雨合羽の中は
「・・・食べ物あるか?」
開口一番、それは少年の声だ。
フードを脱ぐと端正な顔立ちをした15、6歳ほどの少年であることがわかった。
夕暮れのような橙色の髪に、宝石のような深い緑色の瞳がオイルランプの光を反射して輝いている。
少年と別のもう一人も顔を上げ、フードを脱ぐと、それもまた美しい顔立ちの少女だった。
少年とは対比的な深緑色の髪。瞳は燃える炎のような橙色だった。
「・・・特にシチューでもあると、俺が食われなくて助かるんだ」
少年は続けてそんなことを言った。
シャオやユウだけでなく酔っぱらった客を含め、店内にいる誰もが二人に釘付けになっていた。正体不明の来客だったが、皆が確信していたことは、この二人はこの街の人間ではないということだった。
「・・・・・・行商人か・・・?」
「・・・いいや、見たことねえな。この街に外部の人間なんてありえねえ。それにまだガキだぞ・・・」
皆が戸惑っている中、二人は店に入る。
「・・・そこで雪を落としてもらえます?」
シャオが言うと二人は上着を脱いでバサバサと数回振った。
そのあと二人は無言でカウンター席に座った。
仄暗い店内だから初めは判らなかったが、その上着は薄いレインコートだった。
それに気づいた人間は、皆ぎょっとする。外は雪が降る気温だ。厚手のコートなど防寒力の高い上着は必須なはずなのに、二人はレインコートの下も大して着重ねていない様子だった。
「いけねえ、飲みすぎた・・・」
誰かがそう言い、わずかながら緊張した雰囲気が弛緩した。そうだ飲みすぎたのだ。そのせいで判断能力が落ち、一種の酩酊状態が変な幻覚を見せているようだ。大半の人間がそうやって無理やり納得した。
「え・・・と、食べ物でしたっけ・・・?」
シャオはぎこちなく尋ねる。
「そう。こっちのチャムが、腹を空かしてるんだ」
「・・・基本的に酒場なので、大した料理はありませんけど、シチューなら私たちが夕飯に食べていたものでよければ・・・」
シャオがそう言うと、少女が片方の眉をわずかに上げた。
「それで構わない」少年はふうとだめ息をつき、頬杖を突いた。
ただの乞食には見えない。
そしておそらくただの人間でもない。
ユウはヴィシソワーズのようになったシチューの鍋を、カウンターに備えてあるコンロに運びながらそう思った。この酒場において彼らの存在はあまりにも異質すぎた。
その正体は全くわからないが、ただ彼らは不気味なほど存在感があった。
シチューを温めながら横目でちらと彼らを見る。
ユウがいる場所からは特に少女の姿がよく見えた。緑色の髪の少女。彼女はとても薄着だった。上はノースリーブで、丈の短いスカートをはいていて、白い手足を露出させている。この豪雪地帯に在るスノードーム・シティでそんな恰好をしている女は皆無だ。というよりそんな恰好をしていれば凍え死んでしまう。
「あなた、その恰好で寒くないの・・・?」
ユウが訊くと、少女は目だけ動かして、ユウを見た。
そして出されたナッツをつまみながら「寒くない」と素っ気なく答えた。
「おいおい、やせ我慢はよくねえな、お嬢ちゃん!そんな恰好じゃ寒いに決まってるぜ!」
その直後、不意に響く声。
ユウがそのほうを向くと、肩まで髪を伸ばした男が、赤くなった顔に、いやらしい笑みを浮かべながら、ふらふらと千鳥足で少女の方に近づいて行っていた。
男は、クロフルという名の常連だった。
すらっとした背丈の高い男で、いつも決まってフェルト帽と、染みがついた灰色のロングコートを着ている。『ボイルド』に来る客の中でも目立って酒癖が悪く、シャオが特に手を焼いている客の一人だった。
少女たちがやって来た時には当惑していた客たちも何かを察したらしく、クロフルの動向をうかがいながらにやにやとしている。
一方、少女は、クロフルの存在に気づいていないかのように、黙々とナッツをかじっていた。
「うわ、こりゃいけねえ。見てるだけでこっちが寒くなるぜ。どうれ、おじさんが暖めてあげるからねえ」
男は、自分の着ている染み付きコートを開き、少女を包むようにして、後ろからガバッと抱き着いた。
「やめ」
「いよウ!始まったぜ!」「流石だ!クロフルの旦那!」「そうやって手が早えから嫁に逃げられるんだ!ぎゃははは」
制止させるシャオの声は酔った男たちの野次でかき消された。
クロフルと呼ばれる長髪の男は下衆な得意顔で、ふふんと鼻を鳴らした。
「クロフル!」
シャオが血相を変えてクロフルを怒鳴りつけた。しかし、クロフルは、二人羽織のように少女をすっぽりと覆ったコートをもぞもぞと動かしながらにんまりと笑って言う。
「おいおいシャオ、この店の暖房が十分に効いてないのが悪いんだろ?お嬢ちゃんの恰好を見てみろよ。こんな薄着でかわいそうじゃあねえかよ。俺は善意でやってあげてるってのによお・・・ヘヘヘ。なあ?お嬢ちゃん。おじさんは暖かいだろう?」
クロフルはまたコートをもぞもぞと動かす。少女は何も言わない。クロフルがコートの中でどんなおぞましいことをしているかわからないが、ユウは苛立ちと不快感で顔を歪ませた。
店内の空気は、先ほどよりも澱んでいた。
囃し立てる傍観者たち。酒気を帯びた臭い。耳ざわりな喧騒。
これがユウの日常だった。
太陽が上がっているときは寝て、夜に一人になりたくなくてシャオと酒場で働く、繰り返しの毎日。この酒場のどんな光景にも慣れたはずなのに、不快なものはいつまでも変わらなかった。