6―6 失意
「はぁ――はぁ、はぁ」
乗車した。
何とか間に合った。
一度でも信号に捕まっていたら間違いなく乗れなかっただろう。
陽玄はドア近くの座席に腰を掛けた。
額から汗が滲み出る。凍り付いた空気を吸い込み過ぎて気管支が破裂するくらい痛い。
「はぁ、はぁ」
鼓動を繰り返す胸を抑え、首に掛けてあるコハクのペンダントを握りしめ、落ち着かせた。
目的の駅に着くまでに呼吸を整え、冷静さを保つ。
陽玄は身体を揺らされながら考える。
(姉の目的は宗教組織の壊滅ではなく、巫さんと雪姫の抹殺? 槍碼の言動とは食い違うが、姉も組織側の魔術師ということなのか。なら、なんで今まで餌に食い付いた巫さんを襲撃してこなかったんだ? もしかして寝返って、組織側の魔術師と手を組んだのか。いや、焦るな。巫さんが言っていただろう。槍碼の言動考察からして宗教組織の目的は巫さんと雪姫を供物にすることによって得られる何かだって。なら生きたまま連れ帰ることが必須条件になるはずだ。殺すという表現はおかしい。けど、美咲ちゃんにはあえてそう言った可能性も……なくはないか)
とにかく事実なのは琥珀が姉の襲撃を受けているということだ。
電車が停まって、ドアが開く。ドアが閉まって、電車が進む。
繰り返される同じ動作。
人生の中で一番長いと感じる時間。時間はいつにも増して遅く動いている気がして、陽玄の心から焦りや不安は消え去らない。
三度、ドアが開く。
陽玄は誰よりも早く飛び出した。
すぐさま駅の改札を通り抜け、踏切を渡る。
駅付近にある大型スーパーは買い出しのために彼女とよく行った場所。それを通り越して、ただひたすら走る。
闇に溶け込んだ霊園の入り口には自動車通行禁止の看板が立っていた。そこは同時に森の入り口でもある。
勾配の急な坂道を駆け上る。
彼女の結界は打ち破られたのか、結界に関する知識がない陽玄には分からない。
心音が高くなる。
緩やかに蛇行する坂道。走る足が勢いを増して速くなる。
憩いの場である噴水には誰もいなかった。
朧げな月光が噴水を照らし、雨上がりのように流れる水を煌めかしているだけである。
一度止めた足を動かして、街道を疾走する。
周囲は暗く、木々の隙間から零れる月光がアスファルトをかすかに照らすだけ。左右の脇に立ち並ぶ木の枝は毛細血管のように細く細かく、不気味な雰囲気を醸し出していた。
片道三十分の距離を五分の速さで走った陽玄は、霊園の脇道に入る。
洞穴のように闇に呑みこまれた階段を下りて、琥珀と雪姫が暮らす館に辿り着いた。
陽玄は玄関のドアノブに手を掛ける。
鍵は閉まっておらず、館に張られた結界は陽玄を拒絶してはいない。
玄関ホールは暗いが、リビングの方からは灯りが漏れ出ていた。
陽玄は土足のまま玄関に上がった。土足は厳禁どうこうの礼儀作法は陽玄の頭から抜け落ちている。長い廊下を走り抜けて、半開きになっていたリビングのドアを勢いよく開けた。
「巫さんっ!」
――が、彼女の天真爛漫な声は返ってこなかった。
主戦場になるならば、ここしかないと思っていたが、襲撃の痕跡は見られない。何より、隠し部屋である地下室のベッドでは戦乙女である雪姫の無事が確認できた。
静かに眠る雪姫の傍ら、陽玄はベッドの端に手を付け、腰が抜けたかのように屈みこんだ。
「どこに、いるんだ……」
襲撃を受けているならば、どこかで戦闘が繰り広げられているはずだが、ここに来るまでの間、周囲は不気味なほど静寂だった。だが、雪姫が無事なら琥珀の命も無事であるはずだ。決して希望的観測なんかではない。
(僕が彼女で、彼女が僕だったら、このペンダントで何処にいるかなんかすぐ分かるのに……)
もどかしさに顔を歪ませた時、雪のように冷たい指先が陽玄の手に触れた気がした。
「え――?」
顔を上げて陽玄は驚いた。雪姫の指が触れたことにではない。その指先を通じて、琥珀が今どこにいるのかの断続的な光景を、雪姫が陽玄の脳に直接送り込んできたのだ。
あやふやな情景は森、森、森、森、森。
森林公園内の光景――。森に囲まれた平地――。陽玄の記憶と重なる情景は、昼間、彼女と訪れた広場で間違いなかった。
△
市街地から離れたここはこんなにも深い森に囲まれている。自然は多く、頼りとなる灯りは一切ない。息絶えた無数の人間が石碑となった近くで、森は開発されながらも緑を増やし生き続けていた。
霊園に隣接している森林公園内。板床の散策路は夜の闇と白い夜気に包まれていて、幻想的な世界に迷い込んだみたいである。
方向感覚が狂う。
溜池のような沼地に落ちるのを恐れて、思うように走れない。
広場に繋がる階段が見えないのは愚か、今どこを走っているのかさえ分からなくなる。
「アアアアアアアアアアアアぁぁぁぁぁあ――っ!」
その瞬間、近くで獣のけたたましい咆哮が聞こえた。
「今の遠吠えは」
それからその叫びは森に音を吸われたかのように静謐に包まれた。自分の鼓膜がおかしくなったのか、自然の音すらも聞こえなくなった。
夜の闇と薄く浮かび上がる夜気の中を走る。
広場へと繋がる長い階段。
その一歩手前。
雪姫の記憶が正しければ、琥珀はこの上にいるはずだ。
でも音は聞こえない。
耳が痛いほどの静寂。
階段を一段飛ばしながら駆け上がる。
走る心臓だけが、死んだような世界で、息づいている。
悪天候の中を走り続けてきた太腿が重くなるが、足が止まることはない。
(この階段を上がれば、巫さんが――――)
「…………………………………………………くちゅ、ぴちゃ、ぷちゅ」
音が聞こえた気がした。
ここに来て、臆病な自分が、自分の足を停止させた。
何かを、喰っている、音が、する。
夜の静寂をかき乱す、異物が、いる。
心が軋む音がした。
あるのは畏れ、胸の中央が早鐘を鳴らす。
息が苦しい。
胸が痛い。
喉が渇く。
酩酊感のある思考が不格好な逃走をちらつかせてくるが、魔術師としての本能が勝手に足を動かしていた。
靴越しでも足裏に伝わってくる冷たい木製階段を一歩上る。
続いて二歩目。
三歩目。
草原の境界線を踏み込み――、広場に辿り着いた陽玄は息を呑んだ。
開いた視界に煩わしい夜気はない。
あるのは常闇の中に潜む挙動のおかしなモノ。
人影というより動物的なシルエットに近い。そいつはくちゃくちゃと滑り気のある咀嚼音を暗闇に響かせている。
陽玄の気配に、そいつと、その後ろに佇む人影が、気づいた。
こちらに振り向いたそいつは、野犬ではなく青い眼をした少年だった。食べ方を知らないせいか、口回りは赤く汚れている。いや、人間であれば肉食動物を連想させるような喰い方なんてしないだろう。
じゃあ、この子は何を喰っているのだろう。
事実を受け止めたくないから逃避的な思考に回る陽玄に、淡い月の光が残酷な答えを突き付けるかのように辺りを照らした。
嫌な予感はしていた。
でも大丈夫だって……どこかで思いたかった。信じたかった。
この世で一番残酷な光景は、巫琥珀の敗北を物語っていた。
辺りは血の海だった。
地面の所々に付いている赤いペンキはすべて、飛び散った彼女の血液。仰向けに倒れている琥珀は静かに眠るように瞼を閉じていた。
ただ――、その綺麗な顔は、酒瓶に沈められた蝮のように獣の涎に塗れていて、一糸まとわぬ白い裸は喰い散らかされていた。
腹からはじわじわと赤い体液が流れ出ていて、左脚は真っ赤に腿から潰えて、蒼い目をした少年はもぎ取った彼女の右腕をちょうど喰い尽くしたところだった。
「遅かったじゃないか、陽玄。待ちくたびれて、食べ尽くしてしまうところだったぞ」
皮肉げに響く、女の声。
陽玄は呆然と立ち尽くす。
「ベスティー、平らげていいぞ」
遠くから響く、女の短い声。非人間的な女には容赦がない。
少年はニヤリと笑い、目の前の食事に勢いよくかぶり付いた。
喰われている彼女はぴくりとも動かない。
それはまるで盛りの付いた犬による死姦のような食事だった。
吸血鬼のように琥珀の左肩に噛みつきながら、躊躇いなく彼女の鳩尾に右腕を突っ込む。
その片腕を引っこ抜けば、真っ赤に染まった手中に彼女の心臓が収められていた。
少年はもぎ取った血みどろの心臓(果実)を頬張る。
食事の時間はそれだけでは終わらない。だって出された食事は残さず最後まで食べるのが、捕食者としての正しい本質なのだから。
忘我するかのように、顔中真っ赤にさせながら。
暴食する。
腕が脚が中身が彼女を構成していたカタチがなくなっていく。
琥珀の部位を解体し、臓器を引きずりだし、身体全身で食事を愉しめば、彼女の原型は留めていなくて、五分足らずして、全てを喰い尽くした。
目の前で彼女を喰い尽くされた陽玄は意気消沈。膝から崩れ落ちて、涙腺が壊れたかのように涙を流すだけ。
彼女の死は陽玄の死。
戦う意味を失った。
守るべきものを失った。
存在意義を、存在価値を失った。
「陽玄。最も美しいとする瞬間は何だと思う?」
何事もなかったかのような平然とした口調で、女が言った。
「……」
「教えてあげよう。それはね、何かが壊れたり、潰えたり、終わるその瞬間だよ。その点で言えば、少女の終わりは実に美しかったと言えるだろう」
女の答えに、一匹の少年は下品な笑い声を上げる。手に付いた血を毛繕いのように丁寧に舌で舐め取りながら。
「…………ふざ、けるな」
それが本当に美しいと思って言っているのなら、それは常識と理解が追い付かない最低の品性だ。
「……お前は自分の大切なものを失ってもそんなことを口にできるのか」
「悪いが、私は失う側ではなく壊す側だからね」
「心から大切だと思ったものに出会えていないの間違いだろ」
姉は哀しい人間だ。この感覚が彼女にはわからないのだろう。だからこんな惨たらしいことができる。
「確かにそうとも言える。けどね、大切なモノがないということは、失うモノがないということなんだ。何が何でも守らなくてはならないと思えば思う程、失う恐怖は大きくなり、失った瞬間、計り知れない虚無感に苛まれる。それが今のお前だ」
陽玄は草地に額を当てながら彼女のことを思い返す。
彼女が手を差し伸ばしてくれたこと。
ありのままの自分を受け入れてくれたこと。
親しく話しかけてくれたこと。
彼女に守られたこと。
彼女が掛けてくれた言葉に勇気をもらったこと。
自分が作った料理を美味しそうに食べてくれたこと。
自分の話をとても楽しそうに聞いてくれて、可愛らしく笑ってくれたこと。
いつしかずっと傍にいたくて、いつしか世界中の誰よりも大切な存在となっていた。
心の底から守りたいと思ったんだ。
涙をだらだら流しながら泣き叫ぶ。
「違うね、守りたいものがあると人は強くなれるんだ。僕は彼女のおかげで強くなれたっ。大切なものを手に入れたことがない人間に、この強さを否定されてたまるかっ!」
涙は止まらない。だが、立ち上がる。
「ふん、否定するさ。その強さは守るべきものがあって成り立つ。現にお前を突き動かす原動力は失われた」
確かにそうだ。
守るべき対象を失った今、陽玄の強さを形作るものは失われた。
だがまだ、彼女のためにできることは残されている。
女は知らない。
大切なものを失われた時、その人間の心に宿される煮えくり返る程の動力源を。
これは殺された(守れなかった)彼女のための復讐(弔い)だ。
仮に彼女がそれを望んでいなくても、すでに陽玄の心は激情と殺意が渦を巻いて混ざり合い、現実的な手段にまで、思考が至り始めている。
「善人が不幸のどん底に沈んで、悪人がこの世を謳歌する? 笑わせるなよ」
姉の口端が吊り上がったことに、陽玄は肌という肌が粟立った。
「何を、笑っている……」
厭悪の表情で。
陽玄は背に携えていた鞘から黒刀を抜き出した。
姉は失うものはないと言ったが、生きている以上、失うものは必ず内包している。
それは、命だ。
陽玄が今できることは、生きとし生けるものの根源であるそれを斬り落とすだけ。
不俱戴天の仇には、正義の鉄槌(死)を。
「失うものがないのなら失うものを与えてやるよ」
罪悪感が湧くことはない。
後悔なんて一かけらも抱くことはないだろう。
だってこいつらは、人でも家畜でもない、畜生以下の存在なのだから。




