7―19 交渉①
横断歩道の白線を渡って幼子の皮を被った悪魔がこちらに向かってやってくる。悪魔が近付く度に鉄はさらに震え上がり、戦意は喪失している。陽玄は震えている鉄の腕を掴む。
「鉄、僕があいつを引き寄せるからその隙に巫さんと逃げてくれ」
「……む、無理です」
「え」
予想外の返答に驚いた。
鉄は素顔を隠す仮面を剥ぎ取られたかのように、心細そうに立ち竦んでいる。それだけならまだしも、色素の薄い瞳からは涙を滲ませていた。以前の彼女なら絶対に見せなかったであろう感情表現だ。
「……分かった。じゃあ、僕があいつを倒すからさ、巫さんと一緒に見守っててよ」
彼女がこんなに怯えている横で自分も同じように怯えているわけにはいかない。
陽玄は背負っていた琥珀を鉄の背中に預ける。
彼女の温もりが離れていくのは名残惜しいが、束の間の時間だ。首に垂れた鞘から黒刀を抜き出して、その切っ先を赤い悪魔に差し向ける。
すると、横断歩道の真ん中で、赤い悪魔は見に纏ったロリータのファスナーを堂々と外していった。
真夜中の三時、道路上での脱衣。蛹から羽化するように優雅なドレスを脱ぎ去った。
赤毛の幼子は女児でもなければ男児でもなかった。女性的男性的特徴がないため、身体的特徴から性別は読み取れない。
そも、そんなものは一瞬にしてどうでもよくなった。着眼すべきは痛々しいその傷痕だ。
白い裸身には陽玄よりもひどい数の傷跡がある。身体全身に皮膚を埋め尽くすように満遍なく切開されたかのようなツギハギがその小さな身体に刻み込まれていた。
赤い悪魔の手が動く。
吸い込まれそうになる大きな眼球は陽玄を凝視したまま、左腕の縫い目に手を掛けた。それこそドレスのファスナーを外すように皮膚をギギギと開いて、その中に腕を突っ込むと、長い得物を引きずり出した。
陽玄は見覚えのある武器を目にして驚愕する。
無数の薔薇が交差したような歪な穂先。槍碼一紳が扱っていた聖槍が、その右手に握られていた。
「どういうことだ……」
「……受肉です。槍碼さまはあの時、嬉嬉さまに取り込まれました。コレクターという異名からして、おそらく彼女の能力は自分の中に取り込んだものを自分のものにできる異能だと思います」
鉄の見解に耳を傾けながら、陽玄は対峙する赤毛の悪魔を注視した。
次元的に言うならば、あの身体には四次元空間が内包されていることになる。人間の構造をしていないのだからとうとう人の域を超えてしまっている。これでは別空間とリンクできるヒトのカタチをした怪物でしかない。魔術師と名乗るのもおこがましいくらいに。
「でもそんなことって……ありえるのか」
「……」
鉄は答えない。あり得ないことだと否定したいところだが、あれ自身が存在証明となっているため鵜呑みにするしかないのだろう。
陽玄の柄を握る手に力がこもる。
剣術の使用限度は一度きりだ。
一度解放すれば、この肉体は五次元空間の過負荷に耐えきれず、噴き出すものが水か血かの違いだけのひび割れた水槽と何ら変わらなくなるだろう。
それが怖いというわけではない。二度、執行しているんだ。痛みの耐性はついている。鉄もいるんだ。あいつを始末した後に急いで応急手当を施してくれれば、おそらく死にはしないだろう。
柄を握る手に力がこもる。
だが失策は許されない。
陽玄が危惧しているのは殺し損ねることがあってはならないということだ。一撃で敵を仕留めなければならない。槍碼のように気で見切られればすべてが台無しになるということ。即ち、再生の一切を絶つためには、木っ端微塵に切り刻まなくてはならない。
「……はぁ、赤いのはもう懲り懲りだ……」
剣崎陽毬の赤い目も。
大好きな少女が赤く豹変するのも。
醜い肉片となって目に見えるものが赤くなるのも。
自分の身体から勢いよく噴き出る赤い血も。
そして目の前にいる赤い悪魔も。
柄を握る手に力がこもる。
赤い悪魔が歩を再開した。
互いの間合いは距離にして二十メートル。
陽玄は八相・陰の構えに体勢を持ち込んだ。完全に仕留めるためにはまだ距離がある。奴が間合い十メートルに入った瞬間、殺すと決意し――。
――いや、待て。本当にそれでいいのか。
ふと、思い立った。
――自分でもそう推察したじゃないか。
だってあれは人間の構造をしていないのだ。
体内にはブラックホールのように未知数の異空間が広がっている。腹の中に四次元という空間を孕んで、飼い慣らしているのだ。
そこには血も、心臓も、ないだろう。弱点となるものをわざわざ内包する必要はないはずだ。
疑問が次々と浮かび上がって、不安が募る。
だとしたら刃は通らないんじゃないか。
だとしたら自分も槍碼と同じように体内に取り込まれるんじゃないか。
もしかしたら奴は不死身なんじゃないかと。
瞬間、赤い悪魔が赤い槍を地に突き立てた。陽玄は即座に地表面から突き出る槍術に警戒したが、それは杞憂に終わる。どうやら牽制らしい。
すると、赤い悪魔の身体に埋め込まれた百にも及ぶ傷口がすべて開く。ツギハギの隙間から見えるのは底なしの真っ黒な絶望。
終始、無表情だった悪魔が悪鬼のような形相で口元を歪な三日月型に歪ませた。
柄を握る手に力がこもる。
恐ろしくはあるが、そうであるものとして認識した陽玄は気にせず勝機への活路を見出す。
「……何だ、あるじゃないか」
胴体が駄目なら指揮系統である大脳もろとも頭部を跡形もなく切り刻んでしまえば済む話だ。それしか勝つ手段は見つからない。
以下、殺すのみ。槍が邪魔だが、絶対に殺す。殺して殺して殺す。
これ以上の推察は余計であり、雑念にしかならない。
刃を振るうのに恐怖も当惑も人情もいらないのだ。
悪魔が近付いてくる。
柄を握る手に力を込める。
目蓋を閉じる。
――さあ、機械のように無常に。剣術を執行す――
「お取り込み中悪いんだが、少しいいか」
ふと、耳障りな女の声がして陽玄は目を見開いた。
三、四十メートル先に人影がある。
コロコロと車輪を転がす音がする。
赤い悪魔の殺意が背後の女の影に集中する。
二十メートルの地点で立ち止まった不吉な長い黒髪の女は、臙脂色の外套に身を包んでいた。
剣崎陽毬である。
そして彼女は何の冗談か、母親のように黒のベビーカーを連れていた。




