてこの世で一番美しい生命体、だから尚更汚したくなる。貴方もそう思うでしょ? 自分のモノにはならないこの子を見て、心のどこかではぐちゃぐちゃに汚したくなったんじゃない? ネ? ネ? ネ?」
雄臣は答えない。彼の神経はとうに振り切れていて、物事を冷静に考える余裕はなく、殺すことしか頭にはなかった。
「ハハッ」
女はそんな雄臣の壊れた表情を見て心底満足そうに表情を歪ませた。
その拍子に飛び散った血が女の頬を流れていく。
「まぁ、いいわ。それで先駆者の考えを私が代弁するとね、貴方の魔法を使えばこの世界を新しく生まれ変わらせることができるらしいの。だから大人しくその心臓を差し出してくれるかしら? そしたら貴方の妹さんだけは見逃してあげてもいいわ。……まぁ、どの道貴方には死んでもらうけどね」
「……」
「分かってくれたかしら?」
「願い下げだ。殺してやる」
雄臣は抑揚のない口調で端的に死の宣告を突き付けた。
「あら、私のパフォーマンスを見て意気消沈したかと思ったのに、少し刺激が強すぎちゃったかしら? ふふふ」
「コロシテヤル」
「ふっ、殺せるものなら殺してみせてっ!」
その言葉に雄臣の理性は完全に飛んた。脈打つこめかみが、全身を巡る血流が、死ネ、死ネ、死ネ、と雄臣の意識を掻き立てる。
彼女の変わり果てた姿を見せつけることで戦う気力を失わせる魂胆であったか知らないが、その策略は逆効果となり、切羽詰まった絶望感は爆発的な殺意へと変わった。
「に、にいさま?」
「Heavenly Benefit to my slavery!」
既に負傷した右腕は完治していた。雄臣は美楚乃を差し置いて両の手の平を地面に接触し、ありったけの憤怒と魔力を大地に注ぎ込んだ。
雄臣の怒りに呼応した大自然は唸り声を上げ、地面からは無数の巨大樹が萌え出した。聳え立つ無類の大きさを誇った樹木は壁となり、雄臣の周りは何十層もの樹木に囲まれた。
さらに両の手の平を地面に押し続けると、地面にはマンホール状の空洞が出来上がり、その穴へ雄臣は美楚乃と共に降下していく。
「に、兄さま。暗いよ」
「今、話している余裕はない」
そのまま美楚乃の手を取り、自然が作り上げた地下の回廊を走る。重層になった自然の壁が奴らに壊される前に何としてでも美楚乃を安全な場所に避難させる必要があった。
「美楚乃、遅い。おぶる」
堪らず雄臣は美楚乃を背負い、なるべく遠くを目指して複雑に入り組んだ真っ暗な通路を走る。
何が何でも絶対に、美楚乃はこの戦いに巻き込んではならない。
これから起こることはそういうことだ。
生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの単純な世界。
そこに情はなくあるのは殺すことだけ。
殺すということは見たくないものを見ること。そんなものを美楚乃には見せたくないし、見せてはならない。何より美楚乃を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
地下の回廊を渡って十秒。とある場所で美楚乃を地面に下ろした雄臣は来た道の方に手の平を握りしめ、通ってきた道を樹木で塞ぎ止めた。そして地面の中に一つの空間を作り出す。それは木と木が何本も重なり合って作られた箱状の大きな揺籃。
「美楚乃、少しの間、ここで待っていてくれ」
「え、やだっ。離れたくないっ! 一緒にいたいっ!」
「駄目だ。ここに居ろっ!」
「やだやだ、ひとりはやだぁ。置いて行かないで!」
雄臣の手を掴んで離さない美楚乃。
「……」
雄臣は膝を付いて美楚乃の肩に手を置き向かい合った。
「美楚乃。僕は美楚乃の兄ちゃんだ。兄ちゃんは妹を守らなくちゃならない。だから大丈夫。悪い奴を懲らしめた後、必ず戻ってくるから。……だから美楚乃も僕のことを信じてくれ」
「……」
しばらく黙り込んだ後、美楚乃はこくりと頷いて、ぎゅっと抱きついてきた。
「……一緒に、帰ろうね?」
「ああ。すぐ終わらせてくる」
美楚乃の手が雄臣から離れる。雄臣は立ち上がり、脱いだ黒の上着を美楚乃の肩に掛けた。そして地上に出る前に指を鳴らした。少しでも彼女の不安と恐怖が和らぐようにと、揺籃の中に小さな灯火が点く。光を出しているものは緑の葉っぱ。枝先に付いた若葉が日の光を浴びたように優しく発光した。
「――」
美楚乃は隅で蹲ったまま反応はない。
雄臣は美楚乃に背を向け、伸びた蔦を使って地上へと登る。
「……」
けれど最後に少し気になって、一度だけ後ろを振り返った。
「…………(こんなのがお別れだなんて絶対に御免だ)」
小さな灯りの近くで背中を丸めながら座る美楚乃を最後に、雄臣は地上へと出た。




