6―9 少女の告白
微睡のある重い目蓋を微かに開けば、ぼやけた視界に映るのは見覚えのある天井と淡い蜜柑色の電灯。
寝返りを打つように首を横にずらせば、濁った瞳は、少女の輪郭を捉える。
だが脳はまだ朧気で視線だけしか動かせない。
色彩が徐々に戻って、視界の靄が晴れていく。
白い首筋。
淡い桃色の唇。
整った鼻筋。
綺麗な麦色の双眸。
ショートカットのブロンドの髪。
「おはよ……」
やあ、と軽い挨拶を交わすかのように。
陽玄が目を覚ますと、傍らには椅子に腰を下ろした金髪の少女の姿があった。
自然と涙が零れる。
死の世界にしては些か現実世界に酷似しているが、結局、あの後、自分も姉に殺されたのだろう。
だからこうして……。
じゃないと説明がつかない。
「ごめん……、守れなかった…………………」
陽玄が不甲斐なさに涙を流すと、座っていた琥珀が腰を上げた。
「謝る必要なんかないの。弱いあたしがいけないの」
枕元まで近付いてきた彼女はゆっくり腰を下ろして、
「ありがと、助けにきてくれて。嬉しかったよ」
包み込んでくる腕は柔らかくて、胸の中は暖かくて、落ち着く匂いは彼女のものだ。あの世でも五感はちゃんと機能しているなんて、死んだというのに生きているみたいだ。でもこんな時間も長くは続かないだろう。
「……でも手遅れだった。もう何もかも、何もできずに、全部、終わって……」
「ううん、終わってない。死んでないから、大丈夫だよ」
「え――。あ、え……」
心の内を見抜かれたことにも戸惑ったが、死んでないなんてことはありえないのに彼女はそう口にした。
「嘘だ。だって、目の前で喰われて……」
「それは、うん、食べられちゃった。右脚と左腕……、それと髪の毛も。ショートカットになっちゃった」
さらりと揺れる彼女の髪の毛は肩にかからないくらい短くなっている。でもそんなことはどうでもいいことだ。
「違う、喰われたんだ。全部、何もかも……」
「うん、そうだね、名も無き誰かが喰われたことには変わらない。……でも、あれはあたしのそっくりさんだから、あたしは死んでない」
「え……」
「全部、あの女の思い通りに事が進んじゃったの……」
愛着あるぬいぐるみのように、琥珀は陽玄を肌身離さず抱きしめながら話す。
彼女は陽玄が凶弾に倒れた後の話を続けた。
「彼らの目的は雪姫ちゃんの強奪だった。君が槍碼との闘いを繰り広げた後、襲撃しに来た赤毛の子がいたでしょ? 彼らは最初その子の捕獲を目論んでいたんだけど、それが失敗して、今度は雪姫ちゃんを狙いに来たの」
「でもどうしてこんな手間のかかることを……」
「君の姉、剣崎陽毬って言うんだね。あの女はどんな状況だったら作戦の成功率が上がるか、相手がどんな立場に立たされれば嫌か、それを踏まえた上であたしに雪姫ちゃんと君を天秤に掛けさせる状況を作り出したの」
「でも喰われたのは間違いなく巫さんだった」
「まだ信じられない、よね。……君が食べられたと思ってる巫琥珀は、自殺志願者の中であたしによく似た背恰好の女性を剣崎陽毬が巧く加工した瓜二つの模造品。獣の少年がいたでしょ。あの胃の中でそれを予め保管して吐き出して、あえて君の前で喰わせるように仕向けたの」
「……」
「信じてくれた?」
「でもどうして、そんなこと……」
「悪趣味だよね。あたしの死を見た君が錯乱状態になるのを狙って、君を確実に、瀕死、にさせることが目的だったの。そしてあたしに考えさせる暇を与えなかった」
「でも、僕は頭部に銃弾をもらった。助かる怪我じゃなかった」
「君が生きているのは黒服の魔法使いによって治癒能力が一時的に活性化されたから。あたしも片腕片脚食べられて、動ける状態じゃなかったんだけど、同じように治癒能力を増進させられたから復帰は早かった」
じゃあここは夢でもあの世でもない紛れもない現実――。
自分も彼女も今を生きている。
陽玄は彼女の背中に手を回して抱き寄せる。服を引っ張る手に力が入る。もうどこにも行かせたくないと。
「っ……よがっだ……っう、よかっだ。本当に、っ――、よがった、よかっだ、よかった――っ!」
琥珀の胸の中で泣きじゃくりながら安堵感に暮れる。彼女はぎゅっと抱きしめて子どもをあやすように背中をさする。
じんわりと染み込む体温と可愛らしく照れたような表情が、陽玄の不安を拭う。次第に腹の中の臓器まで弛緩して溶けて、自分という存在までなくなっていくような感覚に沈んでいく。
「やっぱりまだまだ子どもだね」
「……子どもでいい。君が傍にいてくれるなら、ずっと子どもでいい……」
お茶らけて言った彼女の言葉に反発心は愚か、恥じらいさえ湧いてこない。
やっぱり彼女の傍にいたい。ずっと一緒にいたい。離れたくない。
けれど陽玄を抱きしめていた手がするりと離れる。
そっと顔を寄せた彼女は優しく微笑んで飴色の瞳を微かに震わした。
「駄目だよ。君が子どもに戻っても、君が傍に居てあげないと駄目な子がいるんだから。……ほら、もう泣いてないで早く行ってあげな。もう陽が落ちちゃう。心配してるよ」
ああ。そうか。
また戻ると約束した。一緒に暮らすとも約束した。死んでほしくなかったから後先考えずに希望を言葉に乗せた。でも本当は琥珀のところに居たい。それだけが本心で、それを伝えたら待っているあの子はどんな顔をするだろう。
陽玄は小さく息を吐いた。
とりあえず今は黒羽のところに行かなければならない。
陽玄は涙を拭ってベッドから出る。
机上に置いてあった刀を背負い、大きく深呼吸をした。部屋の扉を開ける直前、琥珀の方を見た。
座り込んでいた彼女は立ち上がっていて、目が合うと小さく手を振った。けれど手を振り返す余裕は心になくて、このまま花咲くような笑顔で見送る彼女を見ていると、抱き寄せたくなるから気持ちを言葉にすることもできないし、哀しくなるだけだから、これ以上、顔を見ることはできなかった。
△
玄関のドアが閉じる。
森の階段を昇り、地上に出る前に、周りに人がいないか確認する。まるで逃亡犯みたいに警戒心を張り巡らせ、地上に出た陽玄は空を見上げた。昼の時間はとっくに過ぎていて、既に西日は沈みかけていた。
吐く息は魂のように白いが、冬の寒さはまだまだこれからだ。こんな寒さでへこたれていたら本格的な冬は越せないだろう。
長い間待たせている黒羽に早く会わなくてはと歩を速めるが、思うように走れない。
剣術による反動だろうか、歩くたびに鈍く疼く股関節の痛みが、陽玄の歩みを小さくさせる。
いつもより少し時間をかけて駅に着いた。ちょうど来た電車に乗る。走っていても待つ羽目になっていたから無理に急がないでよかった。帰宅時間であるため改札前は多少雑多していたが、電車内の座席は空いていたので遠慮なく腰を下ろした。
乗ること十五分。
堤駅のホームに停車した電車のドアが、アナウンスと共に開いた。
陽玄は電車の揺れの余韻に身体をふらつかせながら、電車を降りる。
改札口を出て、黒羽のアパートへ向かう。駅から彼女の家まで本来なら二十分で着く距離をその倍の四十分程かけて、線路沿いの舗装されたアスファルトの道を歩いた。
市街地から他人の生活圏が混在する住宅街を歩けば、五階建てのアパートメントが目に映る。古寂しいアパートの赤錆びた鉄骨階段に足を掛けたところで、陽玄は足を止めた。
二階に続く階段の隅に、黒髪の少女は蹲るように座っていた。
美咲黒羽だった。自分よりもやや色の濃い黒髪と黒のタイツは、セーラー服の白さを際立たせていて、透き通る素肌が黒のロングを映えさせる。
「……美咲ちゃん」
陽玄はそっと呼びかけた。その声に黒羽はぴくっと肩を震わせて、顔を上げた。陽玄を見た瞬間、彼女の瞳孔が収縮と膨張を繰り返して、今にも泣き出しそうな顔になる。
「剣崎さん……」
おぼつかない足取りで降りてくる彼女の足は止まり、やがて彼女の涙腺は崩壊した。無事であることを目で確認できたことが安堵感に繋がったのか、声を出さずにポロポロ涙を流している。
自分も琥珀の前ではこんな風に泣いていたのかな、と照れ臭くなりながら頬を指で掻いて、陽玄は泣いている黒羽との間にある段差を詰める。
見上げていた視線は同じぐらいの視線になって、彼女の手を掴めば、氷のように指先は冷えていた。
「ずっとここに座ってたの?」
「……はい」
「学校には行った?」
「……行こうと思ったけど行く気分になれなかったです」
「そっか……。ならちゃんと家で待ってないと、風邪引くよ」
彼女の手を握りながら家に連れて行く。家の鍵は開いていた。靴を脱ごうと陽玄は繋いだ手を離そうとしたが、黒羽はぎゅっと握って離さない。
「ごめん、靴脱ぎたいから手を離してくれると助かる。君も握ったままじゃ不自由だろ?」
「あ……はい」
寂しさというよりは不安の色が濃い表情で黒羽は靴を脱いでいく。
「大丈夫だよ」
言って陽玄は一回り小さな手を握り直す。
「巫さんも生きているから」
黒羽は涙で赤くなった目を袖でこすった。次第に落ち着いていった彼女をリビングに連れて行き、ソファに座らせた。
陽玄は黒羽の足下に膝をついて、彼女と向かい合う。
「……君が寂しさを覚えてしまわないように僕が君の傍に居てあげるから、君さえ良かったら、……一緒に暮らそう」
迷いが言葉に乗らないようにできるだけいつも通りに接した。
こうすれば黒羽の不安感は一先ず解消される。そう思っていたが、彼女の表情は冴えない。
「何か気がかりなことでもあるの?」
「その、わたしがいなければこんなことにはならなかっただろうし、大切なものを自分の都合で殺しておいて、そんな自分が一緒にいて、いいのかなって」
俯いた彼女の顔の上半分は前髪で隠れ、表情は分からないが、涙を堪えるように唇を噛んでいる。鼻をすする音が聞こえた後、消え入りそうな声で言う。
「どうすれば……どうすれば、いいのか、分からなくて。生きていていいのか、それだけがやっぱりわたしには分からなくて……」
「どうやって生きていくかは僕にも分からない。けど今言えることは、同じようなことはもうしないって誓って、いつか自分と周りを幸せにすること。それだけ考えていればいいんじゃないかな」
陽玄は彼女の頭を軽く撫でる。「だからもう、大丈夫さ、きっと」
「だからもう泣かないで。僕がここに来た理由は君の笑っている顔が見たいからなんだよ?」
そう言うと、黒羽は涙を拭いて、今できる限りの笑顔を陽玄に見せてくれた。
「うん、やっぱり笑った顔が一番だ」
潤んだ紫紺色の瞳は柔らかくて、涙の痕が付いた頬と目の縁は赤くて、やがて顔全体もじんわりと赤らんだ。
「……ぁ……ぅ……っ」
上と下の唇同士をきつく結ばせながら何か言いたそうにして、けれどすぐさま濡れた瞳は横に逸れた。
「その、あの、陽玄さん……」
「え、今――」
下の名前で呼ばれて不覚にもドキッとする。
「あの、ね。陽玄さん……」
「な、なに」
彼女は一つ息を吐いて気を取り直すと、濡れた黒真珠の瞳を真っ直ぐ向けて打ち明けた。
「……好きです。陽玄さんのことが……大好き、です……」
気持ちのこもった純粋な言葉は誰にでもわかる愛情表現。胸に秘めた思いを告白した彼女は、耳まで真っ赤にさせていた。
そんなこと言われるとは思っていなかった陽玄は驚きつつ、告白に対する気持ちを整理する。が整理すればするほど脳裏に浮かび上がってくるのは、別の少女の顔だった。
黒羽の傍に居続ける、のだから、彼女の告白に、応えて、しまえばいい、とも思ったが、一生懸命な想いに対して偽りの気持ちで答えるのは駄目な気がした。だから素直に喜ぶことはできないし、やっぱり自分は琥珀の傍にいたくていたくてどうしようもなかった。かと言って、それを伝えたところで、どうなると言うのだ。でも――。
「美咲ちゃん……」
「いいんです。わたし、陽玄さんが琥珀さんのこと好きなの知ってます」
「……え」
告白にも驚いたが、予想だにしていなかった指摘に喉が詰まる。
「気付いてないかもだけど、陽玄さん、琥珀さんのことずっと目で追っているし、話している時だって楽しそうだし、ああ、わたしもこんな風に思われたら幸せなんだろうなぁ、いいなぁって」
小さな手を自分の膝に置いた黒羽は、まるみのある柔らかな声で話す。
「だから、わたしの恋に区切りをつけさせてほしいんです。そうしたらたぶん、寂しくなくなるから」
その言葉は苦しみから解放させてほしいという願い。答えられなければ彼女を苦しめ続けることになるのはわかっているが、それは彼女を殺すこととさほど変わらないのではないかと思う。でも彼女を切り捨てても琥珀の傍にいたかった。
「…………ごめん。君の告白には応えられない。……けど誰かに告白されたのは生まれて初めてだったから、すごく嬉しかった。ありがとう」
黒羽は悲しそうに笑って、結んだ唇を歪ませる。
「…………だめ、です。そんなんじゃまだ区切りはつけられません」
黒羽は笑いながら大粒の涙を流して言う。
「琥珀さんに、告白してきてください」
「え……」
「陽玄さんが琥珀さんに告白しないなら、やっぱりわたし諦められません」
「美咲ちゃん……」
「わたし、わがままでずるい子なんです。だから、陽玄さんみたいに自分の想いを抑えることなんてできません。困らせたいくらい好きなんです」
「……」
「……本当は、わたしも告白するつもりじゃなかったんです。陽玄さんは琥珀さんのことが好きでわたしには勝ち目がないって分かっていたから。……でも陽玄さんの顔を見たら、頭の中、陽玄さんばっかりになって、今告白するならここしかないって、我慢なんてできなかったんです。だから、琥珀さんに告白しないなら、わたしと付き合ってください。琥珀さんを好きなままでもいいから、何なら琥珀さんの代わりだと思ってわたしを使ってくれても構いません」
「使うだなんてそんな、そんなことできないよ。巫さんも美咲ちゃんも唯一無二の存在だ。誰かの代わりになんてならないよ」
「……なら告白してください。そしたら諦められる、から……」
まさかここまで言われるとは思ってもいなかった。彼女は自分よりよっぽど度胸がある。
「でも、そういうわけにもいかないんだ。僕の姉はまだ生きてる。だから、姉がまた君と接触する可能性は拭えないんだ。だから僕は君を守るために――」
「いらないです。傍にいなくても大丈夫です。区切りはつくから、もう寂しくないです。だから琥珀さんの傍にいてあげてください」
「でも――やっぱり駄目だよ」
「わたし、この一件でよくわかりました。お母さんが自殺して、身寄りがいなくなって、本当だったら児童養護施設に預けられるはずだったんです。でも、お母さんと過ごした場所を捨てたくなくて、頑張って一人で生きて行こうって……でも難しかった。一人で生活するのは思っていたよりも大変だった。何よりすごく寂しかった。だから、これからは学校の先生と相談して、施設の方で暮らそうと思います。だから、大丈夫……過ちも犯さないし、寂しくなくなるはずだから……」
「……美咲ちゃん」
黒羽は笑顔を取り繕って少し気まずくなった雰囲気をなかったかのようにする。けれど、やっぱり彼女の表情はどことなく淋しさに包まれていて、感情を隠し通すことなどできていなかった。
嘘の言葉だ。
告白が真実ならこれは嘘の言葉だ。
陽玄が琥珀の傍にいたいと思うように黒羽も同じなのだ。
でも、既に陽玄は告白には応えらないと言ってしまった。その時点で、黒羽はもうその覚悟をしていて、陽玄が何を言ったところで決めたことは変わらないのだろう。
「ごめん……約束守れなくて……つらい時、傍に居てあげるって言ったのに」
「ううん、陽玄さんは約束守ってくれたよ。こんなわたしに生きる希望を与えてくれてありがとう。ありがとうしか思い浮かばないです。だから、これで……」
「でもこれで僕と君のつながりが消えるわけじゃないだろう? 連絡してくれたら、巫さんには怒られるかもだけど駆け付けるし、寂しいことや悲しいことがあったら元気が出るように――」
「じゃあ、抱きしめてほしいです。今、すごく悲しいから……」
「……分かった」
黒羽の背中に手を回して抱きしめた。華奢で小さな身体はすっぽりと陽玄の腕に収まった。
「……あと、勇気出して告白したから、頭もなでてほしい……」
「うん。分かった」
陽玄は黒羽の長い黒髪を梳くように撫でる。すると彼女は猫のようにゴロゴロと喉を鳴らして幸せそうに目を細めながら涙を流した。
「……好きです」
「うん」
「大好きです……」
「ありがとう」
「好き、好きです。すごく大好き……」
「うん」
「ぅっ、だい、っ、すき……だったのになぁ……」
「ごめんね」
「……あぁああああん」
「……ごめん……」
泣き止むまで抱きしめて撫でるしか、陽玄にできることはなかった。




