7―21 雪姫の行方
夜明けに近い時刻の明るい月光が部屋の中を照らしていた。鉄の私室である部屋に戻ると、ベッドで眠っている琥珀は毛布に包まれていて、窓際に立つ銀髪の女性は夜明けの光を受けてさらにいっそう青白く見えていた。
負傷した箇所も手当てを施したようで、裂傷の激しかった喪服のようなドレスも予備の同じものに着替えたようだ。
「鉄、ありがとう。君がいなかったら逃げられなかった」
「い、いえ。その、わたしも殺されたくなかったので、運転には自信がなかったけど、ここまで逃げれてよかったです」
「……」
やっぱりなんか引っ掛かる。鉄はこんなおどおどした喋り方はしないし、口調も声音もなんだか幼い。
「その、変なこと聞くけど、君は本当に鉄なのか?」
「え、そ、そうですよ? く、くろがねです、よ……?」
陽玄は訝しむ。明らかに怪しい。
「鉄はそんなおどおどした喋り方はしない。お前は誰だ?」
陽玄は咄嗟に刀を抜いて牽制する。
「もしかしてあの変な女じゃないだろうな」
鉄に異様に執着していたあの女の顔が浮かび上がる。信じたくはないが、鉄があの女に敗北したことで身体を乗っ取られた、あるいは操られている可能性もある。
「ち、違いますっ!」
「今だって、鉄はそんな感情的にならない。もっと冷静で粛然としている」
「っ――」
「もう一度訊く。お前は誰だ」
問い詰めると、女は潔く白状した。
「…………ご、ごめんなさい、うそです、わたしはお姉さまじゃなくて銀です」
「銀? お姉さま? 何を言って……嘯いても無駄だからなっ。そうやって鉄の妹っぽく振る舞えば騙せると思ったか、お前の正体は鉄の皮を被ったあの変な女だろっ!」
言いながら陽玄は刀を向けてベッドで眠る琥珀を守るように立ち回る。
「ち、違いますっ! あんな女と一緒にしないでくださいっ! わたしはお姉さま、鉄の妹です。……信じてはもらえないかもだけど、わたしは二重人格者なんです」
陽玄は一瞬呆気に取られて、目の前にいる鉄なのに銀と名乗る女性を見て、とりあえず剣を鞘に納めた。
「じゃあ、どうして今の人格がその、銀なんだ? 鉄はどこにいったんだ?」
「…………お姉さまは対峙していた魔術師マキエの大魔術『事項収容』によって二次元空間に囚われてしまいました」
複雑な心境を抱きながら、銀はそうなるに至った経緯を陽玄に話した。
異なる場所で繰り広げられた戦い――鉄とマキエの戦いは、優位と劣位が交互に逆転する戦局が織り成され、最終的に痛み分けで終局した。
マキエという女性はこれまでに類を見ない特別な魔術師であった。銀と同様二重人格者であった彼女は、女性的なマキエと男性的なマヤ、二人で対となる存在だった。それだけならいいものの、性格ごとで操る武具が変わり、マキエが絵巻物による具現能力を駆使するのとは対照的に、マヤは三日月型の大鎌を振りかざす物理攻撃を得意としていた。
中でも一際厄介なのが絵巻物を経由とした具現化だった。絵巻物は複数種類があるようで、確認できたのは大まかに三つ。第一は怪異な魔物が飛び出してくる絵巻物。第二は注連縄による束縛系の絵巻物。そして第三が相手の魂を平面世界へ幽閉させる絵巻物『幽閉物語絵巻』だった。鉄もろとも銀も一度はそれに幽閉されたが、人格が二つあるが故に一人が犠牲になることでもう一人が助かったと言う。その犠牲になったのが鉄であり、助かったのが銀であったということだった。
「消えるのはわたしで、助かるべきなのはお姉さまだったんです」
「……それは鉄が主人格で、銀が交代人格だからか? でも戦ってたのが鉄なら囚われるのは主人格の鉄な気もするけど」
「……す、鋭いですね」
「え、なんか違うのか」
「……実はその、本当はわたし、銀が主人格で、お姉さまが交代人格なんです」
「え、でも、意識の所有時間が長いのは鉄だったけど」
「お姉さまに生きてて欲しかったからです。ずっと一緒にいたくてそれが叶わないならわたしの代わりに生きるはずだったお姉さまにこの身体を使ってほしかったからです」
銀は蹲りながら言う。本来であれば何も欠けていないはずなのに心の中に大きな穴が開いてしまったかのように心細そうにしている。
「でも二重人格者なのに鉄の記憶とかなくならないんだな」
長い髪に隠れた顔が陽玄を見上げて話す。
「解離性同一性障害と言ってもさまざまです。陽玄さんが言うように他人格の記憶が無くなる多重人格者も存在します。でも、わたしの場合は陽玄さんと名前を呼べるように基本的に記憶を失うことはないんです。けど覚えているかと言われるとそれもちょっと違くて……、思い出せる記憶は、鮮明に映像が浮かぶものから、ノイズがかかってよく分からないものになったりもします」
「……夢の中の出来事を思い出す感覚と同じようなものか」
「は、はいっ! そんな感じです」
理解してくれたことが嬉しかったのか分からないが、銀の声が少しだけ弾む。
「人格同士の不和や身体の奪い合いがないのも主人格である君が全部許しているからか」
「はい。そういった疾患はないです。わたしの意志はお姉さまに生きてて欲しいだけで、少なからずわたしの時間はお姉さまが死んだあの日から止まっています。……それなのに、どうしてお姉さまがまたわたしを助けたのか……」
銀はもの悲しそうに言った。
「……長い間、君が表に出ないからいつの間にか主人格と交代人格が変わっちゃったんじゃないのか。……何より鉄だって君に生きててほしいって思っているから助けたんじゃないのか。人格が二つあるなら意思も二つあるだろう?」
「……それでも、今度はわたしが代わりにそうなるはずだったのに……」
上向いていた顔は俯いて、銀はまたその大きな身体を猫のように小さく丸まってしまった。
「じゃあ、囚われている鉄を今度は君が助けてあげればいいじゃないか」
「……、うん、絶対助ける」
銀と話をしていたらいつの間にか外はすっかり朝になっていて、眩しい日差しがベッドの上で眠る琥珀の顔に降り注いでいた。
「……ぅ、……ん、しい――」
少女の乾いた小さな声。
眩い朝日に迎え入れられて琥珀が寝返りを打った。
「琥珀……」
陽玄の呼びかけにヘーゼル色の瞳が微かに開いた。瞬間、ベッドの横に座り込んでいた陽玄を認識したのか、微睡の瞳は驚いたように見開いた。
すぐさま上半身を起こして、琥珀は周囲を見渡す。
「ここ、どこ……」
「ここはわたしの工房です」銀が言う。
「そう。……ってなにこれ、なんかぶかぶかするんだけど……」
琥珀は胸元を手でさすって、何かを察したように壁の方に背を向けた。
しばらくもぞもぞ動いた後、黒のブラウスからコバルトブルーのタンクトップをうまいように剥ぎ取った琥珀が、銀に向かってそれを投げ飛ばした。どうやら銀サイズの下着、特に胸元回りは琥珀の身体には合わなかったようだ。それが気に障ったのか不機嫌そうな顔をしている。
「どういうつもり? 見下してんの?」
「み、見下してなんかないですっ。し、下着、汚れてたし、な、何もつけずに寝たら胸の形が崩れちゃうと思ったから、それで……」
「……。誰、この女? またお酒でも飲んだの?」
言われてみれば確かにお酒を飲んで酔いつぶれた鉄に似ている。もしかしたらあの時酔ったことで一時的に銀の人格が浮上したのかもしれない。本人は覚えていないようだが。
「の、飲んでません。わたしはし、銀です」
「銀? 何言ってんの? この子、頭大丈夫?」
辛辣に言われて泣き出しそうになる銀。それに耐えかねて陽玄は彼女に代わって説明する。
「鉄は二重人格者だったんだ」
「は?」
ぽかんとする琥珀。
銀に言われたことを再度陽玄が琥珀に伝えると、琥珀は「ふーん」と納得してるのかしてないのかよく分からない返事をした。
「つまり今の彼女は鉄じゃなくて銀ってことね。わずらわし」
一言多い気もするが、部屋の隅でいじけていた銀の表情がぱぁーと明るくなった。容姿はどこをどう見ても鉄なのだが、感情が乏しかった彼女がこうも表情豊かだとそれはそれで変な感じである。
「信じてくれるんですか?」
「……別に、彼が信じてるから信じるだけだし……」
「はいっ、それでもいいですっ。ありがとうございますっ」
ぺこりとお辞儀して嬉しそうな笑みを零す。
「……」
琥珀は……少し白みがかった金の髪を触りながら何とも言えない表情をしている。百八十度、性格も口調も変わってしまった鉄の顔をした銀に戸惑っているようだ。
「こほん」
咳ばらいをして自分の気持ちを切り替えた琥珀が口を開く。
「……それはそうと、あたしが眠ってからどうなったの」
「あ、うん」
彼女の意識が眠ったのは正しく数えれば二度ある。一度目は胸に刀を突き刺した瞬間、彼女の容姿が赤く豹変したことで、その間は琥珀の意識はおそらく白雪の意識に上塗りされていたのだろう。二度目は鉄……じゃない、銀による黒針によって眠らされたことだ。
とりあえず陽玄は自分が見たことを順を追って説明することにした。
「自分の胸に刀を刺した後の記憶は覚えてる?」
「……記憶はないけど、だいたい分かってる。今こうして生きてるってことは殺したんでしょ」
「まあ、そうだね」
「………………醜かった?」
小さい声で訊ねる。
「醜くはなかったけど、怖かった」
陽玄は正直に言う。それに琥珀は「そう……」と呟いて視線は下がる。
「でもあれは君じゃない。雪姫の人格かは分からないけど、君じゃないことは分かる」
「ううん、あれもあたしだよ。こうなることはだいたい分かっていて胸に突き刺したんだから。でも、次はちゃんと制御できるようにならないとだめだね。殺した感覚はあるのに記憶がないのは死の重みが分からなくなりそうで、すごく怖い」
「……、でもなんで刀を胸に突き刺すとあんな姿になるんだ?」
「? どんな姿だった?」
「髪も目も刀も、全部が赤かった」
「……そう。たぶん、赤くなるのは反転作用。雪姫ちゃんだけじゃなく戦乙女はさ、もともと人を守護する存在で人を殺す存在ではなかったから、彼女は自分の胸に刀を突きさすことで、不殺主義から滅殺主義に思考を切り替える手段を覚えたんだと思う。その方が楽だし、自分を狂わせないとやっていけないって、彼女も初めて人を殺した時は苦しかっただろうね」
「……そうか」
「それで、剣崎陽毬は現れた? ……現れないか」
「いや、姉は来たよ。雪姫を連れて」
琥珀は驚いたように顔を上げた。
「でも、助け出せなかった。姉が来る前に赤毛の幼子もやってきていて、銀は負傷していて琥珀も意識を失っていたからどうすることもできなかった。ごめん」
「……謝んなくていいよ」
「でも姉は自分を組織に入れることを条件に雪姫を差し出すって言い出したんだ」
「……え。それでどうなったの?」
「分からない。姉に交渉が成立する前に立ち去った方がいいって脅されて、そうせざるを得なかった。姉とあの赤い悪魔、二人を相手にすれば君を守れないと思ったから」
「そう……」
琥珀の飴色の瞳から微かに光が抜けていく。交渉が成立したと仮定して助けだすなら、雪姫が上層部の魔術師に渡る前に救いださなければ、おそらく救出はより絶望的になる。
「琥珀、引き返そう。取り戻すには今しかない」
それに琥珀は小さく頷いた。
「……銀、お願いできる」
覇気のない声で琥珀は銀にお願いする。
「いいですけど、その、わたしの魔力はほとんど空なので、あの、戦力にはならないと思います」
「分かったから、お願いします」
再度の願いに銀は応える。外に出るとすぐさま運転席に乗り、エンジンをかけた。
「お願いしちゃったけど、運転、この子に任せて大丈夫なの?」
後部座席に座った陽玄に琥珀が恐る恐る訊ねる。
「たぶん大丈夫だと思うよ。だってここまで運転してたし。銀、大丈夫だよね?」
「はい。運転技術はお姉さまに劣りますが、交通知識は共有してるので安心してください」
そう言って法定速度ギリギリのスピードで廃墟街に舞い戻った。
時刻は七時過ぎだが、辺りは夜のように薄暗い。
ここを立ち去って戻って来るまで三、四時間が経過しているが、救い出すには今この瞬間しかないと琥珀自身も思っていたに違いない。
だがその一縷の望みは絶たれた。
すでに舎屋敷という敵の拠点地は、初めからなかったかのように存在そのものが街の中から消失していた。建ち並ぶ建築物がある中、解体作業を素っ飛ばしたかのように不自然な荒地がある。辺りには木材や丸まった鉄筋。根元から強引に引っこ抜かれたかのように残った骨組みだけがそこにある。
その光景を琥珀はしばらく見つめた後、銀に立ち去るように指示を出した。
ぼんやりした表情で呆然と前を歩き続ける琥珀に呼びかける。
「琥珀……」
「……なに?」
「その、大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。……大丈夫だから」
途切れ途切れで言う。
「きっと交渉が決裂して、それで、戦闘になって、それで、どっちかが死んで、それで、それで……、取り戻せる、よね?」
立ち止まって振り返った琥珀の瞳からは堪えきれずに涙が零れていた。
「大丈夫だよ、きっと……」
「……うん」
励ます言葉をかけることぐらいしか、今は何もできなかった。




