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天命の巫女姫  作者: たけのこ
5章 師資相承
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5―3 亡き家にて

 夕闇の住宅街は閑散としていて、無風だが空気はひんやり肌寒い。悲哀にも鬱積にも見られるような夜天は、やけに暗くてやけに重くて、暦の上では冬の季節はまだ先だが、雪でも降り出しそうなくらい寒かった。過ごしやすかった昼間とは随分と異なる空模様だ。


「緊張してる?」


 兎のような白いパーカーを着込んでいた琥珀が、若干覗き込むようにして訊いてきた。


「いや……」

「大丈夫って言うのもおかしいのかもしれないけど、置いていった和服を取りに行くって気持ちで……、ってそうもいかないか」


 苦笑いをしつつも何とか励まそうとしてくれているのが分かる。


「巫さん、一緒についてきてくれてありがとう」


 今思うことは、心強い、それに尽きる。こうして隣を一緒に歩いて気さくに声を掛けてくれるだけで、緊迫感のような不安は溶けていくのだから。


「え、うん。別に感謝されるようなことじゃないと思うけど」


 目をぱちくりさせて、琥珀は言った。心配だからついていく。当たり前の行動原理だが、この状況を当たり前だと思ってはいけない。


「いや、自分の傍に誰かがいるってことは、当たり前のようで当たり前のようなことじゃないから……」


 だから心配なのか。自分の傍にいてくれた人間が、突然いなくなってしまうことが……。

 ふと、琥珀が立ち止まった。


「ねえ、ヨーゲン君。手、出して」

「え?」

「いいから」


 そう言われて手を伸ばした。

 琥珀は陽玄の手を取ると、親指で手の平を撫でてきた。予想だにしていなかった行為に、陽玄は胸をドキッとさせて、咄嗟に手を離した。


「ごめん、くすぐったかった?」

「いや、でもどうしてこんなこと……」

「いやぁー、手を握れば安心するかなと思って」


 へへへ、と少し照れくさそうに言って、「でもいなくなるのが怖いなら大丈夫。あたしはどこにもいかないよ」と安心させるような穏やかな口調と表情で言ってきた。


「そんなに僕、不安そうな顔してました?」

「うーん、顔には出てなかったけど、あんな寂しいこと言われたら、なんとかしなくちゃって」


 本当、情けない。どうやら気を遣わせてしまったようだ。


「ありがとう、もう大丈夫」


 言うと、琥珀は嬉しさが滲み出たような微笑みを零した。陽玄はそんな表情につい見惚れそうになって歩き出す。


「でもあれだね、改めて思うけど、君の手は何度も素振りをしてきた手だね。手の腹にはマメが潰れた痕があって、硬くて大きな手は男の子だ」


 そう言われて自身の手を握りしめた。十年以上、刀の素振りをして何度も破れては修復を繰り返して硬くなった皮膚。その感触がある。


 それから十分ほど歩いて、足を止めた。

 深い息を吐いて、深呼吸する。

 勇ましさのある城郭めいた門扉は、帰ってきた自分を不機嫌に迎え入れるように開いている。その門の前で、陽玄は手を合わせて瞼を閉じた。少しして開けると、隣に立っていた琥珀も同じように両の手を胸の前に重ねていた。

 金茶色の双眸を覆う瞼。

 彼女の長い睫毛が開いた。

 琥珀が目を開けるのを確認した陽玄は、敷地内に足を踏み込んだ。門を越えると広がる庭園。あの襲撃以来、庭は手入れされておらず、名もなき雑草が伸び始めている。そんな草花の中には屋敷に通じる石畳の道がある。


 砂地のようにざらついた道の上を歩き、玄関扉の前で立ち止まった。

 使用人の死がフラッシュバックされる。玄関前で頭から血を流して倒れていた琴音。そのままの状態で残っているのなら異臭がするはずなのに、その腐敗液が放つ臭気はない。


「……」


 陽玄は幼い頃、何度か腐乱死体の臭いを嗅がされたことがあった。耐えうる心が魔術師には必要なんだと、父に言われた教えだった。精神の向上を促すという理由で、虫籠のような容器に入った人の肉塊を嗅ぐ鍛錬。無理やり土蔵に閉じ込められ、箱に入った見知らぬ誰かの死体と向き合う時間。死んだ人体は脂と血肉で区別され、やがて液体となる。

 時間経過したその人肉は粘度が増し、黒ずんでいた。蓋も没収され、息を止めるのも苦しくなって堪らず空気を吸った。すぐさま胸を抉られるような酸っぱさと生臭さで鼻の中は汚染された。

 これはただのチョコレートの塊だと思い込んでも、心は欺けず涙目になりながら何度も何度も嘔吐したのを覚えている。出すものがなくなっても胃液だけは無限に口から逆流し、真剣で斬り合う時よりも嫌いな稽古の一つだった。一時間ぐらい経つと、自分の精神世界は狂っていき、ペンキの臭いを嗅ぎ過ぎたように頭がチカチカ、クラクラしていったのを憶えている。早く外の空気を吸いたくて吸いたくて吸いたくて…………たまらなかった。たまらなかったのだ。


「すごい汗……」

「え」


 我に返ると琥珀が陽玄の額に付いた汗をハンカチで拭っていた。そんなことすら知らずに、自分は過去の厭な出来事に埋没していたというのか。


「本当、大丈夫?」

「――――大丈夫」


 意を決してドアを開いた。

 時が止まったかのように動のない屋敷内に死体はなかった。居間まで行くが卓袱台の上で死んでいた清信の死体もなかった。だがそこら中に血の臭いは残っていて、誇張でなしに、強烈な獣の臭いが感じられた。


「黒羽ちゃんが誘拐されたあの廃ビルの一室と同じ臭いがする。獣臭い」


 琥珀も同意見らしい。鼻先をつまんで周囲へと目を配っている。


「じゃあ、姉が死体を使い魔に喰わせて、証拠を隠滅したってことか」

「野犬に喰われた可能性よりもそっちの方が高いね」


 陽玄は居間を出て、別の部屋を確認しに板張りの廊下を進む。


「あまり前に行かないで。一応、あたしの手の届く範囲にいて」

「……分かった」


 陽玄がしぶしぶ琥珀の隣に寄り添うと、彼女は微かに安堵の色を目に浮かばせた。

 これまで何度守られたことか。自分よりも華奢な少女に守られるのはひどく情けないが、魔術は愚か何の武具も備えていない自分が、己の自尊心を保つために無駄な矜持を働かせるくらいなら、ここは素直に従った方がいいのだろう。

 でも、納得はできていなかった。これが、男の性とでも言うのか、分からないが、彼女が怪我を負うところなんて、見たくない。


「ねえねえ、ヨーゲン君の部屋行きたい」

「え、あ、うん。でも、何も面白いものはないけど」


 まあ、琥珀に言われなくても行くつもりだったが、まさか女の子を自分の部屋に上げるだなんて想像もしていなかった。


「お邪魔しまーす」


 陽玄の自室に上がった琥珀は、周りを気にするように薄茶色の瞳をきょろきょろ動かした後、すんすんと匂いを嗅ぐ。何だか少し照れくさい。


「なんか……」

「なんか、なに?」妙な緊張感が走る。

「お茶っぱと消毒の匂いがするっ! 黒羽ちゃんの部屋に上がったことはあるけどさ、男の子の部屋に上がったの初めてだから、なんか嬉しいっ!」


 少しほっとするが無邪気な笑顔を見せてくる彼女に陽玄はドギマギする。視線を逸らして部屋を見渡した。生活に不必要なものは一切ない殺風景な空間。やっぱりつまらない。


「嬉しいって言うけど、別に何も面白そうなものはないだろう?」

「うーん、箪笥とか開けてもいい?」

「いいけど、着物ぐらいしかないよ」


 琥珀はわくわくしながら箪笥を引いて、中身を覗いた。


「本当だ。綺麗に整頓されてるね。シワひとつない」

「清信……、世話係がいちいち整理整頓するんだよ。そんなことしなくても自分でできるのに……、まあ、世話係だからそれが役目なんだろうけどさ」

「きっとヨーゲン君のことが大好きなんだよ」

「そうかな……」

「そうだよ。小っちゃい頃からずっと面倒見てもらってたんでしょ?」

「うん」

「なんて呼ばれてたの?」

「え、いや……」


 お坊ちゃま、と言われていただなんて口が裂けても言いたくない。ならば、訊かれた時にすぐさま誤魔化せばよかったものの、変な間を作ってしまった時点で彼女の関心からは逃れられない。そも、嘘を付いたところで言動に出てしまう陽玄が、彼女を誤魔化すことなんてできやしないのだ。


「ねえ、教えてよー」


 琥珀は子どものように詰め寄ってきて、おねだりしてくる。そんな可愛らしくおねだりされると断れそうにもない。


「んー……、笑わない?」

「笑わない」


 ならいいかと陽玄は気恥ずかしく呼び名を言った。


「……お、お坊ちゃま……」


 言うと、琥珀は声を出して笑いそうになるのを、口を押さえ、腰を曲げることで懸命に堪えていた。


「って、にやにやしてるじゃないかっ!」

「ごめんごめん。だって、面白いんだもん」


 クスクスと笑いながら言うが、小馬鹿にされているような悪い気はせず、むしろ、まあ、最近元気のなかった彼女が笑ってくれて良かったと思う自分がいた。

 そう思っていると、琥珀がてこてこ近づいてきて……、次の瞬間、彼女は陽玄の耳に口を寄せて悪戯っぽく囁く。


「お坊ちゃま……」


 陽玄はぴくっと肩を震わせた。


「か、巫さん、な、なにを……」

「え?」

「そういうのはだ、駄目だ。ぞわぞわするから、やっちゃいけない!」

「え、そなの? ……ふぅん」


 ぽかんとした表情は一瞬で企むような笑みへと変わる。そうしてまたふぅ~っと耳に息を吹きかけてきた。


「か、巫さんっ!」


 陽玄は咄嗟に彼女から数歩距離を取る。


「ふふっ、ホントだ。囁かれるの、苦手なんだね。ヨーゲン君の弱点、見つけちゃった。……なんか、かわいいね」

「か、可愛くなんかないっ! からかうなっ!」


 もう駄目だ。

 絶対からかっているだけだと分かるのに、恥ずかしさで彼女の顔を直視できない。


「からかってなんかないよ、かわいい。お坊ちゃま、かわいいよ」

「や、やめろ。お坊ちゃまって言うな!」


 こっちの身が持たない。彼女にそういう気はなくても、顔は近くて恥ずかしいし、なんか温かいし、なんか柔らかいし、なんかいい匂いがするからやめてほしい。このまま好き勝手やられていたら堪ったものではないとなんとか陽玄は平静を装った。


「次こういうことしたら、手の届かないところまで距離を取るから」

「ちぇ、面白いのに~」

「やっぱりからかってんじゃないか」

「えへへ。ごめん」

「もういい。僕の部屋はいいから、聖遺物でも探しに行こう」


 強制的に琥珀の意識を変えさせて部屋を出ると、彼女の表情は少し引き締まったように感じた。


「因みに剣崎家の聖遺物である刀って、何か特徴とかあるの?」

「えっと、妖刀【心道こころみち】の刀身は漆黒で、剣崎家の当主はその聖遺物と共に以心流から派生した真心ノ一心流さなのいっしんりゅうを代々受け継いできたんだ」


 魔術は戦闘以外見せてはならないのは鉄則。それ故、剣術は愚か流派を他人に知らせてはならないと口酸っぱく言われてきたが、戦乙女の代行者である彼女は例外である。


「その、巫さんは怒らないのか?」

「? どうして?」

「だって、聖遺物は戦乙女の亡骸から作られた武器だって……、父さんが言っていたから」


 戦乙女の肉体はすべて武器になると言う。

 例えば髪は糸に。

 瞳は宝石に。

 血管は鞭に。

 そして脊髄や骨子は刀や槍に。

 魔力は強大な力故に流れている術者の精神を狂わせることから、正体不明の大魔法使いは術者の精神を安定させるために、モノに魔力を肩代わりさせた。魔力はモノに付与している時が一番安定すると言う。その究極な素材が戦乙女の肉体。宝珠が取り除かれると魔力の粒子として霧散してしまう戦乙女の肉体を細かく解体させて、鉄や鋼といった材質と一緒に織り交ぜることで強制的に残留させ、使いやすいように武器に加工したのだ。


「確かにそうだね。あたしの記憶の中に映る彼女はすごく悲しんでいたし、同胞を戦う用途として利用した人間を憎んではいたけど、あたしは別に怒っていない。だって、この代を生きる魔術師には罪がないことだし、こうやって家宝にして受け継いできたことを考えると、大切にしてくれているんだなって」


 とは言え、それは人間寄りの意見だ。戦乙女である少女の悲しみや恨みが晴れることは一生ないだろう。でも、戦乙女は琥珀を介して人間を守ろうとしてくれている。不殺主義を体現させたかのような魔力殺しの刀が何よりもの証だ。


「どこにもないね」

「うん。やっぱり、姉が略奪したんだろうな」


 屋敷の中を一通り見て探したがそれらしいものは見当たらない。最後にあるとしたらあの道場くらいだが、正直見つかるとは思えない。まあ、隠せる場所と言ったら床下くらいだろうか。

 半壊した道場へと歩を進めた。

 開いている縦状の格子戸を潜り、中の様子を見渡す。

 大災害にでも遭ったかのような荒涼とした剣道場。歪に破けた天井と穿たれた壁から無慈悲な冷気が吹きつけてくる。見上げれば夜空は厚い雲に塞がれていて、この地上に月の光は届かない。


 父の死体はなかった。

 あるのは銃弾の痕や刀で斬り裂いた痕、姉と父が残した戦闘の痕跡と……、目を落とすと、赤み色した杉床には、木屑や瓦礫の他に日本刀が転がっていた。それは父――、剣崎陰仕が陽玄との稽古中に使用していた聖遺物とは別の愛刀だった。おそらく姉との戦闘の際に用いたものだったのだろう。

 陽玄は父の遺骨のようにも見えたその刀を拾って、問いかける。


「どうして、あの時、聖遺物を使わなかったんだよ……」


 それだけがまだ心残りだった。その刀を使えば、きっと敗北することはなかった。勝てたはずだ。

 しばらく陽玄が柄を握りしめながら苦悶の表情を浮かべていると、隣で静かに見守っていた琥珀が、何かを見て驚愕に唇を震わせた。

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