6―3 機微
日課である刀の素振りを終え、二人分の朝食を作る。トーストを焼いている間に珈琲を淹れる。鍛錬で身体を動かし疲れたのか、いやそんなわけはないと思うが、何だか眠気が取れないので、カフェインを摂取して意識をはっきりさせたかった。
サラダとハムエッグを作りながら、パンが焼けるのを待っていると、琥珀が起きてきた。
「おはよう」
「おあよー」
猫みたいにふわふわに膨張した金髪を揺らしながら砕けた挨拶をする。毎朝の日常風景なので驚きはしないが可愛くはある。
「食パン何枚食べますか?」
「三枚。あと、あたしも珈琲で」
紅茶派の彼女が珍しいな、と思っていると琥珀はてこてこと洗面所へと移動した。
追加で二枚パンを焼く。
以前なら朝から三枚もよく食べられるな、と感心していたが、彼女にとっては標準的な枚数である。多い時には一斤まるまるなんて日もあった。因みに陽玄はトースト一枚で十分足りる。
出来立てのパンをお皿に乗せて、自分の分だけバターを塗った。琥珀にはあとでバターなりジャムなり好きに塗ってもらうとして、マグカップに珈琲を注げば、朝食の出来上がりだ。
八人用の長テーブルにお皿を運んでいると、琥珀が洗面所から戻ってきた。くるんとした毛先やウェーブのかかった髪はブラシで整えられ、肌は水気をたっぷりと含んでいる。
「いただきます」
向かいに座った琥珀は、珈琲を一口啜った後、焼きたてのパンにバターを塗って、その上にブルーベリージャムをたっぷりと乗せて、ぱくっと齧りついた。
「おいしいね」
「……ああ」
「どうしたの? 食欲ないの?」
「いや、そうじゃないけど」
琥珀はいつもと変わらず笑顔を振りまいているが、どことなく仮面のような笑みに見えるのは陽玄の気にし過ぎだろうか。なんとなくぎこちない笑みの裏にあるのは一人の少女の存在なのだろう。
結果的に美咲黒羽を突き放すような形になってしまったことは心残りである。まるで喉の奥に引っ掛かってずっと取れない魚の骨みたいだ。そう感じるのはたぶん、陽玄だけでなく琥珀もだろう。
「巫さん」
「ん?」
「あれから二週間以上経つけど、何もないこの状況はどう見るべきなのかな?」
依然として敵の襲撃はない。そして黒羽と別れてから一週間以上経つが、向こうから電話を掛けてくることもない。
「黒羽ちゃんが心配?」
「ああ。このまま何もないんだったら、とりあえず僕は彼女の様子を見に行きたい」
食べかけのトーストを皿に置いた琥珀は、珈琲を一口飲んで一息吐いた後、躊躇うことなく頷いた。
「分かった。でも彼女に会いに行くんだったらあたしの所にはもう帰ってこないで」
「え?」
「敵に居場所が特定されていないならそれでいい。でも君が黒羽ちゃんの家とあたしの家を何度も行き来することで特定される可能性が出てくる。特定されることで黒羽ちゃんを危険に晒すことになる。君が会いに行くというなら自分の行為に責任を持って、ずっと黒羽ちゃんの傍に居てあげて」
「ずっと傍に……」
……。
……。
……。
それに対する答えを出せないまま、ずるずると時間は過ぎていき、昼過ぎとなった。
琥珀の洋館は霊園の出入り口に挟まれた場所に位置しており、館に続く道の反対方向には北高根森林公園という植物園がある。
そのため敵が侵入するとしたら霊園の出入り口二か所と公園の出入り口二か所、計四か所が考えられ、琥珀はこの前の夕刻に張った魔力反応を感知、通告してくれる結界を確認しに行くと言う。結界は行う方法で持続効果が変わり、霊園という場所が場所であるため、琥珀は結界の効力が薄れるのを危惧して張り直しをしに行くようだ。
怪我が完治した陽玄ももちろん同行し、結界の視察がてら森林公園内を散歩することになった。
△
緑の葉っぱをたくさんつけていた木々も秋となって、道とは呼べない自然の通り道は朽ち果てた枯葉の絨毯となっている。
スナック菓子のような乾いた音が鳴る。しばらく歩いていると、鬱蒼と木の茂った森の中には、湿田の上に伸びる木製デッキの散策路が整備されていた。野鳥や植物で溢れた庭園内は空気が澄んでいる。園内は川のせせらぎ、鳥のさえずりといった自然が作り出す音だけで、市内の喧騒は無く、落ち着きだけがここにある。空気もひんやりとしていて、自然に満ち溢れた光景は平和な感じだ。
デッキの上を歩く。
案内板を見つけて、陽玄は立ち止まった。
「どこか行きたい場所ある?」
現在、陽玄らがいる場所は水生植物園エリアで、他にも園内には幼児が遊べる遊具やピクニックのできる芝生広場、古代植物園エリアなどがある。
「巫さんはここに来たらどこに行くんだ? 君がいつも行く場所に僕も行きたい」
陽玄のリクエストに琥珀は優しい笑みを湛えて応じた。
「いいよ。じゃあ、ついてきて」
陽玄は自分より二、三歩前を歩く琥珀についていく。森の中だから視界に入る光景はあまり変わらないが、自然の匂いは濃くなって、嗅がなくても緑と土の匂いは風と一緒に鼻孔を通り抜ける。
人工的に作られた木製の通路を歩いていると、初めて見る光景に目を奪われた。虫や水の音。ザリガニやカエルがいそうな湿地や水辺には草花が生えていて、湿田の脇を小川がちょろちょろと流れている。
陽玄が物珍しそうに生い茂る草花を眺めていると、振り返った琥珀が嬉しそうな笑みを浮かばせて、そっと隣にしゃがみ込んできた。
「あ、ごめん、立ち止まっちゃって。こういうの初めて見るからなんか新鮮で」
「ううん」
「……なあ、あの青い花はなんて名前なんだ……って分からないか」
「ふふん、わかるよ」誇らし気な表情をして答える。
「あれはセキヤノアキチョウジ、シソ科の花だね」
「へえ、じゃあ、あの白いのは?」
「キツリフネソウ。ついでにあのピンクっぽいのはミゾソバ」
指を差しながら丁寧に教えてくれる。
「詳しんだね」
「まあね。小さい頃、よくここに来て、色んな植物を観察していたから」
「そうやって過ごしてきたのか?」
「特にやることもなかったし。代行者という立場だったけど、幼いあたしはただの子どもだったから、下手に外に出ればつけ狙う者に遭遇するかもだし、大人しくひっそりと暮らしていたんだ。でも、ずっと家に閉じこもって本を読んでいる生活も飽きてしまって、だからここに来て、色んな花を観察したり、珍しい生き物を探したりするのがすごい楽しかったんだよね。季節ごとで咲く花も違うし」
「……そうか」
たった一人。小さかった彼女も同じようにぽつんとここに座っていて、誰かに話すわけでもなく、どこまでも一人の時間を過ごしてきたのだろう。
「もっと早く案内していればよかったね」
「そんなことない。今この瞬間、君と一緒に来ることができて、僕は嬉しいよ」
「ふふ、嬉しい」
可愛らしく照れた表情が、陽玄の心をくすぐる。
「そろそろ行こっか」
「うん」
向かう先は上へ。
周囲を取り巻くシラカシ林の中、うねうねと上へと蛇行する整備された木造階段を進む・そうこうしてひたすら上ると、次第に森は開けて、一面には広大な芝生の広場が広がっていた。
「うわぁ、広いな」
「ふふ、あそこのベンチ、座ろうか」
木の陰に隠れたベンチに背を持たれた。日がよく当たっている広場の中心には巨大な桜の大木が佇んでいて、小さい子ども達が元気よく遊んでいる。
「巫さんのお気に入りの場所って広場だったのか」
「うん」
「どうしてここがお気に入りなんだ?」
「どうしてだと思う?」にこっと笑って、逆に質問されてしまった。
「うーん、開放的になれるから?」
「それもあるね。けど、ここに来るとね、子どもの笑った声がよく聞こえるし、休みの日には家族で仲良くピクニックしているところが見れたり、誰かの楽しい瞬間を見られるから好きなんだ」
広場には子どもの活気な声が聞こえてくる。ゴムボールで遊んでいる子や楽しそうに走り回っている子どもとそれを見守る母親の姿が遠くからでもよくわかる。本当に楽しそうだ。だからこそ尚更寂しくなってくる。
「……でも君は」
「ん?」
「いや、何でもない……」
聞けるわけがない。こんなのはこちら側の勝手な同情なのだ。お花見をするために両親とピクニックするはずだった彼女の未来。それが不運な事故で二度と叶わないものとなってしまった。
つらくないのか?
たった一人、幼い彼女はこのベンチに座って、目の前で楽しそうにピクニックをしている家族の光景を見て、本当に笑えただろうか。他人の幸せを心から喜べただろうか。自分だったら二度とこの場所には訪れたくない。だってそんなの悲し過ぎる。
でも今隣に座る彼女の表情は偽りなく晴れやかだった。それがすべての答えで、なら一人だけ感傷的になっているわけにもいかない。せっかく案内してくれたのに、彼女と初めて来た思い出が悲しい記憶になってしまうのは嫌だった。
「あたしね、子どもが大好きなんだ。子どもが元気にはしゃいで楽しそうにしているところを見ると、こっちも元気になれるし、頭撫でてあげたくなる」
穏やかな眼差しで子ども達を眺めながら優しい声音で話す。
「……君のところに産まれてきた子は幸せだろうな」
陽玄は率直に思ったことを口から漏らしていた。だって実際、自分が彼女のところに産まれてきていたら幸せだと思うから。
「……ふふ」
彼女は小さく微笑みの吐息を返すだけ。
もっと何か反応があるかと思っていたが反応は控えめで、その代わりに彼女の目はいつの間にか子どもではなく空を仰いでいた。その横顔は悲哀にも取れて、今は何を思っているのかまったくわからない。
彼女が見ているものは空だ。空は広く遠い。手を伸ばしても届かない、見えない天井だ。その天井が届くとしたらそれはどんな時だろう。おそらく何もかも終わった時なのだろう。上と下は絶対にくっつかない。くっつくとしたらそれはその理が壊れた時だろう。それこそ建物が倒壊しなければ天井と床が合わさらないように、世界が終焉しなければ天と地が互いに着くことはない。
ならば今の発言は彼女に対して配慮が足りなかったかもしれない。いや、流石に考えすぎか――。
「ヨーゲン君」
「なに?」
「あたしの方は大丈夫だからさ、やっぱり黒羽ちゃんの傍に居てあげてよ」
何を言い出すかと思ったら話はそれに移る。
「もうあたしが君を守らなくても大丈夫だろうし、たぶん、君の姉が君のことを殺しに来る可能性も低いと思うよ」
「いや、でも」
「彼女の目的は宗教組織側にあるっぽいから、君があたしと一緒にいる理由はもうないでしょ」
確かにそうかもだけど、そういうことではない。
「仮に君を狙いに来ても、今の君なら黒羽ちゃんを守れる。あたしが言うんだから、うん、大丈夫だ。だから、これ以上、あたしと関わる必要はないの。……黒羽ちゃんの言う通り、このままあたしといたら君を不毛な戦いに巻き込んじゃう」
「僕は……、それでも構わない」
だって、あの刀は、この身体は、この心は、この命は、彼女のためにあるのだから。
「……ありがとう。でもね、もう誰も死なせたくないんだ。黒羽ちゃんも君も。あたしのせいで死ぬのも、あたしなんかのために戦うのも、あたしは望んでない。……あたしは一人で大丈夫だから気にしないで。もともと一人だったわけだし。……だから、ね?」
「――僕は、……っ」
どうすればいいんだ。
こうやって悩んでいる間も黒羽は思い悩んでいるに違いない。明らかに様子がおかしい彼女を放っておくことはできない。寄り添ってあげると、苦しい時、傍にいてあげると言ったのはどの口だ。ちゃんと責任を取らないといけない。
責任が取れないなら、仕方がない、諦める、割り切るのか。妥協という選択を決断できるほど、陽玄は大人ではないし、無責任な人間にはなりたくない。
しばらくして陽玄が琥珀の方に視線を向けると、彼女はベンチの上から赤茶けた西の果てを静かに眺めていた。とうに子どもたちの姿はなくて、広場にいるのは陽玄と彼女だけだ。
時間の流れは早く、考え込んでいると既に日は暮れていて、もうじき夜の帳が下りる時間帯となっていた。
「……明日の朝、どうするか教えて」
「…………分かった」
もと来た階段を下りて、すっかり暗くなった公園内を歩く。公園の出入り口に張ったと言う結界を確認し、張り直しをした後、一駅分の道をぐるりと回った。最後に、結界を張った霊園の出入り口を確認して視察は終わり。どの結界も異常は見られず、そのまま勾配の緩やかな坂を上っていく。
地味に長い坂道。坂を越えれば見えてくる噴水、憩いの場。日が沈めばぱたりと人気はなくなって、墓地に囲まれた舗装は彼女専用の家路となる。
虫の音と。風で揺れる卒塔婆の音と。自分と彼女の足音。
会話らしい会話はない。
ただ陽玄はこの道を歩きながら、家出したあの晩夏の日の夜、彼女と出会って、彼女と言葉を交わして一緒に帰ったこと、そんな記憶を鮮明に思い起こしていた。




