6―2 軋轢
玄関の呼び鈴の音が耳に入って、あの日の出来事が脳裏に浮かび上がる。
身体中を巡る血潮が冷えて、心臓が凍る。
居場所の特定。組織の魔術師。最悪な展開を想像してしまう。
なんだかひどく嫌な予感がする。
そう思った身体は既に動いていて、陽玄は玄関ホールへと急いだ。
「あ、あれ?」
玄関には今まさに話の渦中となっていた少女が立っていた。美咲黒羽は、フリルのついた白のワンピースにコートを羽織っていて、長い髪を赤いリボンで後ろにまとめていた。
外は寒かったのか、鼻と頬をほんのりと赤く染めていて、幼気な瞳が、琥珀から陽玄の方へと向けられた。
直後。その瞳は見開いて、体温がすっと引いていくかのように黒羽の顔が青ざめていくのが分かった。立ち尽くしたまま、表情は呆然としている。それもそうだ。皮膚よりも包帯の方が多い姿を見たら、誰だって戸惑うのも無理はない。
そして陽玄もこの怪我の状況をどう説明しようか言葉を詰まらせた。何度も頭の中でその説明を考えようとするが、思いつく前に、黒羽に声を掛けられた。
「その怪我、どうしたん、ですか……」
困惑した顔で詰め寄ってくる黒羽。彼女の行方を追うように琥珀の視線がこちらへと振り返った。琥珀もまた苦し気な表情を浮かべている。
「えっと、ちょっと階段から落ちて……」
誤魔化すつもりはなかったが、ふいに口から零れていた。
「……嘘、ですよね。本当のこと、教えてください。何が、あったんですか」
黒羽はコートの袖を掴みながら、悲しそうな顔をして言った。
困った。嘘をついていたのは本当だけど、今まで話を附していたのは彼女のためで、普通の女の子に話せるような内容ではない。
「……」
静寂な空気が流れる。陽玄が参ったなと思ったとき、不意に琥珀が頭を下げて謝った。
「ごめんなさい。ちゃんと後で説明するから、とりあえずリビングに上がって向こうで話そう」
「……はい」
黒羽は俯きながら返事をした。陽玄を横切る黒羽の表情は前髪で窺えない。
「ごめん」
陽玄も謝ったが、黒羽が言葉を返すことはない。
居間に移動した琥珀と陽玄は、黒羽と向かい合うように座った。無駄に長いテーブルの真ん中に腰を下ろした黒羽は、肩をすくめていて、視線は伏し目がちである。混じりけのない黒い髪はまるで今の心境を表しているみたいだった。
「ごめんね、黒羽ちゃん」
琥珀は話を切り出す前に、もう一度謝った。
「……剣崎さんは、その傷、大丈夫なんですか?」
その声は小さいが、陽玄の耳にははっきり聞こえた。
「ああ、大丈夫だから安心して。もうほとんど治っているから」
「本当ですか? 大丈夫そうには見えないですけど……」
黒羽の心から出た声は、誰よりも心配しているのがよく伝わる。
「あのね、黒羽ちゃん――」
「大体どうしてこんな大けが、何があったらこうなるんですかっ」
琥珀が本題に踏み込もうとした矢先、黒羽が挟むように口を開いた。温厚な彼女が見せる強い言葉に思わず琥珀の口は閉じた。
「奇術師っていうのも噓ですよね。まさか、手品で失敗して大けがしたとか言わないですよね。笑えません」
「そうだね。あたしは奇術師じゃない。……でも、意地悪をしたくて彼もあたしも嘘をついていたんじゃない。そのことは分かって欲しい」
「気遣いだってことは分かってます。別に嘘なんてどうでもいいんです。わたしは剣崎さんをこんな目に遭わせたのが許せないんです。それが仮に誰かのせいでこうなったんならなおさら」
「……」
琥珀は沈黙する。何をどう伝えようか思案しているようだった。とにかく言わないといけないことは、当分の間会えないということだが、それには理由が必要で、魔術師と戦っているから……でもそんな抽象的な理由で納得してもらえるだろうか。でもやっぱりきちんと伝えなくてはならないだろう。
「唐突に言うとあたしは魔法使いなの」
「魔法、使い……?」
御伽噺でしか聞かないようなフレーズに、黒羽は目を丸くした。それこそ、また嘘をついているのではないかと、訝しまれても仕方がない。
「……じゃあ、わたしの心臓を刺す時に見えた剣は……魔法の剣ってことですか?」
「そう。魔法の剣で君の悪いものを消したの。手品師よりもあり得ない存在かもだけど、信じてくれるかな?」
「それは……はい」
「ありがとう。でね、あたしたちは他にも黒羽ちゃんみたいに特異な力を持った人間と接触していて、同じように問題を解決していたの」
「どうしてそんなことをしているんですか?」
「それはそれがあたしの使命だから。黒羽ちゃんは特異な力に苛まれていたけど、中にはその力を悪用する者もいるの。そういう悪い人間から皆を守るためにあたしは今を生きている」
「じゃあ、なんで剣崎さんは怪我を負っているんですか?」
「それは、悪い人たちと戦って、あたしが無理をさせたからで……」
「巻き込んだってことですか?」
黒羽の表情は暗く、でもその声には糾すような怒りがあった。でもどうして彼女がそこまで怒りのような感情を抱くのか、陽玄にはよく分からない。
「うん、あたしが巻き込んだ」
「どうしてですか。剣崎さんは普通の人間じゃないんですかっ。どうして守ってあげなかったんですかっ!」
「それは違う。巫さんは何度も僕を守ってくれた。それに僕も普通の人間じゃないんだ。僕は魔術師なんだ」
陽玄が真剣に言うと、黒羽の顔は哀しみのような怒りのような相容れない感情に顔を沈めた。そのまま彼女は俯いたまま口を閉ざす。
「だから、悪いけど普通の女の子である黒羽ちゃんは、しばらくの間、あたしたちとは会わないで欲しいの」
琥珀はあえてきつく言った。黒羽に嫌われようが、命を狙われる事態は何が何でも避けなくてはならない。何なら嫌われた方が幾分マシである。
「しばらくっていつですか?」
「それは……わからない」
「……分かりました」
「本当?」
「はい……でもこれ以上剣崎さんに無茶をさせないでください」
「…………ごめん」
琥珀は謝ることしかできない。その後は無言。凍り付いた静寂の中、黒羽は椅子から腰を上げる。椅子に掛けた上着を着ると、黒羽はポケットからこの家の鍵を取り出した。どうやら陽玄が知らないところで琥珀が彼女に貸していたものだったのだろう。そしてその合鍵をテーブルに置いた後、彼女はそそくさと帰ってしまった。
琥珀はテーブルの上に残された合鍵を見つめたまま、黒羽を見送ることはしなかった。
あんなに温厚な彼女がこんなにも怒りを露わにしていることに、陽玄は困惑する。琥珀とはあんなに仲が良かったというのに、嘘をつかれたことに怒っているよりかは、陽玄に無理をさせた琥珀に対する怒りの方が強かったように感じた。何だかいつもの彼女とは別人なくらい、言動が冷たくて、別の意味で不安になる。
「どうしてあんなに、僕は大丈夫なのに……」
「君のことをそれほど大切に思っているってことだよ」
琥珀の言葉に力はない。彼女の横顔は、表情は浮かなく、長い睫毛が稲穂のように垂れている。
「不安ではあるけど、今だけは、黒羽ちゃんを巻き込むわけにはいかない。これで良かったんだ」
開き直るように吐いて気持ちを整え、琥珀はテーブルに置かれた合鍵を手に取った。懸念点と言えば、彼女の電話番号を知らない陽玄らからは連絡が取れないということだが、会えないだけで話を聞くことはできる。何か聞いてあげることは、間接的だが、受話器越しにできるのだ。だから、これで良いはずなんだ。この選択は正しいはずなんだと陽玄は自分の心に言い聞かせた。
「? どこか行くのか?」
琥珀は椅子の背もたれにかけたジャケットを着直している。
「結界を貼りにちょっと出掛けてくる」
「なら僕も」
「いい。すぐ終わるから君は待ってて」
「でも」
「でもじゃない」
黒羽の言葉を彼女がどう受け取ったのか分からないが、陽玄の怪我を気に掛ける素振りは過剰なものとなっている。いや、この包帯が怪我を過剰に見せているだけだ。怪我だってもうほとんど治っている。
「あたしができることはあたしがやる。君にはこれ以上負担はかけさせない」
「……」
気にしなくていいのに、あんなに距離が近かったのに、ただ傍にいたいだけなのに、遠ざかっていく感じがする。
怪我を負った自分が悪いのか。喉まで出かかった言葉を思いのまま吐き出すことはできず飲み込めば、返ってくるのはドアが閉まる無機質な音だけ。
陽玄は腕に巻かれた包帯を見て、拳をぐっと握りしめる。
これから先、血を流さずには守れない。
流さずに守れる生易しい手段なんてない。
ただ、言えることは、誰かを守るためには守れない誰かも生まれてくるということ。人一人守ることも難しいということ。一度守れたと思っても、ずっと守ることは難しいということ。そして誰かの傍にいることは、簡単そうで、どうしてこんなにも難しいことなのだろう。




