5―10 一対一(タイマン)①
燃え殻を揺蕩わせたような夜空の中、門を開ければ奴はいた。
石畳のその先、屋敷の玄関の前で槍碼一紳は腕組みをしながら仁王立ちしている。そして、その背後で静かに佇んでいる鉄は、壁に寄りかかりながら瞳を閉じていた。
「如何やら腑抜けではなかったようだな」
陽玄の面を見て、槍碼が地を這うような低い声で語り掛けた。
隣に立つ琥珀は敵意をむき出しにして遠方に立つ者たちを睨みつけている。そんな攻撃的な態度に、槍碼は異様な微笑を三百眼の下に引き攣らせた。
「代行者、今ならまだ間に合うぞ。お前と戦乙女の身体を引き渡せば、小僧は見逃してやってもいい」
琥珀が陽玄に視線を向ける。それに陽玄は表情で答える。
「両方生きて帰るの」
「阿呆。両方死ぬの間違いだろう。自身の命をこんな落伍者に預けられる神経が分からない」
「分からなくていい。あたしと彼で決めた選択に他人が口を挟む余地なんて、これっぽっちもないんだから」
「ふん、すぐさまその虚勢の皮を剥いでやるよ」
背に携えている槍が地に突き刺さる。槍を包んでいる黒い晒が解かれて、鮮血のように赤く、彼岸花のように歪なカタチをした槍が露わになった。
全長九尺を越える長槍。陽玄の肩を穿き、琥珀の腹を裂いた禍々しい魔槍が槍碼の手によって引き抜かれ、赤き穂先が陽玄に向けられた。
「巫さん」
「うん」
陽玄の背中に琥珀の掌が触れた。仄かに温かい彼女の手に力がこもるのが伝わる。
「信じてるから」
背中を押すかのように囁かれると同時に、右手には皮膚を焦がすような鮮烈な熱と痛みが走った。
眩い白光の輝き。
手には硬い感触がある――陽玄の手中には天の剱が具現化された。
「――――」
ならばあとは倒すのみ。そこだけに全ての意識を持って行く。陽玄には時間がない。戦いが長引けば長引くほど、こちらが不利になるのは明白である。この刀は言わば時限爆弾だ。時間経過とともに痛みは激しさを増し、陽玄が刀を握れる時間は長く見積もってもせいぜい三十分が限度だろう。それ以上経つとなるとこの手がもつかどうか分からない。だからそれまでにけりを付ける。
左手に痛みが伝染する。刀を両手で持ちながら疾走したからだ。
「なるほど、そう来るか。天の刀を強行的に移転させたか。面白い、その魂胆、だけは褒めてやろう」
超然とした口調で話す槍碼の隙を付くように、陽玄は一気に加速した。詰め寄り、距離を取らせない。勝機を掴むためには優位な距離を取ることから始まる。間合いに入った陽玄が、月光が詰まったかのような煌めきを走らせた。
「――ぐっ」
だがしかし。
陽玄は歯を食い縛った。驚嘆と苦痛。槍碼に武術の優勢劣勢の法則など皆無だった。槍はその攻防が幾重にも変化する。陽玄の剣戟に対し、退きを返して、石突で打ち返す。
渾身の初手は小技の利いた返しで相殺され、息を吐く間も無く次の一手が展開される。
千変する攻撃技法。薙ぎ払うように陽玄を間合いから剥がした後、突きによる追い込みで陽玄の体幹を崩しながら攻め立ててくる。
心の臓を穿つ一の突き。その追い込みを陽玄が刃で受け止めた後、更に、二の突き、三の突きを行ってくる三段突きの妙技。
「くっ」
一つ一つ洗練された攻撃が重々しくかち合う度に身体中に振動が伝わってくる。痺れと熱で手と腕の感覚が馬鹿みたいに狂い出す。
さらに突進する槍碼の態勢が急激に低くなる。中段構えから天地の構えへと。動作の要である関節を赤き穂先が喰い付くように差し迫った。
「――っ」
陽玄はかろうじて弾いた。
だが手数は増え、動きは機敏に、三段突きは五段突きへと、やがて突きの数は数えきれないものとなる。
それでもここで気圧されれば昨夜と同じ二の舞を踏むことになるのは百も承知。奴のペースに呑まれるわけにはいかなかった。
陽玄は喉元をついた穂先を躱す。――が微かに皮膚を掠る。再度、陽玄の正面に振り払われた槍の軌跡を躱したが、茨のように微かに皮膚を掠ってくる。完全に距離を退いても、必ず当たる。距離感を見誤ったのか――。いや、違う。穂先が退いた距離に合わせて伸びているのだ。
止まらない槍の猛攻。こちらとて一方的に攻め立てられるわけにはいかないが、陽玄の攻撃は当たらない。突くのは早く、退くのも早い。間合いは、陽玄から見て遠く、槍碼から見て近い。戦い乱れるような乱戦はさらに過激さを増し、槍の柄の真ん中を握った槍碼が、穂先、石突関係なく陽玄の息の根を追い回すように攻め立ててくる。穂先と石突を自在に操り、突き、払い、叩きの動作を交互に繰り出してくる。
陽玄は必死に耐える。
追い込まれても呼吸を乱してはならない。
何より平常心を失ってはならない。
身体が壊れる前に、心が壊れるわけにはいかない。
だが、付け入る隙が見つからない。素早く繰り出された矛先を躱して、槍碼の間合いに入れても、十数段の突きが待ち構えている。やはり技術だけでは打ち崩せない。奴の絶対不敗の間合いに立ち入ることができないからだ。
「余興はもういい」
宙に交わる視線。奴の声音が一段と鋭いものになる。振り抜いた刀が槍によって弾かれると同時に、槍碼の身体が陽玄の間合いにするりと入り込んできた。
「っ――――」
強烈な蹴りが陽玄の懐に入り込んだ。
肋骨が唸り、呼吸ができない。鉄柱のように頑丈な脚が骨――、いや、内臓を破裂させるような勢いでめり込んでいく。
「ぐ、ふ」
毬のように軽々蹴り飛ばされ、背中から地面に落ちた。道場の近くへと不格好な不時着。背骨が折れるほどの衝撃が身体中に広がった。
「ふ――っ」
視界が揺らぎ、意識が遠のく。人間離れした脚力。二十メートル近く蹴り飛ばされた。
「っあ、はぁ――」
庭の地面に切っ先を刺し込み、何とか態勢を整える。その時だった。一瞬で距離を詰めてきた槍碼が、陽玄の頭蓋を叩き割るように己の拳を振りかざした。
「生温い」
「ぐはっ」
地に臥す陽玄に跨り、槍碼はかち割るように岩石のように硬い拳を陽玄の顔面に何度も振り下ろす。
「ヨーゲン君っ!」
琥珀が叫んだ時には意識が飛んでしまっていた。殴られる中、微かに彼女の声が聞こえる。彼女は何か言い放っているものの、眼前の男の容赦のない殴打のせいで、声が遠く聞き取れない。顔の骨が折れる音がする。顔の穴という穴から血が噴き出しているのが分かる。
霞む目で槍碼を見つめる。
男は嘲笑するように言う。
「魔術の使えない小僧は拳で十分だ」
それから数えきれないほど殴られた陽玄は、槍碼に首を掴まれ、目の前にいるのであろう琥珀に見せつけるように、醜態を晒させた。
「お前を信じてくれた女が今どんな顔をしているのか……。おい、見えるか、泣いてるぞ。後悔の念を抱いている顔だ。お前は、信じてくれた女を、失望させたんだ」
そう耳元で憎たらしく囁かれた後、陽玄は地に叩きつけられた。
もうどこに自分の顔があるのか分からないくらい、酷く惨めな有様だ。
冷たいはずの地面が、腫れた顔のせいで、熱く感じる。
尋常ではない痛みで磨耗した両の手の腹はとうに限界を迎えていて、大やけどしたかのように皮膚が全て焼け爛れているみたいだ。
槍碼が興を失ったかのように陽玄から離れていくのが分かる。
ああ、何か、言っている。
「小僧の人生は全て徒労に終わった。面構えや覇気からして俺に勝つ気でいたようだが、笑止千万、やはり落第者は何も果たせず無様に倒される。初めから分かっていたはずだ。神器も魔術も扱えない失敗作がどんな術を講じたところで強者には勝てないと! 俺には勝てない! 弱者は強者に淘汰され、いずれ残るのは強者を倒した猛者のみ。弱者である人間に生きる価値はない」
陽玄が行ってきた全てを全否定するように槍碼は言葉を吐き捨てた。泥を啜るように陽玄は唸り声を上げる。そんなことは分かっている。無力で能のない人間だってことは痛いほど痛感している。だから倒すために必死に考えて、考え抜いた末が、彼女の刀を……借りることだった。
でもこれほどまでに完膚なきまでやられるなんて、本当に情けない。守りたいものも守れず、こんな無様な姿を晒して、必ず勝つ、って約束したのに、何も成し遂げられない人間に彼女も――。
「馬鹿にすんなっ‼」
ああ。そうだった。彼女はそういう人間じゃなかった。琥珀の怒号を聞いて、微かに残った感覚が蘇生する。焼き焦がされた神経が、砕かれた骨の痛覚が、陽玄に生を手繰り寄せてくる。
「好き勝手言いあがって、彼を侮辱するなっ。彼は全然弱くなんかないっ。何が猶予だ。あんたは腕も治って万全かもしんないけど、彼は肩も手も手負いの状態なんだっ! それでも逃げ出さず勇敢に立ち向かっている。その姿は最高にかっこいいっ! 戦うことにしか頭にないあんたなんかよりヨーゲン君の方がよっぽど強いんだっ!」
その声は足掛かりとなって陽玄を奮い立たせる。
――とっておきの手の温もり(The warmth of your special hands)。どんな時でもあなたの傍に(By your side at all times)。とっておきの言葉の温もり(The warmth of special words)。どんな時でもあなたの味方(Your ally at all times)。私はあなたの中にいます(I am in your heart)――
没入する自分世界の中で琥珀がくれた魔法の言葉を口ずさむ。
「負け惜しみはそれだけか。所詮、結末は変わらない。万全であろうと、俺には勝てない。結果は見えている」
「――、まだ、だ……」
人生は後悔の連続だ。失敗した。間違えた。挫けずに頑張っていたら失敗作にはならなかったかもしれない。別の選択をしていれば、助けられた命もあっただろう。でも、後悔の糸はどうやったって切り離せないんだ。
でも、無意味じゃないと捨てかけたその糸に彼女が意味を持たせてくれた。
だから何があろうと切り捨てないって決めたんだ。
陽玄は手離さなかった刀を地面に突き刺し、のそりと立ち上がった。
それに槍碼は瞠目する。
左の眼窩底が骨折しているのか、景色が二重に見える。ならば、視界の半分はこの際、捨てることにしよう。陽玄は左の瞼を閉じた。
ああ、よかった。琥珀の顔を見てホッとする自分がいる。彼女は諦めてなんかいなかった。胸の前で祈るようにしている彼女を見て、陽玄は荒む意識を立て直した。
「フフ、フフ、フハハハハハ。俺が弱いと言ったな、代行者。良いだろう、正々堂々、公平に――」
唖然しかなかった。尋常ではないほどの対抗心。誰がどう見ても正気の沙汰ではない。槍碼は槍で自身の左腕を切断した。夥しい量の出血。だが意に介さない表情で、ぼとりと落ちた腕を拾いあげると、壁際に立つ鉄にその腕を投げ渡した。
「鉄、事が済んだら再度繋ぎとめろ」
「承知致しました」
それに対して鉄は何も動じることなく奴の腕を手にしたまま、夢でも見に行くかのように再び瞼を閉じた。
「さあ、これで文句はないだろう、いや言わせぬ。剣崎の小僧、彼女の言の葉が絵空事にならないようせいぜい努めることだ」




