6―10 少年の告白
琥珀が暮らす洋館には結界による障壁はなくて、陽玄はスムーズに帰ることができた。薄暗いリビングに戻ると、窓際に佇む本棚は不自然に横に移動されていて、陽玄は地下室へと続く隠された階下へ向かった。
海の底のように静寂に包まれた階段を下りていく。
古い館は雪姫を匿う要塞であり、地下室は雪姫が眠る揺籃だった。
けど、そこに白い少女の姿はない。
地下室の部屋に立ち入るのはこれで三度目だが、以前と違うのはそこに雪姫の姿がないということ。
ただ一人そこにいるのは、金髪の少女だけである。
床に座り込んでいる琥珀は、ベッドの縁に顔を埋めながらシーツを握りしめていて、背中と肩が震えているのは声を忍んで泣いているようだった。その姿に明朗快活な少女の面影はどこにもない。
「……ごめん、なさ、い……。か、必ず、救い出しますから……赦して、ください……」
琥珀はくぐもった声を震わせながら、連れ去られた雪姫に対する懺悔の言葉を紡がせていた。
陽玄は扉越しに立ち尽くす。姉である剣崎陽毬の謀略によって、彼女は自分か雪姫かどちらか選ばなければならない立場に立たされた。その結果、彼女は恩人である雪姫を明け渡す代わりに陽玄の命を救う方を選んだのだ。
「巫さん……」
金色のショートカットの髪の下に覗かせた耳が反応する。泣き顔を見せたくないのか、顔を上げた琥珀は壁の方へ顔を背けて、手は涙を拭うように動いている。
「……なんで、戻ってきたの。……黒羽ちゃんはどうしたの?」
顔は背けたままだが、気丈な口調で訊いてくる。
「折り合いがついたから戻ってきたんだ」
「何の折り合い……? 傍に居てあげる約束じゃなかったの?」
「彼女と話して君の傍にいることにしたんだ」
「君がいるべき場所はここじゃなくて黒羽ちゃんのところでしょ。あたしはもう彼女とは会えないけど、君なら狙われる心配もないし、だからこそ君が傍に居てあげないとでしょ」
強い口調で諭すように言う。
「彼女から連絡があった時は細心の注意を払って駆け付ける。僕と彼女で決めたことだからそれでいいんだ」
「良くないっ! あの女が生きている以上、彼女はずっと危険に晒され続けるんだよ? 住所は知られているし、家庭状況も何もかも知り尽くされている。いざとなった時、助けられない。考えてみれば分かることでしょ。……仮にこの館に匿うにしても彼女は普通の女の子で人間としての生活があるし、戦乙女がいなくなった今、この家に張ってあった強固な結界も剥がされた。……君が彼女と一緒にいるのが最適解だって……分かることでしょ?」
「美咲ちゃんはこれから養護施設で生活するらしい」
「は? どうして、彼女がそう言ったの?」
「ああ、だから――」
「そんなの彼女は望んでない。だって彼女は君のことが好きなんだよ」
「知ってる。知った上でそう判断したんだ」
「だからってそんなの間違ってる」
「間違ってない。これでいいんだ。僕は君の傍にいたいんだ」
「我が侭だね。君は他人よりも自分の幸せを優先するんだ」
「そうだよ。だってこれは僕の人生だから。僕は彼女の幸せより自分の幸せを選んだんだ」
「……」
いつもなら身を引くし、いくらでも人に譲るが、これだけが譲れない。今目の前にいる彼女本人がそれを非としようとも、この胸には誰にも譲れないモノができてしまっている。
「それこそ駄目だよ。あたしと居たら碌な目に遭わない。君はまだ間に合う。只人とそうじゃない者の狭間に居る君はまだ普通の生き方に戻れるはずだ。だから、黒羽ちゃんのところに戻りなさい」
「いやだ。僕は巫さんと一緒にいたい」
一度口にしてしまったらもう胸の中で留めることなんかできない。もう決意してしまった以上、もう止まることはできない。
「いやだじゃないのっ。君は普通の人間としての生活を望んでいたはずでしょ」
「今は違う。今は魔術師の家系に生まれてきてよかったとしか思っていない。だって君と一緒にいられる権限があるんだから」
「あぁ、もうっ! どうしてそこまで――」
「琥珀のことが好きだから」
振り向いて絶句した琥珀の表情は、彼女の中に残る幼さがぐっと強く出ていた。今さっきまで泣いていたからか、髪が短いからか、とても幼く見えた。
でもそれは一瞬だけで。
暗い部屋の中でも分かるくらい頬を赤くさせながらも、責めるような瞳で陽玄を見つめてきた。
「……今あたしのことを名前で呼ぶのは違うから」
「でも、美咲ちゃんも告白してきた時、下の名前で呼んでくれた」
「だ、だからって、その好きは黒羽ちゃんのそれとは違うと思うよ。友情とか親愛とか、家族愛みたいな……一緒に暮らして情が湧いて、好きだって脳が錯覚しているだけだよっ!」
琥珀は激しく抗議の声を上げる。
「でも、美咲ちゃんが僕に好きだって言ってくれた時の心情と、今の僕の心情は同じなんだ。その証拠に今の僕の心は君のことでいっぱいで、君のことしか考えられなくなっている」
陽玄は自身の胸に手を当てて、懸命に想いを伝える。触れた心臓の鼓動は剣術を繰り出した時よりも速いのではないかと感じるほどだが、嫌な感覚は全くない。むしろ少し心地よくさえ感じる。
「っ……」
陽玄の言葉に琥珀は声を詰まらせ俯いたが、前髪の下から覗く瞳は左右に揺れ動いていた。
それから何度かちらりと視線を向けてくること三回。泣いて驚いて昂ぶった感情によって瑪瑙色になった彼女の瞳がようやく陽玄を真っ直ぐに見上げてきた。
「……よくもまぁ、そんな顔から火が出る言葉を恥ずかしげもなく言えるね。……黒羽ちゃんがどれだけ勇気出して言ったか分かってる?」
「分かってるよ。でも偽りの気持ちで答えるのは失礼だし、彼女には全部見透かされていたから」
「だからって……。どちらかを選ぶということはどちらか一つを切り捨てることになるんだよ?」
「それもわかってる。そんなのは今の君を見れば、痛いほど……。でも、僕は君を選んだことに後悔していない」
静まり返った静寂の間。
世界が止まったかのような長い沈黙があった後、彼女が口を開く。彼女にしてはとても小さな声だったが、しんとした空間ではよく聞こえた。
「…………あたしのどこがそんなにいいの……」
「たくさんの幸せを僕にくれた。そのままの僕を受け入れてくれたし、必要としてくれたのも君が初めてだ。僕という意味をくれたのも君だし、生きることへの執着をくれたのも君だ。他にも数えきれない程、たくさんある。知らない愛情を僕にくれたのも君だし、生きていてよかったと思えたのも君がいたからだし、とにかく僕の初めて尽くしは琥珀ばかりなんだ。だから、君がいないと僕の生きる意味さえ分からなくなってしまうし、笑ってくれるだけで嬉しいし、傍にいてくれるだけで……幸せなんだ」
これだけでは告白は止まらない。全身にみなぎる情熱を言葉に乗せて届ける。
「僕は君が信じてくれたから戦えたよ。君を思えば思う程強くなれるよ。……もちろん、顔も好き。胡桃色の瞳はすごく魅惑的だし、夕陽を詰め込んだような髪もすごく綺麗で、元気で溌剌したところとか、笑った顔も声も、とにかく全部可愛くて、どうしようもなく好きなんだ」
陽玄の一生懸命な愛の言葉に琥珀は座り込んだまま顔を真っ赤にして、何か言いたげなのだが、ずっと唇を噛んでいる。きっと彼女の頭の中は様々な感情がごちゃごちゃに乱立しているのだろう。
「じ、自分が何を言っているのか分かってるの。自分で言っていて、恥ずかしくならない、の……」
「恥ずかしくても言わないと抑えられそうにないから今全部吐き出してるんだ」
自分が何を言っているのか理解もしているつもりだ。顔は燃えるように熱いし、電気が点いていたらここまで言うことはきっとできなかっただろう。
「……どうかしてるよ、普段の君じゃない……おかしいよ……」
「好きな人が目の前にいるんだ。おかしくもなる。おかしくなるくらい僕は琥珀のことが好きなんだっ!」
「あぁ、もう分かった。分かったからっ!」
かなりの逡巡を見せていた彼女もとうとうどうしようもなくなって、降参の声を上げる。こんなしどろもどろな彼女は初めて見る。
「……君が、あたしのことを、す、好きだってことは十分分かったからもうやめて、……調子狂う……」
彼女の頬から火照りが退くことはなく、所在なげに左右の指を弄りながら小さく答えた。
「じゃあ――」
「でも君の好意に報いられる言葉をあたしの口から言うことはできない。あたしは代行者として、雪姫ちゃんを救えていないし、何の役割も果たせていないから、自分だけ幸せになることはできない。…………けど、君がどうしてもここに残りたいなら、好きにすればいい……」
「これからも一緒に居ていいのか?」
「だから、いいって、言ってる、じゃん、か……」
唇を窄めながらたどたどしく途切れがちに言う。
「やったっ! やった、やった――っ!」
陽玄は思わず子どものようにはしゃいだ。喜びを身体全身で噛みしめなければ、どうにかなりそうだったためである。告白に対する返事は聞けなかったが、今は琥珀の傍にいられるだけで十分幸せだった。
「でも、優先順位は黒羽ちゃんだから、いざとなったら彼女のことを守ってあげるんだよ」
「うん」
陽玄は素直に頷いて、彼女の傍に歩み寄る。
「隣、座ってもいい?」
「…………好きにすれば」
陽玄が琥珀の隣に腰を下ろすと、ベッドに背を向けて体育座りをしていた彼女は、抱え込んでいた膝に額を引っ付けた。おそらくさっきの告白の余韻が残っているのだろう。たぶん彼女なりの照れ隠しだ。
それからしばらくして頭を埋めていた琥珀は、ようやく立ち直ったのかこちらを見てきた。その眼差しは不安感と後ろめたさが両立していて、今彼女が置かれている状況の深刻さを表しているようだった。
そこで、自分の無配慮ともう少しこの浮かれた気分に浸っていたいという愚直さは、完全に消え失せた。
「ごめん、こんな状況なのに告白なんかして……僕が弱かったせいで、選ばざるを得ない状況にさせてしまったのに」
「それは違う。告白は、その、悪い気はしないし、こうなったのはあたしのせいだから。あたしがあの時、ちゃんと決意できていれば、こうはならなかったと思うから」
「決意?」
「あたし、殺すことを躊躇ったの。その躊躇いが決定的な敗因になってしまった。怖かったんだ。人を殺したら、あたしがあたしじゃいられなくなる気がして……、あいつらと同じやり方で物事を解決させたくなかった、殺す感覚を知りたくなかった。けど……守護者失格だね。殺されたら元も子もないのに、殺してでも守らないといけなかったのに」
彼女の声は弱々しい。存在は社会から外れた異質で、けれど心は人間の基準を弁えていて、道徳を犯す自分を容認できない理性がたった一度の実経験(殺人)によって壊される恐怖。琥珀と契約を交わした雪姫は、殺人という行為を容認できるのだろうか。いや、きっと殺す時は殺せるのだろう。だって彼女は初めから異質の存在で、琥珀のように人間として育てられたのではないのだから。
「けど君の刀は命を葬るものではなく、魔力だけを切除して無力化させるものだろう。殺さずに倒す。それも一つの在り方だ」
「……そうだね……人間の在り方としては殺さない解決手段が望ましいとは思う。けど、どんなに聖人を、善人を気取っていても、やっぱりあたしは代行者であって守護者だから、自分の意志に反することでも容認しなくちゃならないし、いつかは殺さないといけないその瞬間が訪れる」
生きているものを傷つけてはならない。
即ちそれは人が人であるための絶対的遵守。
それが心の根底に、人間として生きてきた頃の幼き少女の純心に深く刻まれているのだろう。
他人を守るために殺害を正当化させる者。
独りよがりな都合で他者を死に至らしめる者。
殺す点で言えば、どちらも同じ手段だが、性質は全く持って違う。
殺すことが悪と考えるならば、前者は必要悪で、後者は絶対悪となる。
心ではそう判断できるが、ただ、ただ、後味が悪いのだ。
でも陽玄は知ってしまった。
かけがえのない者を殺されれば、悪人を殺しても殺しても飽き足らないことを。
「正直言うと、僕は槍碼と戦っている時も、殺すことに躊躇いはなかったし、姉の使い魔に君が喰われた瞬間、殺すことしか頭になかったから、僕はもう自分の手を汚す覚悟はできている。君が殺せないって言うんだったら僕が代わりに手を汚しても……」
「それはありえない。汚れるなら一緒に汚れる。雪姫ちゃんを取り返すためなら殺しも厭わずやってのける。現に殺したことがないとは言え、その行為自体は何度もこなしているんだから」
だから、その時が来たら今度は迷うことなく他人の命に手を出せると彼女は言った。
「雪姫の行方に心当たりはあるのか?」
「…………」
彼女の沈黙を見る限りあてはないようだ。
「君と雪姫は同じ魔力で繋がっているんだから、彼女が今どこにいるのか分かるもんじゃないのか?」
「突出した魔力反応ならまだしも彼女の魔力は目を覚まさないほど枯渇しているから魔力の気配を感知することは難しい。そもそもあたしもそんなに魔力を感知できるわけじゃないんだ。それにあの女なら魔力の気配を欺瞞させることくらい容易いだろうし、黒羽ちゃんを探した時のように五感を頼りに探すにしても限度がある」
「でもそう考えると、姉はどうやって組織側の魔術師を引き付けるつもりなんだ? 魔力に匂いや色がついているならまだしも、魔力を付与された一般人や魔術師がいる中で、組織の連中が戦乙女の魔力反応を感知できるとは思えないんだが……」
「そうだね……魔力で何者であるかを区別することは感知するよりも難しいから、今まで通りの手法で行くなら罠に引っ掛かるまで膠着状態が続くと思うけど」
琥珀は呻る。
「あの女、どう出る気なんだろう」




