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天命の巫女姫  作者: たけのこ
6章 天と剣の選別式
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モノローグ②(アイデンティティクライシス)

 真夜中に、小腹が空いて、こんな時間に食べたら太っちゃうけど、欲に勝てないわたしは腹を満たすために調理する。

 そうそう、いいお肉が入荷されてきたの。きっと上手に切ればとても綺麗な赤身色で涎が出てしまうほどの上質なお肉。テレビで紹介される雌牛の肉の断面図を見て美味しそうと思う心情と似ている。

 本当にいいタイミング。お腹がすいている時に、入荷されてくるなんて、食べてくださいって言っているようなものでしょ?


 だから今、お肉を解体しているの。


 お料理。

 ううん、おままごとに近いかな。

 ナイフが脂っぽい血で滑る。滑る。滑る。

 やっぱり毛皮を剥ぐのが先だったみたい。

 でもこんな大きいんだもん。

 あはっ。

 びくんびくんって震えちゃってる。

 ああ、ああ、今、楽にしてあげるからね。


 でも駄目だった。

 生活能力が低いから何もかもうまくいかなくって、だからナイフで臓器を取り出そうとしているんだけど、泥団子を捏ねているみたいになっちゃった。

 近隣住民が静かに寝ているのに、真夜中に灯りをつけて、お料理中。

 寂しさを紛らわすのに夢中だった。

 余計なことなんて考えなくていい。

 いやなことは全部忘れて没入していればいい。

 ほら、そうすれば、悲しみはいつの間にか笑いに変わってくるでしょ?


「――え」


 えええええ?

 誰の教え。知らない教え。わたしからわたしへの教え。


「ぁ――」


 高揚した心は息絶えた生き物を見て、愕然とした。

 リビングに広がるむわっとした血臭と青臭さ、生臭さ。手にしているのは血がべたりと付着した三徳包丁。目下には滅多刺しにされ、腹が破けた四足歩行の小動物。わたしがちょび髭と名付けた三毛猫が臓器を引きずり出されて死んでいる。


「あぁ、ああ、あああああぁあぁあぁあああ!」


 みんな眠っているのに、こんな大声出したらわたしが悪い子だってばれちゃうでしょ?

 そんな心の声に耳を傾ける余裕なんかなく、悲鳴を上げる。

 ガクンと酷い眩暈と吐き気に襲われた。視界は度が合わない眼鏡を掛けているように揺れ、力なく三徳包丁を落とした。気が動転していてどうしてこうなったのか覚えていない。


「はぁ――あぁ」


 身体中、いやな汗をかいていて、呼吸もままならない。

 ぐらつく視界の中、熱に浮かされたようにおぼつかない脚を動かして、洗面所に駆け込んだ。急いで蛇口をひねり、肩で呼吸をしながら血の付いた手を必死に洗った。洗った。洗った。


「どうしてどうしてどうして、わたし……」


 呆然と自分がした行為を思い返す。

 すぐそこにある残虐な光景を作り出したのは間違いなく自分?

 自分だ。わたしだ。私だ。

 寂しそうに鳴く猫を招き入れて、知らぬ間に胸が高鳴るような思いが膨れ上がって欲望を抑えきれなくなった。その後は全然覚えていなくて、感じていたのは燃えるように甘い情欲だけだった。

 そして可笑しいなことに、妙な高揚感は未だに背中を這いずり回っていて、それが妙に心地良いということ。そしてそんな自分がたまらなく汚いということ。

 凄まじい罪悪感を抱いているわたしと甘い背徳感を覚えている私。

 両手を洗面台に付けて、俯いた顔を上げた。サラリと長い髪が流れ、鏡に映った自分が露わになる。荒々しい息遣い。上下する肩。そして――。


「なんで、わたし――」


 笑っているの、と恍惚とした自分は口元を歪めていた。瞬時に口元を左手で覆い、もう片方の手で髪の毛を掻き毟る。

 これがわたし?

 どれがわたし?

 わたしはわたし?

 わたしってなに?

 逃避のための自問を繰り返しているその時だった。

 来客を知らせる呼び鈴が鳴った。

 心臓が跳ね上がり、縮こまる。


「こんな時間に、だれ」


 血の気がすっと引いていく。

 すぐさま血で汚れたパジャマを洗濯機の中に入れ、替えのパジャマを取りにリビングへと移動した。

 コンコンとドアをノックする乾いた音。けれど、わたしは脱衣所からリビングに戻ったきり、怖くてその場から動くことができないでいた。


「こわいよ」


 二つの意味で怖い。

 一つは誰だかまったく分からない来客者が。

 そしてもう一つは可愛がっていた猫を平気で殺してしまった自分自身が。

 居留守を使おうと思ったが、数分経っても来客者は辛抱強くドアを叩いてくる。寝ているならば早く起きろと言われているみたいだ。わたしは入り口にあたる玄関を見つめ立ち尽くしたまま、どうしたらいいか分からず逡巡する。


「ぁ――」


 ふと、戸締りをしていないことに気づいた。ガリガリとドアを爪で引っ掻く音がして、猫を招き入れた時、鍵を掛け直すことを忘れていたのだ。

 ゴンゴンゴンゴンゴン。

 訪問者は鍵を掛けていようがいまいが突き破ってきそうな勢いで叩いてくる。

 わたしは口で呼吸をしながら不安と恐怖に駆られた心を落ち着かせるために心臓に手を当てた。けれど、押し殺しても押し返しても冷静な心は戻ってこない。戻るはずがない。心の芯をみっちりと掴んでいる不安と恐怖は、正体不明の来客者が立ち去らない限り、鎮まらない。


 ――このままじゃだめ……。


 鍵を掛け直そうと震える脚を奮い立たせ、一歩前に動かす直前、扉をノックしていた音がプツンと糸が切れるみたいに急に鳴りを潜めた。


(あきらめて、くれた?)


 極度の緊張から力が抜けてペタンと床に尻もちをする。よかった、と肩を撫で下ろし、少し空気を吸った瞬間、不幸にもガチャリと聞きたくない音がした。


「なんだ、起きてるじゃないか」


 聞き覚えのある男勝りな女性の声。暗い廊下から床を踏み潰す高圧的なピンヒールの音。土足のまま堂々と廊下を抜けリビングにやってきたのは、あの雨夜の時に公園で会った臙脂色のコートを着込んだ女性だった。


「おっと、御取込み中だったかな」


 解体現場の惨劇を見て、しかし女は動じることなく陽気な口調で語り掛け、悠々とソファに腰を下ろした。


「動物を虐げるのは愉しかったかい?」


 長い脚を組んで。

 当惑するわたしを正面から見据えた女は、揶揄するように妖しい笑みを浮かべる。


「違う。愉しくてやったんじゃっ!」


 女の微笑みに気圧されながら苦し紛れに否定を口にした。


「ならこの猫の死体をどう弁明するんだ? 我欲も無しにやるもんではないだろうに。それとも、この猫が君に気を障らせるようなことをやってしまったばっかりに衝動で?」

「それは……」


 卑怯なわたしはその後の言葉が見つからず俯いた。


「早く気づいた方がいい。お前は普通の精神状態じゃないんだ」


 わたしは普通じゃない。気付かなかっただけでいつの間にか壊れていた。いや、気付かないふりをしてそんな自分を背けてきた。


「お前は病気なんだ。後天性の多重人格者であり、別人格はネクロフィリアだ」


 長期に渡る観察の末、診断結果が女の口から告げられた。


「病気……」

「ああ、とりわけ、質の悪い病気だ。わたしじゃない私がやりました~、なんて誰も信じちゃくれないからね。いっそのこと、罪を認めた方がいい。私じゃなくとも私であることには変わらないのだから」


 床に視線を落とせば、自分が殺した野良猫の目があった。


「ほら、罪を認めて謝れ」

「ご、ご、めん、なさい……」

「私じゃなくこの子にな」


 視線で促す。

 まるで肉体だけ死んで、魂だけ残っているような、開いている目だけを見れば、生きているのではないかと思えるくらい、新鮮味がある。

 そんな猫の眼が睨みつけるように見上げている。


「ごめん、なさ、い。ごめん、なさい。ごめんなさい」

「ほら、もっと謝れ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「誰がやったんだ?」

「ぅ――、わ、わたし、わたしが、やりました……」

「簡単に殺しちゃうなんて、悪い子だな」

「……ぅううう、っ――」


 みるみるうちに脱力していって、床に座り込んだ。


「ご、めん、なざい。ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」


 謝ることしかできない。弱い自分はいつだってそう。父に暴力を振るわれた時も、同級生にいじめられた時も、謝って終わるわけないのに、弱く愚かで賢しいわたしの処世術は、耐えるか謝るかのどちらかしかない。

 もちろん、殺して謝ったところで、死んだものは還ってこないのに。


「どんな私欲でこうなったんだ?」


 流れるような問いに何の抵抗もなく口を開く。


「さ、寂しさを、埋めたくて……」


 殺した。

 そう言わなくちゃいけないのに、その後に続く言葉は言えず、わたしは口を塞いでしまう。どこまでもいけない悪い子だ。


「言えよ、最後まで。寂しくて殺しましたって」


 それすらも女にはお見通し。まるでお天道様に見られているみたいだ。


「こ、殺し、ました……」

「ちゃんと言おうか? 誰が、どうして、殺したんだ?」

「っ――」

「ほら、言えよ」

「わたしが……、さ、寂しさを、埋めたくて、殺し、ました……、ごめんなさい……」


 すべてをあぶり出されて、わたしは声を上げて謝る。


「ふん、快楽に溺れていれば、少しは紛れるもんな」


 鼻で笑われ、言われたくなかったことを端的に言われた。


「享楽に耽けている時は快楽物質がドバっと出て、さぞかし気持ちよかったんじゃないのか?」

「き、気持ちよくなんか、ない」


 嫌な目。怖い目。品定めでもされているかのような黒い視線がわたしに向けられる。見られているだけで、心を裸にされている気分になる。


「嘘をつけ。快楽で頭がいっぱいになれば、寂しいのもつらいのも全て忘れられるからだろう?」


 真実の問い詰めに口を閉じた。口を針で縫ったように結び締め、絶対に本心は言いたくない。けど、その口は大人である女によって強引に解された。


「う、ぐっ――」


 首根っこを掴まれ、床に押し倒される。どこの家も隣家の人だって寝静まっているのに、どうしてこんなにもこの家は騒がしいの? 癇癪を起こした子どものように手足をばたつかせるが、か弱い手が鉄の首輪のような腕を振り解くことなんてできやしない。


「お得意のだんまりか? また無理矢理曝け出してやってもいいんだぞ」


 希望の一欠片もない真っ黒の双眸が、化粧を施すように薄赤く染まり出す。


「い、やぁ……」


 服を脱がされるより恥ずかしい。剥かれていく。心が裸にされる。見られたくない。


「ごめん、なさいっ。ごめんなさいっ。言うっ、言うから、ゆるしてくださいっ! そう、でず。きもちいい。きもち、いい、の――っ! 誰かと一緒に、孤独な夜は一人で寂しいの――っ! だから、寂しさを埋めたいの! きもちいいの、好きなのっ! 寂しいが忘れられるから、大好きなの――っ!」


 防衛手段がわからないことは無防備で怖いということ。弱すぎて悪意や不条理に対する抵抗力がなく、為す術なく崩れてしまった。抵抗しても無駄だから早くこの説教が終わって欲しくて、早く楽になりたくて、従順に素直にありのままの心を曝け出すしかなかった。

 犬さんの躾みたいに、ようやく首輪から解放されたわたしは、全身の血が鉛のようになったみたいな気だるさに襲われる。あれだけ頑なに閉じていた本心なのに、吐き出してしまえば楽になっている自分がいる。


「ふ、ぁ――」


 脱力感と虚無感。

 無抵抗に無気力に。

 弛緩した腰に腕を回され、蹲っていた身体を簡単に持ち上げられたわたしはそのまま女に抱きしめられた。

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