0―16 要望③
森を抜けた雄臣は二十メートルほどの廃墟と化した鉄道橋を渡る。天界殿はいつ見ても不思議な造りをしていて、神殿が何層にも積み重なった摩天楼のようである。
(不在だったら不在だったで帰りを待つか)
等間隔に置かれた三メートル近くの柱間をくぐり、日乾煉瓦の内室へと入った。無駄に広く無機質な大理石の床を歩く。
壊れて使えない昇降リフト以外何もなかった一階を改築して作った玉座の空間。
その玉座へと続く階段を上った雄臣は、思わずぼそりと彼女の名を口にしていた。
「白雪……」
初めて見た。
華麗なる造りをした玉座の座面には、すっぽりぽつんと白雪が眠っていた。美楚乃があげたクリーム色のパジャマを着ている白雪は、その小さく華奢な身体をリスのように丸めて眠っている。毛布は一枚も被っておらず、カーテンのようにさらりと長い髪が彼女の布団代わりになっていた。
「――」
あまりにも綺麗な寝顔でしばらくの間、見惚れてしまった。
声を掛けるべきか否か迷っていると、彼女の白い睫毛がゆっくりと開いた。
「あっ。起きたか、しら――」
光る鉄線が雄臣の言葉を断った。
覚めたと思った瞬間、刹那的な速さで出現した刀は、突くようにその切っ先を雄臣の額に向けた。
「お、おはよう。白雪」
「……失礼しました。タケオミでしたか」
殺気はぱたんと消え、刀も消えた。
座面の上に足を乗せていた白雪は咄嗟に座り直す。上品に座っているが、かかとは床に付いておらず、それどころか爪先さえ付きやしない。
「やっぱりその椅子、白雪には似合わないな」
「似合う似合わないなど、どうでもよいことです」
「でも椅子は座る場所であって眠る場所じゃないないんだぞ。そんな窮屈そうに眠って、身体の骨、おかしくするぞ。それに布団も掛けずに眠っていたら風邪も引く」
「……うるさいです。私はミソノではありません。子ども扱いしないでください。あなたが心配するような風邪も引きませんし、快適さなど私には必要ないのです」
目覚めたばかりでご機嫌ななめなのか、いや、子ども扱いされたのが癪だったのだろう、如実に顔をムッとさせた。
「それで何の用です? やはり人殺しはできないと弁明でもしに来たのですか?」
「いや、それはもう踏ん切りがついたから大丈夫だ」
その返答に白雪は黙り込んだ後、呟いた。
「…………私を殺しにでも来たのですか?」
「は?」
何だか白雪の様子がおかしい。風邪は引かないと言っていたがどこか調子でも悪いのか、怒っていたのに急にしおらしくなって、物言いも何だか冴えない感じがした。
白雪の感情の起伏がいまいちよく分からない。
「いや、なんで踏ん切りがついたから白雪を殺そうと思うんだよ。だいたい殺しにかかったところで返り討ちに遭うのが目に見えてる。殺すのは悪い奴だろ? 白雪がそう言ったじゃないか」
「……はい」
ほんと、調子が狂う。
「それで何でここに来たかって話だけど、それは美楚乃がすごく寂しがっていて、明日一日一緒に居られる時間が欲しいから白雪の了承を得ようと思って来たんだ」
街を守れなかった人間の願いを聞き入れてくれるとは思えないけれど、無理を承知で頼んだ。
(まあ、約束を先にしてしまった以上、何言われても退くことはできないんだけど……)
「そう言うことでしたら構いません」
「え、いいのか?」
あまりの快諾に思わず訊き返した。
「なぜ驚くのですか。これまであなたの要望は極力お応えしたつもりなのですが」
「いや、まあ、昨日あんなこともあったし……君に全てを背負わせてしまうから」
「そうですね。ですがいつまでも引きずっていては助かるはずの命も助かりません。考えることは一つ、生きている命がまた悔やんでも戻ってこない命に変わらないよう最善を尽くすことだけです」
さっきまで手取り足取り教えないと分からない子どもみたいだったのに、今はまるで母親みたいな大人の風格だ。
「それと私のことでしたら気にしないでください。負担は随分と軽減されていますから心配なさらずとも大丈夫です」
柔らかな物腰で申し訳なく思う雄臣の気持ちを和らげようとしているのが手に取るように分かった。人を殺せと無理難題を押し付けておきながら、彼女はやっぱり優しかった。
「ありがとう。実は美楚乃にはもう口約束してしまっていたから助かったよ」
「……。約束を紡がなければ手放してくれなかったのですか?」
「え、ああ。そうだけど、なんで分かったんだ?」
「四年の付き合いです。負担を掛けていることぐらい分かります。……それでミソノは大丈夫なのですか?」
「ああ、駄々をこねてはいたけど機嫌取り戻してくれたから。あ、でも美楚乃、君に会いたがっていたよ。その、重ねて無理を承知で言うけどさ、またうちに立ち寄ることはできないか?」
「……ミソノの頼み事であってもそれは無理な話です」
「やっぱりそうだよな」
初めて会ったその日が最初で最後だ、とは言ってはいたけど白雪がいれば美楚乃はすごく喜ぶだろし、きっと白雪だって楽しいと思う。正直、こんないつ戦闘が起こるか分からない緊迫したところにいるよりも和気あいあいと遊んでいる方がよっぽどいい。確かに白雪は強いし頑丈だし、誰にも負けやしないと思うけど、戦っている姿はあまり見たくない。もちろん、悲しんでいる姿なんて見たくもない。それなら笑っている顔が、愉しんでいる顔が一度でいいから見てみたい。何をしている時楽しいと思うのか、どんなことで笑顔になるのか、きっとそんな経験したことないから分からないんだ。だから――。
「……なら逆に美楚乃をここに連れて来るってのは駄目か?」
「……? 私が不在でよいのなら構いませんが」
白雪は少し黙り込んで、そう言った。
「よしっ! ここに居ればいずれ戻ってくるもんな?」
「……そうですが」
「なら帰ってくるまで美楚乃と一緒に待ってるよ。美楚乃も多分帰りたがらないだろうし」
それを聞いていた白雪は何か言いたそうな難しい顔をしていた。
「……その、ミソノは私のことを恨んでいないのですか?」
「いやぜんぜん、あの日君と会った日からずっと会いたがってるよ」
「…………」
ここ一番の深い沈黙。まるで難問な計算を脳内で解いているようなそんな感じ。
「承知致しました。明日の夕方頃には一度戻って来られるようにしたいと思います。ただもしかしたら約束の時間より遅くなる可能性も、一向に帰ってこない場合は申し訳ありませんが諦めてください」
「白雪はやっぱり優しいな」
無理なものは無理と押し切らず一度考えてくれる辺り、本当に。
「それは違いますよ。昨日、人殺しを強要させた私はあなたにどう映りましたか?」
唐突にそんな返しをされて戸惑った。いや、確かに契約の条件を白雪から破るとは思ってもみなかったけど――。
「残忍で冷酷な裏切り者だと思ったことでしょう。要するに自分にとって都合が良いからそう見えるだけですよ」
「いや、そんなことは……」
咄嗟に否定しようと思ったが否定の言葉は最後まで見つからなかった。
「つまらない嘘をつくより自分の気持ちに素直な方がよろしいです。それより町の巡回は済んだのですか?」
「あ、ああ、一通り巡回はしたよ。特に異変は見られなかった。だからこの後、白雪の担当区域も見回ろうと思って」
白雪は眉間に皺を寄せて困惑する。
「……どうしてそんなことを。別に私一人で事足りていますから必要ないです。巡回が済んだのなら早く家に帰り、ミソノを安心させなさい」
「でも昨日は僕の担当区域を任せてしまったし、明日もそうなってしまうから、少しでも力になれたらと思って」
「……そういうことですか。律儀な人ですね。見知らぬ土地、迷いの森で遭難したらどうしていたのですか」
「夜まで待てば星が道標になるし……まあ、ただ白雪の役に立てたらと思って後先は何も考えてなかった。でも一応、美楚乃には帰りが遅くなるかもしれないことは伝えておいたから」
「まったく……そう言うことでしたら一緒に見回りにでも行きますか?」
「え、本当か? その方が助かるけど」
「分かりました。すぐに身支度を整えますから、その、後ろを向いて? 待っていてください」
「ああ、分かった」
雄臣は言われて背を向けた。微笑ましいと思った。あの時初めて家に来た時、突然玄関で服を脱ぎ始めたから怒ったんだ。そのことを白雪は覚えていてくれていたらしい。
「でもゆっくりでいいぞ。さっきまで寝ていたんだし」
「気遣いは結構です」
言うと椅子から降りたような着地音がして、次にばさっと布地が乱暴に擦れるような音がした。
「もう大丈夫です」
着替えに過ぎては速すぎた。二十秒も経っていない。
振り返ると、正装である白と黒のワンピースに身なりを整えていた。そして腰まで枝垂れた白髪を黒い布で一つにまとめようとしていた。
髪を巻く姿を初めて見た雄臣は何だかその仕草が新鮮に見えた。
「白雪、髪の毛とか結うんだな」
「長いと戦闘中、何かと邪魔ですから」
「なあ、良かったら髪結んであげようか?」
「なぜです。私一人でもできますけど」
怪訝そうな目を向けられた。
「いや、別に髪を触りたいとかそういう邪な考えはないよ。ないけど、美楚乃の髪をよく結っていたからつい」
「……何だか怪しいですけど、そう言うことでしたら……よろしくお願いします」
白雪は髪止めである布を渡すとくるりと背中を向けた。
「じゃあ、失礼します」
腰を越えるほど伸びた髪をまとめ、左手で髪の毛を持った。
(本当は……うん、前から少し触ってみたかったんだけど……でも、美楚乃によく結んでって言われて、何度もやってあげたことは嘘ではないし。……でもなんでこんな滑らかでしなやかな感触なんだろ? いやいや、美楚乃の髪の毛だって柔らかくてずっと触っていられるぞ……)
「タケオミ、どうしたのですか? 手が動いていないように感じるのですけど」
「っ! いやいや、どう結ぼうか少し考えていただけだから」
髪の感触に感動を覚えていた雄臣は白雪に問いかけられて動揺する。
「そうですか。その、何でも良いですから早くしてください」
「ああ、分かった分かった」
雄臣は髪を結ぶことに集中した。ゴムを通して、毛束を輪っかから少し引き出し、根本が緩まないよう左手でしっかり押さえた。
「きつくないか?」
「平気です」
そのまま左手で根元を固定した雄臣は、右手で毛先の方を持った。そしてその毛先を根元に巻き付けるように持って行き、お団子状にまとめていく。根本と毛先を固定し、右手で掴んだゴムを毛先の膨らみに絡ませながら根本に通した。それをゴムで毛先が固定されるまで何回も繰り返し、最後に全体の形を整えれば完成だ。
「できたぞ」
「ありがとうございます」
「きつく結ぶと痛いだろうから、少し崩したお団子スタイルにしてみた」
「お団子? 鏡がないのでよく分かりませんが、似合っているのですか?」
身体をこちらに向き直した白雪は尋ねる。雄臣は彼女の髪型を前や横、後ろを見ながら確認した。
「うん、すごく似合ってる。後れ毛がこなれた雰囲気を醸し出していて、何よりお団子がふわっとしていてとてもいい感じだ。お団子、もう一個作っても良かったかもしれない」
「……タケオミ、何を言っているのかよく分かりません。気持ち悪いです」
怪訝な表情で辛辣な反応をされた。
「とにかくいい感じってことだ。気になるなら湖面で確かめればいい」
「はい。そうします」
言って、白雪はそのまま外へ出て行った。雄臣もゆっくりと歩きながら、神殿を出ていく。
「あれ、確認しないのか?」
雄臣が神殿の外へ出ると、白雪がいた。
「もう確認しました」
「早っ。で、何か不満でもあったのか?」
喜んでいるのか怒っているのか判断できない表情をしていて、そわそわする。
「いえ、不満はありません。ただ、タケオミはなぜ数ある髪型の中でこれにしようと決めたのか、疑問に思いまして」
「え、それは似合うかなって……」
「タケオミはこういう髪型が好きなのですか?」
「っ。たまたま、たまたまだよ」
「では似合うと思ってやったのではなく、適当にやったということですか?」
「いやいや違うって!」
「ですが、私にはお団子状になったこの髪型が良いのかよく分かりませんでした。適当にやった結果、こんな髪型になったのか、しかし意図的にこの髪型にさせたと言うのなら、それはなかなかの技巧だと思いまして……。その、私は別に怒っていないので正直に答えてください」
表情でも読み取れなければ、言葉でも読み取れない。貶されているのか、感心しているのかどっちなんだ。
雄臣は観念して、正直に言うことにした。
「適当なんかじゃないよ。僕が一番好きな髪型だからそうしただけ」
「……そうですか。私の髪型を自分好みに変えさせたということですね。分かりました。あなたが良いのならこれで良いです」
「え、あ、ああ」
なんか嫌な言い方だ。でも否定はされなかったし。と言っても白雪は自分のことに対して無頓着だからどんな髪型にされても気にはならないんだろうな、と雄臣は思った。
「では行きましょうか」
「ああ」
頷いた雄臣は、森の方に歩き出した白雪の後に付いて行った。




