7―18 豹変
魔術師の武装は万全だった。
殺しきるに足る道筋が用意されており、その数、ツーマンセルを一部隊とするならば、七か八。十五に及ぶ魔術師の手には対戦乙女用である武具が所持されている。現時点で屋敷に駐在する魔術師すべてをここに投下してきたと見るべきだろう。
唯一の希望としては局長である赤毛の幼子がいないといったところだが、絶望的な状況であることには変わらない。あまりの絶望感から気が遠くなっていく。
既に逃げ道はなくなった。敵は彼女を包み込むようにして応戦する受け身の形を取りながら徐々に詰め寄って来る。
間合いにして十メートルまで距離を詰めた時。
指示役として任命されたのだろう一人が高らかと片腕を上げ、その腕が琥珀に差し向けられた。
「捕縛、開始」
指示役の合図に応じて周囲に展開した魔術師たちが状況を開始する。
代行者である琥珀に集中する火線。その様を悠然とした表情で、琥珀は躊躇なく自身の胸の中心部に魔力殺しの刀を深々と突き刺した。
自殺衝動にも見えたその所作は、何かを呼び起こすための一種の通過儀礼。その証拠に出血は一滴たりともない。
「■■t――」
少女の低い発声。されど、その言葉は聞き取れない。
彼女の胸部から刀が引き抜かれた瞬間、一瞬にして彼女の風貌は変貌した。
憤怒に燃えるような赤毛が、ひときわ異彩を放つ。
陽だまりのような金の髪は血のような真紅に急変し、大きく見開いたその虹彩は胡桃色ではなく、吸血鬼のように紅い目をしている。
その変貌は彼女だけではない。
彼女が手にしている刀も同じく、まるで刀が彼女の血を吸い取ったかのように、生々しくも鮮やかな赤色をしていた。
赤い蒸気を刀身から揺蕩わせながら、様変わりした琥珀が発する。
「――血呪ノ虚血」
「がはっ――」
意図も簡単に。
何が起きたかも分からずに。
戦闘服に身を包んだ一人が心臓を突き刺されている。
「死ね」
紅い剣は蛇腹のように伸びていて、琥珀は突き刺した魔術師を宙に飛ばした。その魔術師は気を失っているのか、受け身も取らずに彼女の頭上へと落下してきて――。
ぶしゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁ。
――うねりのような血を噴き出しながら地に頭を垂れた。
彼女によって身体を真っ二つに両断されたのである。
赤い血はシャワーとなって少女の白いパーカーを、白い頬を赤く濡らしていく。
赤い血よりも赤い少女の舌が唇に垂れた血を舐め取り、口紅を塗ったかのように赤くなった唇が動く。
「忌まわしい」
冷酷な殺意を向け、残りの得物を見定めた。一人分の血を吸い取った刀はさらに濃く深く赤黒く変色していた。
その後は戦いにもならなかった。
彼女を制圧・捕縛するための包囲陣形はあっけなく崩壊し、戦闘は霧散する。
一方的な蹂躙。一瞬にして部隊は総崩れ。
誘き寄せられたのは彼らであり、彼らは彼女にとって魔力という栄養源を孕んだ餌であり、彼らもまた捕食対象であった。
「心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓、心臓」
赤い化身が串に刺さった者たちを数えていく。
白亜の城壁による正六角柱結界に閉じ込められた魔術師たちは、反撃は愚か逃走の余地なく囚われ、その中で蹂躙された。
陽玄は呆然と見上げるしかない。夜空には、鎖のように自由自在に伸びた赤い剣によって心臓を突き刺された魔術師たちが浮かんでいる。彼らは皆、心臓を突き刺された衝撃から、一時的に心臓を停止させられていた。
彼女が刀を引き抜くと、臍落ちするように魔術師たちが地に落ちた。その衝撃で彼らは目を覚ますが、身体は痺れているのか、生まれたばかりの小鹿のように身動ぎをすることしかできない。
「やめ、やめてくれっ!」
無様な悲鳴を上げながら必死に地を這う。
魔力を失った彼らは只人であり、魔力を取り戻すことが目的ならば、彼らの処遇は無傷のまま見逃すべきだ。
だが、それで終わることはなかった。
ひとりひとり順を追って、まるで刀に血を呑ませるように彼らを無惨に切り刻んでいく。
悲鳴や怒号は彼女の慟哭にかき消された。
「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せっ!」
怒りを抑えることなく喉が焼き切れるぐらいの叫びを上げながら、処刑していく。
一人目、二人目、三人目と初めは怒りに任せて殺すだけだったのが、十人目くらいからは相手の悲鳴を愉しむかのように、いかにして苦しませながら殺せるかを学習していった。
最後に残った指示役の魔術師が絶叫する。
それを陽玄は呆然と聞く。
地面に貼り付けにされた男は指を折られ、皮膚を削がされ、筋膜を剥ぎ取られ、神経を引き抜かれ、絶頂しながら、自身の躰を胡桃のように剝かれていた。
それは生きたまま焼かれるような苦痛にも見えて、男の口からは気泡が溢れ出ていた。それが生の限界だと悟った赤い化身は、最後の仕上げとばかりに、股下から脳天へとゆっくりと悲鳴を聞きながら、ゆっくりと鋸のように刀を動かして、ゆっくりと死ぬ瞬間を相手に味わわせた。
結局、七、八部隊に匹敵する数の魔術師たちが全滅するまでわずか十分しかかからなかった。
彼女がむくりと振り向いた。
陽玄は彼女の顔を見ながら呆然とする。
そこにいるのは、陽玄がよく知っている琥珀、誰よりも殺すことを恐れていた、優しくて穏やかな少女とは、まったくの別人だった。
額には幾筋もの血がこびりつき、見るからに恐ろし気な形相をしていて、残忍そうな赤い目が陽玄を見据えている。異様な目の輝き。もっと殺したがっているようにしか思えなかった。
「心臓……私の心臓……」
いや、違う。彼女には陽玄など眼中になく、その迸る真っ赤な瞳孔は心臓だけを見つめている。
「心臓、心臓、心臓、心臓」
闊歩、闊歩、闊歩、闊歩。
「心臓、心臓、心臓、心臓」
闊歩、闊歩、闊歩、闊歩。
「心臓、心臓、心臓、心臓」
闊歩、闊歩、闊歩、闊歩。
吸い寄せられるように血みどろになった女が闊歩する。辺りには数えきれないほどの肉片。それを踏みつけながら女が闊歩する。数えきれない量の血を吸った禍々しい赤色の刀を引きずりながら闊歩する。全身血にまみれた恐ろしい女が陽玄の心臓を捕食しに闊歩する。変わり果てた女を見つめることしかできない少年のもとに赤い化身が闊歩する。闊歩闊歩、闊歩闊歩、闊歩闊歩闊歩闊歩。その距離が縮まっていく。背を向ければ殺される。かと言って後退ることもできない。思考回路が恐怖でエラーを引き起こす。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
赤い化身が、嗤いながら、赤い凶器を手にして、やってくる。
ふと、足音がぴたりと止まって、代わりに別の誰かの靴音がした。
こちらに向かってくる気配、人影がある。
「駄目だ、来ちゃ……」
掠れた声では届かない。
赤い化身の頸が不自然に声のした方へ曲がる。動物のように動くものに反応した女が、錫色の女を殺しに地を跳ねた。
「鉄っ!」
獰猛な獣が餌にあり付くように疾駆した。
唖然と立ち尽くす無防備な錫色の魔術師。間一髪、胸元に差し迫る刀を反射的に腕がガードするが、スパンと紙のように刺さり込んで出血する。
「ぐっ――」
「琥珀――っ‼」
陽玄は彼女の名前を叫びながら駆け付けた。二人が交戦している位置は陽玄から四十メートル以上離れている。絶望的に絶対的に間に合わない距離だ。それでも走らざるにはいられなかった。あれは本当の彼女ではない。陽玄が知る彼女ではない。だからこそ、これ以上、彼女の身体で彼女が嫌いなことを好き勝手にやって欲しくなかった。
「琥珀、琥珀、琥珀っ!」
そう何度も強く叫ぶと、僅かに女の動きが止まった。その隙を鉄は見逃さなかった。女の頸椎部の神経に手持ちの短い黒針が突き刺さる。
「――――っ」
後ろへよろめく女を陽玄は押し倒した。
跨りながら女の両腕を押さえつけて必死に何度も名前を呼び続ける。
「琥珀、琥珀、琥珀、琥珀、琥珀っ!」
「ア、ぁああああああああああ!」
「お願いだからいつもの君に戻ってくれっ! じゃないと嫌だっ! 僕はこんな君を好きになったんじゃないっ! いつもの琥珀に戻ってくれよぉぉぉっ!」
「……ぁ、あああ、ああああ」
暴れ回る腕の力が次第に弱まっていく。血に侵された刀が霧散していく。血のように赤い髪と瞳が元の優しい色合いに戻っていく。以前の彼女に戻りつつある。
「……こはく?」
胡桃色の瞳に光が宿る。その瞳から溢れる透明の雫が赤く濡れた頬に流れる。
「……ぁ、ヨーゲン君」
もとに戻った琥珀を抱きしめるとそのまま彼女は眠ってしまった。
「鎮静剤が効いたみたい、です」
どうやら首元に刺さっている針に仕掛けを施していたようだ。そんなことよりも心配すべきことがある。
「鉄、怪我は――」咄嗟に視線を上げる。
「この通り、問題ない、です」
庇った右腕からは血が流れているが、切断には至っていなかった。ひどい怪我であることには変わらないが、一先ず命があることに安堵する。
「よかった」
「その、何があったの? ですか」
「ごめん、話は後だ。今はとりあえずこの場から離れよう」
「そ、そうですね。はい」
どことなく鉄の様子もおかしいのだが、今は気にしている余裕はない。眠っている琥珀の首に刺さった針を引き抜いて鉄に渡した後、彼女を背負い車を停めた場所まで走る。
ここは奴らの領域内だ。追随してきた魔術師たちは琥珀の逆襲によって打ち負かすことができたが、次はない。魔力的にも肉体的にも満身創痍だ。それ故に早く逃げなくてはならない。まだ一人いる。その存在を知っているからこそ、見つかれば琥珀は捕らえられ、陽玄と鉄は殺される。
押し寄せてくる恐怖。
不安感を大丈夫だと強いて自分を励ましながら走る。
すると、向こうから赤い悪魔がやってくるのが見えた。
陽玄は青ざめる。
一度目にすれば分かる装い、赤と黒を基調としたロリータと、赤い髪に飾り付けられたたくさんの黒いリボン。
その幼い顔は無表情だが、長い髪は燃え上がるようにめらめらと渦巻いている。それは以前とは違う怒りの表れであり、隣に立つ鉄はひどく怯えている。
恐ろしげな目がこちらを凝視する。
逃げられると思うなよ、と。
剣崎家の屋敷で対面した時とはどこか違う、それは舎屋敷を統括する局長の風格であった。




