7―12 錫色の魔術師⑧
結局、鉄からリビングにやって来ることはなかったので、夕食の準備ができた後に彼女を呼び寄せた。
鉄をリビングに連れて来ると、テーブルの椅子では琥珀が待ちきれないと言わんばかりに座っていた。
テーブルの上には狐色の衣をまとった大きなトンカツとエビフライ。その脇にはミニトマトとポテトサラダが乗っかっていて、その両隣には真っ白のご飯と、大根と白菜の味噌汁が並んでいる。
勝手な推測だが、鉄の容姿からして和食より洋食の方が好きなのではないかと思ったのだが、どうだろう。
そして、鉄の分の料理を取り囲むように食卓にはたくさんの缶ビールが並んでいた。
腕に縒りを掛けた料理を目の前に鉄の口が動く。
「随分、豪勢なお食事ですが、陽玄さんがお作りになられたのですか?」
「うん。鉄をもてなすために今日はいつもより頑張ってみた」
「……左様でしたか」
「ねえ早く。早く座って。もうお腹すいたの」
これ以上我慢できない、と琥珀が急かし、彩り豊かな缶ビールが並んだテーブル前へと鉄は腰を下ろした。陽玄も琥珀の隣に座る。
「これは一体、何かの儀式でしょうか」
「見ればわかるでしょ。これはあたしからのおもてなし。ワインじゃないけど全部お酒だから。麦酒にチューハイ、ハイボールにレモンサワー、たくさんあるからたくさん飲んでね」
そう優しい声音で言って、鉄にグラスを持たせる。
「さあ、何をお飲みになりますか?」
「……で、ではこの葡萄のチューハイを」
琥珀の魂胆を知っているからか、彼女は悪い顔をしている。だが鉄は露知らず、彼女の策略を善意と受け取って疑わない。
葡萄のお酒がグラスに注がれる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ごくりと一口、鉄がグラスに口を付けた。
「どう、おいしい?」
「はい」
「それは良かった」
陽玄は自分の食事も忘れて、目の前で食事をする月色の美人を眺める。鉄が食べている姿が想像できなかったので、今食べている瞬間が不思議に思える。あまりにも人間味がないのでそう見えてしまっていたが、こうして食べているところを見ると同じ人間なんだと思えてくる。
隣に座っている琥珀はいつも通りもぐもぐ食べていて、美味しいとちゃんと口に出してくれるので安心するのだが、鉄は、いただきます、と言ったきり、相変わらず無表情のまま無言のままだ。けれど箸が止まることはないし、料理を口に運ぶたびこくりと頷いているあたり、口に合わないというわけではないらしい。
酒杯を重ねながら食事をする鉄の頬がほんのりと赤い。微かに酔っているのだろう。それもそうか、エビフライとご飯を食べ終わり、三缶目のお酒も空にしていた。その時にはすでに琥珀も三度目のおかわりをしていて、ちょうど食べ終わったところだった。
鉄の箸が止まって、目許が微かに赤くなった瞳を陽玄に向けてくる。
「陽玄さんの手料理、大変美味でした。食事はすべて陽玄さんが担っているのですか?」
「巫さんは料理があんまり得意じゃないから、基本的に僕が作る流れになってる」
「左様ですか。よろしければ、交互に分担するというのはいかがでしょう。私も琥珀さまの善意で住まわせてもらっている以上、御恩を返さなくてなりません」
「僕は構わないけど……」
最終的な判断をするのは琥珀だ。視線を横にずらすと琥珀は吟味するように頬杖をつきながら鉄を見つめていた。
「ねえ鉄、次はこのお酒、飲んでみて」
鉄の話を聞いているのか、いないのか。
琥珀は適当にお酒の缶を開けて、空になったグラスにお酌する。
「麦色ですね。琥珀さまと同じ髪の色をしています」
「そんなのいいから、さあ一気に飲んで」
「琥珀、流石にもう……」
琥珀に急かされ、ごくごくと勢いよく飲み干していく鉄。それを琥珀はしめしめという面持ちで見つめている。
「ねえ、どれが一番おいしい?」
「……そう、ですね。どれも美味しかったですが、やはり私は、苦味よりかは初めに飲んだような、甘いお酒の方が、合っている、気がします。シュワシュワで……シュワシュワ……」
躰を硬くして座って、落ち着いたように装っているが、顔つきは変わっていて、酔っているのか目が据わっている。
「鉄、本当はあたしたちのこと、どう思ってんの?」
「……」
陶磁器のような頬は真っ赤に紅潮していて、アルコールを過剰摂取した鉄の瞳はとろんとしている。
「ねえ、聞いてんの?」
「……」
明らかに様子がおかしい鉄に陽玄は心配になる。
「鉄、今水を持ってくるから」
陽玄はそう言って、キッチンへ向かった。冷蔵庫に残っているミネラルウォーターのボトルをグラスに注いで戻り、鉄に手渡した。
「ありがとうございます」
鉄は柔らかな笑みを見せた。上目遣いでとろんとした眼差しを陽玄に向け、グラスに唇を触れさせた時、鉄は陽気に呟く。
「陽玄さぁん、やさしい~」
「鉄?」
彼女の口からは絶対に出てこないであろう甘い声で囁かれて困惑するのも束の間、グラスをテーブルに置いた鉄が陽玄の首に手を回して抱き着いてきた。
その重みで陽玄は床に押し倒される。
「く、鉄⁉ ちょ、酔い過ぎ――」
「ううーん、鉄じゃなくてぇ、銀ぇ……」
「え――」
陽玄の身体にのしかかる体温と彼女の胸の膨らみ、柔らかさ、大きさ。荒い息遣いが耳に伝わる。彼女の身体の重みに、自分の身体が硬直していくのを感じる。陽玄が精一杯に身動ぎすると、長い錫色の髪が、砂のようにさらりと零れるようにして陽玄の顔へと落ちた。潤いのある光沢を含んだ桃色の唇が近い。やばい。やばい。やばい。
「なにしてんのっ。離れなさいっ!」
琥珀が声を上げて鉄の腕を掴んだ。
自分に覆いかぶさった鉄を琥珀が引き剥がしたその瞬間――。
「きゃ――」
今度は琥珀が鉄に抱き着かれ、陽玄と同じように押し倒された。
「琥珀さまぁ……私を殺さないでくれてぇ、ありがと~」
「な、なんなの、こんなの聞いてないっ。――ひゃ、ちょっ、や、変なところ、触ら――、やめ、や、ん――」
「……二人とも、助けてくれてぇ、ありがと……えへへへ……」
「ヨーゲン君、た、助けて……」
抜け出そうにも強い力で引っ張られてどうにも逃げられない様子。
槍碼がもう飲むなと言った理由が身に染みて分かった。そして――。
「全部、琥珀が悪い。こんなにお酒を飲ませて。それに分かっただろ、これが鉄の本心だって」
「分かった、分かったから助けて……」
「はぁ」
鉄に絡みつかれた琥珀を何とか救出すると、鉄はその場で眠ってしまった。
そんなこんなで食事は終わり、陽玄はいつもの後片付け。台所からリビングの方を覗き見ると、リビングのソファでは未だに眠っている鉄と、その横でしゅんと反省するかのように琥珀が鎮座している。
「く、鉄、そろそろ起きて……」
「んーっ、んーっ」
「ねぇ、起きてよ……」
「ん~、ぅ……」
琥珀が鉄の肩を何度もさするが彼女が起きる気配は微塵もない。
「あ~もうっ、おーきーなーさーいーっ」
さする力はどんどん強くなるが、鉄は鎮静剤のような酒の効力から目を覚ますことはなく、肩を揺すられる度、小さな唸り声を上げるだけである。
「琥珀、鉄はもう無理だよ。ゆっくり寝かせてあげよ」
「でも、夜の探索はどうするの?」
「鉄にはお留守番してもらって、二人で行けばいいじゃないか。……それともまだ信用していないのか」
「…………分かったよ、こうなったのはあたしのせいだし」
さっきの件で痛い目に遭った琥珀もようやく鉄のことを信じてくれたようだ。食器を洗い終えた陽玄がリビングに戻ると、琥珀は自分の部屋から持ってきたのだろうブランケットを鉄に被せていた。
「ワイン好きだからお酒強いんだと思ってたけど、そういうわけじゃないんだね。あたしもこうなっちゃったりするのかなぁ……」
若干、見てみたい自分がいるのは否めないが、彼女も未成年。お酒は二十歳になってから。
「でも本当、性格ががらりと変わってびっくりした。お酒に酔うと抑圧していた感情が現れやすいって言うけど、もしかしたら根はあたしよりも陽気だったりするのかもね」
自分が酔っていることも自覚していない様子だったし、酩酊状態だったからあれが鉄の本性かどうかは分からないが、形はどうあれ死人のように無表情だった彼女が笑ってくれて良かったとホッとしている自分がいた。
鉄は言っていた。幼い頃、自身の母親を殺したと。
でも彼女の善良さは、大切な何かを自らの手で破壊したところで、吹っ切れることはなくて、でもその過去が彼女の心に与えた影響は大きいのだろう。それであの笑顔が彼女から消えたのならやっぱり悪いのは聖典教会という教団の在り方だろう。
……
「おっかしーなぁ~、おっかしーなぁ~。どうしてがねちゃんいないかなぁ~、あー、早く、やわらかおっぱい揉みたいなぁ」
「お前の脳内はそれだけか」
「錦こそ男のくせして興味ないとか、インポかよ」
「インポで結構だ。生の本質に意味を成さない信者にとって生殖機能は不要なものだ。私の主義にそぐわない」
「良い面しておいてそんなこと言っちゃうのが残念だよ」
女は言葉通り残念そうな顔をしてしゃがみ込むと、男の股間に顔を近づかせて、それに指差した。
「でもここは生殖機能のためだけじゃなくて性欲処理のためにもあるんだよぅ~? 錦は女の子にぺろぺろしてもらったことがないからそのありがたみが分かんないんだよ」
そう艶やかに言って、唾液で生々しく光った赤い舌先が蠢く。
「私の口で良かったらしゃぶってあげようか。私のテクで気持ちよーく、イ、カ、せ、て、あ、げ、る♪ 骨抜きだぜぇだぜぇ」
「ふっ、生憎だが、お前の面を見ると勃つものも勃たない。せっかくの面構えもその品性の欠片もない言動が全てを台無しにしていることを自覚した方がいい」
男の一蹴に、女はふてくされたように立ち上がった。
「言ってろ言ってろ。いいもんねー。私はあの仏頂面のがねちゃんを一夜で堕としたテクニシャンなんだから」
「堕としたのであれば、こんなことにはなってないと思うが」
的確な指摘に女の眼つきが鋭くなった瞬間、男の局部目掛けて勢いよく蹴り上げた。天地が狂うほどの凄まじい激痛に男は倒れ込む。
「っ、貴様、ぁ、何を……」
「ふん、情けない声あげちゃって、金玉ほじくりだしてタマなしにでもしてやろうか」
勝ち誇った目で口元をにやつかせながら痛みに藻掻く男の顔を見下ろした。
「……こんなことして、どうなるか、分かっているのか」
「ア? なんだって」
倒れ伏した男の顔に女が跨った。
「貴様、何し――」
履くべきものが履いていないことに男は絶句する。
「見ればわかるでしょ。立ちションだよ、立ちション。謝らないなら今からお前の顔にぶっかけるから」
ぽたりと黄色い水滴が男の頬に滴り落ちた。女は仁王立ちしながら発射までのカウントダウンをする。
「ごー、よーん、さーん、にー、いーち、ぜ―」
「失言だった。私が悪か――」
「おそーい」
男の顔面に小便が降りかかる。背徳感と優越感に頬が赤く染まった女が口を開く。
「……これも全部、あの槍野郎が悪いんだ。私からがねちゃんを奪ったあの野郎が……」
完全なる八つ当たり。
「がねちゃんもがねちゃんだ。あの胸は私が揉んで揉んで揉みしだいて大きく育てたのに、私よりもあの男を選びあがって。所詮はメスってことなの? 許せない、絶対に許さない。自分が誰のものかってことを教え込ませな――」
ふと、苛立ちを募らせている女の頬に平手打ちのような痛みが走った。
「いった……、何すんだっ! 錦――っ!」
倒れ伏していたはずの男が眼鏡のブリッジをくいっと上げた。
「それはこっちの台詞だ。頭を冷やせ、糞食い女。局長に言われた捜索期間は明日の夜までだぞ。こんなことをしている場合ではない」
男はいつの間にか正面に立っていて、その顔は憎いほど綺麗なままだった。女は視線を落とす。足下には一枚の薄い鉄の板が落ちていて、どうやら自分の小便攻撃はその鉄板によって防がれたようだ。
「ちっ。つまんねえの」
「貴様、どのみちかけるつもりだったか。まあいい、そんなことよりも今の発言だけは見逃せない」
「あ?」
「鉄に対する執着はお前の私情だ。組織には関係のないものだ。我々の目的は鉄の連行。お前があいつと戯れる時間はない。局長の意向は教祖様の意向を意味する。代行者の潜伏場所を吐かせた後、処刑されるのがあの女の末路だ」
「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ。あの人形にそんな役目を任せたらそれこそ吐かせる前に殺しちゃうって、誰が見ても分かるでしょ。あのメスガキにそんな器用さはないし、だいたい局長の器じゃないでしょ、アレ。それにがねちゃんは立場を弁えてるからね、死なない程度の痛みくらいじゃ吐かない吐かない。だからがねちゃんには痛みよりも快楽、そっちの方が分かりやすいほど弱いんだよ。ほら、やっぱり私が適任でしょ」
卑しい笑みを浮かばせながら何かの感触を思い出すように、女の細くて長い指先が小刻みに動く。
「……、いずれにせよ、それを決めるのは局長および上層部だ。独断専行に走れば、お前も槍碼と同じ道を歩むことになるだろう」
「その名前を口にしないでくれるかなぁ。はぁ……、邪魔がいなくなれば、がねちゃんを取り戻せると思ったのになぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「口を慎め。嘆くのはせいぜい鉄を捕縛してからにしろ」
「はいはい。……にしてもおっかしんだよなぁ~。探知物を解き放ってから一日以上経つのに何の手掛かりもないなんてさ。手負いなんだから気配の遮断に充てる余力は残ってないと思うんだけど」
「何もおかしくはないだろう。日中時間には消滅し、自身が認識しているものしか捜索できない探知物などあてにできないということだ」
「うるさいよ錦。あなたこそ口の中に糞でも詰めてなよ。これでも索敵範囲は拡大してるんだから」
「元を正せば、あそこで取り逃がしたお前の失態だろう」
眼鏡越しの男の眼が鋭いものになる。それに女はわざとらしく手を合わせて懺悔の気持ちを口にする。
「あーもう、ごめんなさい、ごめんなさい。私が悪うございました。裸だけじゃなく、手の内も見ておくべきでした。ごめんなさーい」
「謝る気がないなら謝るな。口を閉じてろ、糞食い女が」
「だからやめてって、それ。これでも私、いい女って言われたんだよ? いい女って、いい女? あっははははははははは! いい女とかウケるぅぅぅ」
「はぁ、お前といるとこっちが可笑しくなってくる。何が面白いのかさっぱり分からない」
「箸が転がるだけで笑っちゃう年頃は誰だってあるでしょ。そういうことだよ」
「そんな年頃ではないだろうに」
男の呆れ顔に、さらに女は笑う。
「あっははははははははははははは――っ!」
女の追跡者は腹を抱えながら笑い続けた。
「あっははははははははははははははははははははははははははははははははははは」




