0―27 あれから③
「そんなしょぼくれた顔をしても彼女は戻ってこないわよ」
そんなことは分かっている。
こんなはずじゃなかった。美楚乃と一緒に過ごすことを冀っていたのはこの自分だ。だからこんな気持ちになるのはおかしい。
覚えておいて欲しい、とは言われたけど、人間の記憶は機械のように永遠に保存が続くわけではない。彼女と過ごした非現実的な日常は忘れずに記憶できても、彼女の仕草や声、匂いはだんだんとどんなものだったか失われていく。
そう思っていた。
なのにこの身体は何もかも忘れずに覚えている。死に絶える人間の悲鳴や腐臭と共に、彼女の凛とした声とお日様の匂いが、純真無垢に誰でもない誰かを救おうとする意志が、馬鹿みたいに真っ直ぐなところが、本当は誰よりも感情的なところが、やがて思いは日々膨れ上がって、この肉眼で形貌を見たくなって、この耳が声を聞きたくなって、この心が華やかに笑った彼女に惹かれて、もう一度あんな風に笑わせてあげたいって……だから口に出さずにはいられなかった。
「……でも一度でいいからまた、会いたいんだ……」
切実なる願い。どんな願いでさえもこの魔法の力であれば殆ど叶えられるのに、これだけは何をやっても叶えることができない。自分の力ではどうしようもない。それがこれほどまでに苦しく寂しいなんて思わなかった。
「……。心配せずとも生きているわよ。だから、彼女との記憶に幕を下ろしなさい。今目の前にある幸せだけに目を向けなさい。妹さん、待っているわよ。しっかりなさい」
自分が今どんな顔をしているのか分からないが、ロミリアの反応を見る限り、きっと良くない顔をしているのは間違いない。
「ほら、行くわよ」
「ああ。悪い、ありがとう」
重い腰を上げて、雄臣は立ち上がった。
部屋を出ると、ロミリアの手が肩にぽんと置かれて、雄臣の沈んだ気持ちは完全に覚める。どうやらまだ気持ちを切り替えられていなかったようだ。
「……ロミリア、お前案外いい奴なんだな」
「案外って酷いわね。貴方、私のこと何だと思っていたの?」
「横暴で冷酷な奴だと……」
「ぶっ殺すわよ。それじゃあ、理性のないそこらの魔法使いと同等じゃないっ!」
ギロリと本気の目をしたロミリアが雄臣に押し寄ってくる。ただ純粋に思ったことを素直に言っただけだが、それが返ってよくなかったらしい。怒ったロミリアはすごい剣幕で雄臣をドアに押し付けて、今にでも殺しそうな眼で睨みつけてくる。
「で、でも今回で印象がすごく変わったよっ!」
「なら言ってみないよ」
「僕らの謁見にも応じてくれた寛大さだったり、気配り上手だったり、人情深くて気品があるところも流石王女様って感じだ」
適当にあることないこと言って、必死に前言撤回に命じる。
「ふんっ。当たり前よ」
ロミリアはぷいっと顔を逸らし、隣の部屋へと歩き始める。雄臣はふぅと安堵の溜息を吐き、王城の回廊を歩いた。
「ちっ、ニアの奴、護衛もせずにどこほっつき歩いているのかしら」
そう言えば、ドアの傍に立っていた大男の姿が見受けられない。
美楚乃が待つ部屋のドアノブにロミリアが手を掛ける。
「美楚乃ちゃん、お待たせしたわね」
「美楚乃、帰るぞーって……」
扉を開けると、テーブルの上には飲みかけのオレンジジュースと食べかけのマドレーヌ。そしてなぜか四人掛けのソファには小柄な少女と屈強な男が向かい合いながらトランプをしていた。
「おい、美楚乃。なにやらせているんだ」
「此れしきの事、別に構わん」
ロミリアがニアと呼んだ男は背中越しに一言そう言って美楚乃からトランプを一枚引いた。揃った同位の札がテーブルの上に捨てられていく。どうやらババ抜きなるものをしていたらしい。
「へぇ、随分手懐けられたもんじゃない」
「何を言う。私はただこの幼子の遊び相手をしているだけだ」
「ふっ。冗談よ。それにしてもトランプだなんて、この城にあったのね。チェスや囲碁ならあるけれど……」
「ううん、わたしがポケットに入れて持ってきたの。本当は電車の中でやろうと思ったんだけど、兄さまが乗り物酔いするからやらないって」
ロミリアの嫌な視線がこちらに向けられる。
「そのくらいやってあげなさいよ。お兄ちゃんなんでしょ」
「でも二人でババ抜きなんて愉しくないだろ?」
「え、たのしいよ? 兄さまとなら何だって」
「ぐっ、そうかい」
そう言われると何も言えない。両者の枚数は数えられるほど減っていて、美楚乃が四枚、ニアが五枚となっている。
美楚乃がニアの手札の真ん中に手を掛ける。ニアの背後からその絵柄を確認すると、それはジョーカー。美楚乃は戸惑うことなくそれを引き抜いた。
「ふっ」
思わず吹き出しそうになった。
「ぷっ。ぷふ」
隣でそれを見ていたロミリアも必死に笑うのを堪えていた。でもババを引き抜いた当人は真剣にポーカーフェイスを努めている。
二人でやっているのだからそんなことしてもバレバレなのに、何も疑問に思わず美楚乃は何度も手札をシャッフルして、ニアのターンに待ち構えた。
引かれて揃って、引いて揃って、美楚乃が三枚、ニアが二枚。ニアがこれでジョーカー以外を引けばニアの勝利、三分の二の確率だ。
ニアが残りの三枚を一枚ずつ手に掛けて美楚乃の反応を窺う。右端の一枚、真ん中の一枚、左端の一枚。
「ふっ」
「ぷっ、ぷふ」
誰が見ても左端がジョーカーだ。美楚乃はあからさまに嬉しそうな表情をして、けれど再び探る手を横にずらせばしょんぼりした表情になる。
けれどニアはそれを取らず、一番左のトランプを引き抜いた。案の定、それはジョーカーであり、次のターン、美楚乃は手札を揃え、勝利を収めた。
「やったっ! これで六連勝~。へへ~ん」
美楚乃は勝てて超ご満悦。この男、厳格な表情をしているくせになんて甘々なのだろう。
「美楚乃、帰るよ」
「はーい。ニアさん、遊んでくれてありがとう」
美楚乃はニアにお礼を言い、使ったトランプを片付ける。
その最中、ロミリアが窓際に移動する。
「……」
レースカーテンをシャランと開けたロミリアは薄暗い空を見上げて呟く。
「雲行きが怪しいわね。よかったら雨が止むまで雨宿りでもしていく?」
「いや、大丈夫だ。これ以上長居をしていたら帰りが遅くなるし、列車に乗ってしまえば雨風は防げるから」
「そう、では気を付けて」
「ああ。色々、助かった。ありがとう」
「美楚乃、行こう」
「うん。バイバイ。お姉ちゃん」
美楚乃は手を振る。
「ええ、さようなら」
それにロミリアが手を振り返す。
「ニアさんもバイバイ」
「ああ」
「振り返してあげなさいよ。バイバイって」
素っ気ない態度をロミリアに指摘され、仕方なく手を振るニアに美楚乃はにんまり笑ってもう一度手を振った。




