0―28 深淵の森にて①
ロミリアの城を出て、街をぶらりと回った後、列車の停車場へ向かった。駅前に着いた頃には空は分厚い灰の雲に覆われ、雨がパラパラと降り始めていた。
雄臣は美楚乃の手を取り、小走り気味に停車中の普通列車に乗り込んだ。
時刻にして午後四時二十六分発の列車。
五両編成の先頭、適当に空いている席に座り、列車が出発するまでの間、少し待つ。
他の乗客者が乗り込んでくるかと思ったが、人が乗り込んでくる気配はなく、おそらくどの車両もほとんど人は乗っていない。行きの列車は人が多くて賑やかだったが、帰りの列車はまるで棺桶の中にいるみたいな焦燥感が漂っている。
(まあ、ここまで来ておいて日帰りする人間の方が珍しいか)
娯楽施設や教育施設、病院も市街に集中していて、便利な暮らしを享受するためにも都市にアクセスしやすい場所に住む方が今となっては現実的であり、辺境で暮らす者の方が少ない。
列車が大きく震動し動き出した。
行き同様、雄臣は窓から遠くの風景をぼんやり眺める。
少し経って車掌さんがやってきて、切符を見せて切ってもらう。
そして再び頬杖を付いてぼんやりと外を見た。
「ねえ、兄さま、クッキー食べていい?」
「早いな、さっきお城でお菓子食べたばかりだろ」
バニラとココアの四角いクッキー。
街をぶらりと回っている時、美楚乃が食べたいと言うので旅の土産として買ってあげた。
「えー、たくさん歩いたよ」
「……分かったよ。でもこれから二時間近く電車の中だから全部一気に食べたら退屈になるぞ。まあ、全部食べたら食べたで夜ご飯食べられなくなるからほどほどにな」
「うん、気を付ける」
そう言って美楚乃は小包からクッキーを一枚取ってぱくりと食べた。
「兄さまも食べる? 甘くておいしいよ」
「いや、僕はいい。そのクッキーは僕より美楚乃に食べられた方が幸せだよ」
「? 変な、兄さま」
それから雄臣は意識を窓の外に向けた。隣からはリスが胡桃を食べるような咀嚼音が微かに聞こえる。
都市街を抜け、郊外の平凡な田園をひた走る鉄の棺桶。揺れる身体、ぼんやりとした思考。ただ身体を背もたれに預け、物思いにふける。先ほどまでぱらついていた雨粒は窓を叩きつける滴となって降り注ぐ。
列車が稼働して一時間弱。
日は沈み、雨雲に覆われた森はその暗さを一層濃くさせていた。
ふと隣に目をやると美楚乃は何枚目かのクッキーを食べながら眠っていた。雄臣は美楚乃の手に持っていた食べかけのクッキーを手に取る。
白くて軽いクッキーを天井の灯りに照らす。
(白いクッキー。…白い光。……白い生き物。…………白雪)
美楚乃よりも小柄で幼い白い戦乙女の少女。その幻想的で神秘的な存在に心は憑りつかれたみたいにそれしか考えられなくなっている。
現実の生活には絶対に戻れない。
どっぷりと。
ずっぷりと。
非現実で残酷な生き方をした報いは、雄臣の心から充足感を多幸感を奪った。
雄臣は眠る美楚乃に視線を向ける。
けれどその一方、今ある美楚乃との生活を手に入れたのだ。
その穏やかな幸せを一方的な私情で取りこぼすわけにはいかない。
たった一人の家族として、一人の人間として。
雄臣はクッキーを口元に運ぶ。
「……甘いな」
明日からは普通の人間……身体的には戻れないけれど、白雪への想いには幕を下ろそう。
「大丈夫……」
お菓子の小包をお腹に抱えながら眠る美楚乃の頭に触れた。
「兄ちゃん、明日からちゃんと戻るから……」
コツ――――――。
「…………」
そう言って、優しく頭を撫でながら自分なりに踏ん切りをつけようとした時、嫌な、足音がした。
コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。
複数の足。軍靴が床を踏む硬い音がゆっくりとこちらに近づいてくる。
コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。
冷徹な音を立てながら、歩く足音が次第に大きくなってくる。
コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。
停車駅はまだ先なのに、ワケもなく足音が迫ってくる。
コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。コツ。
――――――パタリと。
重なる足音が一斉に止まった。その途端、激しく降り付ける雨音だけが、車窓を震わせる風音だけが、鼓膜を刺激する。
ガランッッ――。
列車の扉が風を噴き出すような音を立てて勢いよく開いた。開けられた。その音に眠っていた美楚乃も眠りから目を覚ます。
「……んっ、なんの音?」
「……」
「兄さま?」
少し腰を浮かして車両の後方に目をやった。
「美楚乃、こっちにおいで」
咄嗟に腰を下ろし、隣の美楚乃だけに聞こえる声で呟いた。
「? こう?」
美楚乃は雄臣の肩にぴたりと寄り添った。
「もっと、僕の胸においで」
「え、う、うん」
美楚乃は言われた通り雄臣の胸に手を添えて、ゆっくりと身体を預けた。
「何か、恥ずかしいよ」
「……」
「どう、した、の?」
雄臣の胸に身体を密着させた美楚乃はこの状況に困惑している。けれどそれ以上に困惑しているのは紛れもなく雄臣だった。
黒の外套。
黒いフードを深く被った六名の見知らぬ誰か。
けれど見た瞬間、何か善くないものであることは明らかだった。
長年、白雪と共に悪を成敗してきた経験が、動乱の中で培われてきた直観が、雄臣に危機感を告示している。
(大丈夫、乗り切れるはずだ)
張り詰めた神経と危機判断能力である五感を張り巡らせ、今取るべき行動を。
十年越しに使う人智を越えし魔法は一人の妹を守るために。
雄臣は拳を握りしめ、歯を食いしばった。
次の瞬間――。
自身の身体に衝撃耐性を付着させた雄臣は、迷うことなく窓を突き破った。
窓ガラスが破損する音が響く。
「っ――(こればかりは仕方ない)」
走行する列車から強引に、どこまでも深い海のような森に身を投じた雄臣は、美楚乃を抱きかかえながら崖を転げ落ちた。
受け身を捨て、美楚乃を庇うことだけを考える。
「――ぐっ」
脳が激しく揺れ、骨が軋む。斜面の岩に身体を何度も打ち付けながら、落石のように転落した。
「はあ、はあ、はあ」
本来であれば死んでいたであろう衝撃は、魔法の衝撃耐性によって掠り傷程度で済んだ。
雄臣はすぐさま上体を起こし、美楚乃の安否を確認する。
「美楚乃っ! 大丈夫かっ! 怪我無いか?」
「……う、うん。大丈夫だけど……」
「よかった!」
安堵して思わず抱きしめた。
「く、苦しいよ」
「わ、悪い」
背中に回した手を解き、暗闇で美楚乃と向かい合う。
「どうして電車から飛び降りるようなことしたの? 危ないよっ」
突然の奇行に、恐怖よりも心配したような表情をして注意する美楚乃。何も分からない美楚乃からしたら至極当然の反応である。
「怖い思いさせてごめんな。でも今すぐ逃げないといけなかったんだ」
「え?」
正確に言えば身の危険を感じた。
気味の悪い。
けれどただの人間だ。ただの……だって奴らからは魔力を感じ取れなかった。
ならなんであの時、真っ先に考え付いたのが、逃げること、だったのだろう。
美楚乃を危険から避けるためだと言っても、人間相手にこんな命懸けなこと大袈裟すぎる。
けれど、あの何とも言えない空気感が嫌だった。
得体の知れない不気味さがある。人間のカタチをしているだけで、人間っぽくない。そう言ってしまうと魔法使いである自分と変わらないのに、匂いが、姿が、何もかも偽装みたいな人体構造が不気味だったんだ。
「どういうこと?」
「こっちに向かってくる奴を見た。きっと奴ら僕らを殺しにやってきたんだ」
「……どうしてそんなこと、怖いこと言わないでよ」
美楚乃は唇と肩を震わせながらか細い声でそう言った。信じてくれないと思ったが、行動が冗談の度を越えていたためか、美楚乃は雄臣が言った言葉を信じて疑わない。
「大丈夫」
雄臣は立ち上がり、美楚乃に手を差し出した。
「兄ちゃんが付いてる。立てるか?」
「……うん」
美楚乃は雄臣の手を取り、ゆっくり立ち上がった。
その手は酷く冷たい。
雨でぐちゃぐちゃに濡れた土壌を転がり回ったことで、お互い身体中泥塗れ、ずぶ濡れだ。
冬の季節は過ぎたが、早く帰路に就かなければ冷たい雨と森の空気が刻一刻と身体から体温を奪っていく。
「家帰ったらあったかいお風呂入ろうな」
「うん」
そのためにも一早くこの暗い森の中を抜け出して、自分たちの家に、温もりある灯りの下に……帰るんだ。
『帰れませんよーーーっ!』
「っ!」
どうにか切り抜けられたかと思ったのも束の間、確かに聞こえた妙に明るい女の声。自分たちがいることをわざと知らせるように女が陽気な声で叫んだ。




